開拓村・北広島への浸透 ~ 札幌の新しい宣教分野 ~
1927年 (昭和2年)、札幌修道院の地域社会への目覚しい浸透は、豪雪と原生林に埋もれた北広島の開拓村へ広がっていきました。ここに、早々と主のぶどう畑がつくられていった経緯を見ると、北海道の福音宣教がいかに開拓とかかわっているかが分かります。
開拓当時「札幌郡月寒村開墾地」と呼ばれていたこの未開地は、1884年 (明治17年) の広島県人25戸103名の入植によって「札幌郡豊平村」の「広島開墾地」となり、その後開拓の先駆者である和田郁次郎氏に招かれて入植した福井県、富山県、岩手県など他県からの移住者も広島県人の村作りに加わり、1893年 (明治26年)、開拓の成果が認められて、広島開墾に大曲島松を加えた人口2,020名の「札幌郡広島村」が誕生しました。村称命名に際して開拓長官は開拓中心人物の和田の名をもって「和田村」とする考えでしたが、和田氏はこの地が郷里広島県からの団体移住を以って一村とする計画だったので、郷里の名をとどめ「広島村」としたいと申し出、それが公認されたのでした。村人の精神的よりどころとして真宗本願寺派の寺と広島神社が建立されていますが、この時「カトリック教会」もその地に芽生えていました。
最初の広島県人の入植は、パリ外国宣教会が札幌の宣教に着手して3年後のことでした。函館で受洗した札幌在住の伝道士・大国元助の家に仮伝道所を開いて宣教活動を始めたフォリ-師は、この伝道士の姉妹家族が移住した広島開墾地へ札幌から5時間歩いて巡回し、1890年(明治23年)に、姉の黒森家と妹の石山家の9名を洗礼に導きました。この2家族が北広島最初のカトリック信者で、この信徒の家を基点に開拓地の人々の間に教えが広がっていきました。 その翌年、久野家が受洗し、信徒たちは和田郁次郎氏の厚意で借り受けた宅地に自分たちの手で司祭の住宅を兼ね備えた伝道所を作りました。 開拓の守護神として伊勢の分霊を祀り、神社仏閣を建立した広島村の創始者がカトリック教会にも場を提供したことに、宗教や文化や出身地を越えて協力しなければ生きていけない開拓者の現実とその精神が伺えます。このような土壌のもとに カトリック伝道所も発展していきました。
1893年 (明治26年)、フォリ-師の後任として北1条教会の主任司祭に着任したラフォン師が広島村の巡回を引き継ぎました。1896年 (明治29年)、伝道所は信徒の手で仮教会に建て直され、北広島カトリック教会の基礎が確立されました。その頃 岡山県から入植した林家と間野家が洗礼を受けています。1913年 (大正2年)信徒たちは、ベルリオ-ズ司教が地価の安いうちに購入しておいた現在の教会用地に手作りの小聖堂を建て、5月1日に献堂式を上げました。この日、信徒たちが司祭の常任をベルリオ-ズ司教に求めると、司教は同席していたキノルド師を指し示しながら、この方に頼むようにと勧め、自分も信徒と一緒に常任司祭の派遣をキノルド師に願いました。その結果、8月に司祭の住まいが完成し、初代主任司祭にフランシスコ会のヒラリオ・シュメルツ師が派遣されました。それ以後1949年 (昭和24年)までフランシスコ会司祭が常任していました。
入植した家族から新しい信者が次々と誕生し、司祭・修道者の召命が芽生えていました。北広島で受洗後、北1条教会ラフォン師の伝道士となった林恒衛の孫に当る林兄弟と中川兄弟は教区司祭になり、フランシスコ会を引き継いで北広島教会の司牧に務めました。パリ外国宣教会のラフォン師から幼児洗礼を受け、フランシスコ会のキノルド司教によって司祭に叙階されたこの4司祭の歩みは、当時の司祭召命の典型的なものでした。また、札幌修道院創設当初、本会に入会した広島村出身の.林京、久野イソヨ、黒森リクは 札幌知牧区が生んだ本会最初の修道女でした。
広島村からの要請は、天使病院に村の医療奉仕を求めて札幌修道院へやって来た村役場の代表者の訪問に始まります。1927年(昭和2年)、北1条無料診療所が開設されて4か月後の6月のある日、広島村から村の有力者6名が、札幌修道院を訪問し、村医の退村で医者がいなくなったので天使病院の医者を送ってほしいと院長に申し出ましたが、院長は即座にこの依頼に応じることが出来ませんでした。訪問と話合いが何度も繰り返された末、病院建設の要請に応じる前の対応として診療所の開設が7月に決定されました。その時の様子を6月の修道院日誌は次のように伝えています。
6日:信者でない5名の役場の人が依頼に来る。院長、共同体に特別な意向として
「この仕事が神の栄光になるなら、万事良く運ぶように」と祈りを求める。
8日:院長、キノルド師に6日の訪問者の依頼を報告:「村が望んでいることは、先ず診療所を開き、それから病院を建てるようにすること、出来れば病院のそばに他の施設も建ててほしい」と。キノルド師はこの話に乗り気で、即刻この話を進めるよう院長に勧める。院長、医者を探すように佐々木先生に依頼する。見つかるまで当分の間、北1条診療所のように、北海道大学の医師に週2~3日 広島村へ行ってもらうようにする。この計画がうまく運ぶように祈る。
9日:広島の村長(第8代村長:中村佐久弥)と村会議員数名、院長を訪問、佐々木先生も同席「出来るだけ早く今週にでも始めたい」とのこと。
10日:院長、広島村へ「家」の下見、開設の可能性を探り、準備に必要な物品調査
11日:院長、役場が用意した家を診療所にすることに決定されたことを共同体に報告。「この仕事は希望に満ちているが、きっと悪魔の怒りをかい復讐を受けるであろうから悪魔に邪魔されないように祈ってほしい」と祈りを共同体に求める。
12日~13日:院長、広島村の診療所開設の必需品を購入し、馬車で運んで貰う。
14日:院長、荷物を解きに広島村へ出かける。奇跡的にも薬品類、備品、家具は何一つ湿りもせず、破損もなく、届いていた。神のご加護というほかない。この新しい事業を見守っていただくために、ご絵、メダイ、会長の写真を置く。教会で村人たちと楽しい団欒の一時を過ごし、札幌へ戻る。
15日~16日:広島の村役場より手続きのために来訪。佐々木先生の尽力で北海道大学の医者が決まる。キノルド司教と打合せを済ませ手続き終了。
広島村にもフランシスコのように福音を伝えたいと日頃から望んでいたキノルド司教の指示のもとに看護シスタ-2名の週3回の派遣が決定され、天使病院の協力でこの村に無料診療所が開かれることになりました。時は、苗穂、東札幌、沼ノ端間に鉄道が開通して一年後のこと、広島村に設置された鉄道の駅は、広島市の広島駅と区別するため「北広島駅」と名付けられました。
1927年 (昭和2年) 7月18日、無料診療所開設の日、アポリナリア院長と看護シスタ-たち一行は、汽車に2時間揺られて小さな北広島駅に到着、村長をはじめ村民の大歓迎を受け、診療所へ向かいました。それは、広島県人を中心に輪厚川流域につくられた開拓当初の簡易教育所、社寺、巡査駐在所、役場、商店が並ぶ市街地にありましたが、あたりは見渡す限りの原生林と畑に囲まれた人口3,905人の小さな農村で、過酷な風土に耐え抜いてきた素朴な人たちが広い畑の中に点在して質素に暮らしていました。吹雪で汽車が走らず、苗穂駅で引き返さなければならないことも度々ありましたが、シスタ-たちの巡回訪問は定期的に行われ、北広島駅には、身体だけでなく心のケアもする一行の到着を待ち続ける村人の姿が絶えない程でした。次第に患者数も増加し、入院の必要な患者は札幌天使病院へ運ばれました。11月になると、吹雪のために足止めされる日が多くなったので、村長が用意した別の家に4名の看護婦が常住し、シスタ-の訪問は日曜日だけとなりました。こうして役場と村民の信望も厚く、信徒の協力の輪が広がるにつれ、カトリック教の浸透を好まない神社の人たちから妨害されるようになっていったのも事実ですが、キノルド司教に祝別されたこの家は、北広島教会の司祭と信徒の温かい配慮のもとで 安全に守れていました。