マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

History


 

 

 

 

 

 

ヘレン・マリ・ド・シャポタン、5月21日、フランス、ナント市に誕生
ナント市のクララ会に入会。そこでフランシスコの精神に捉えられ、それが彼女の霊性の地下水となる。翌年1月23日、彼女の一生のしるしとなる“十字架にはりつけられたイエスのいけにえなるマリア”という新しい名を心の奥深くに聴く。しかし、この強烈な霊的体験のために、健康を害し、クララ会での生活を続けることができなくなり、家に戻る。
マリ・レパラトリス会に入会。神はふたたび彼女を修道生活に呼ばれ、ここで彼女の生涯を象徴する修道名、マリ・ド・ラ・パシオン(ご苦難のマリア)を受ける。
Blessed Mary of the Passion (1839-1904)

マリ・ド・ラ・パシオン

宣教者としてインドに派遣される。修練期の終わる前に派遣され、土地の言葉であるタミール語を習得し、人々に尽くして喜ばれた若い彼女は、その後まもなくインドの管区長に任命された。しかし、10年以上の間のさまざまな体験の中で生じた誤解や困難により、会を離れざるを得なかった。その後、宣教に捧げられた修道会を創立するように聖霊は彼女を導いた。彼女の大きな望みは「誰にでもどこにでもキリストの愛を広めたい」ということだった。

18人の仲間とともにインドを去りローマに向かう。
マリアの宣教会の創立。時の教皇ピオ9世により公現の祝日(1月6日)に新しい宣教修道会の創立が承認された。
フランシスコの家族の一員となる。幼いときからフランシスコの生き方に強く惹かれていた彼女の望みがここに実現した。
修道会の名称が正式に「マリアの宣教者フランシスコ修道会」となる。
10月15日 5名の会員が日本での宣教の為に派遣される。当時の長崎教区、熊本地区長コール師(パリーミッション会)のハンセン事業のために、クザン司教から会員派遣の要請を受けた創立者は、長い迫害でフランシスコ会員の姿が消えてしまった日本への宣教を聖フランシスコの愛の招きと受け止め、5名の会員を派遣した。この5名は聖フランシスコの精神を再び日本へ持ち行く使命を帯びつつ、長崎において26聖人が殉教した後、最初のフランシスカンとして日本へ上陸した。
中国における義和団事件で、7人のFMMが殉教
11月15日、創立者マリ・ド・ラ・パシオン帰天。創立当時19人であった会員がこの時、2069人になり、世界中に24ヶ国、86の修道院となっていた。
  1905年4月7日、その前年に中国に派遣されたシスターマリア・アスンタが洞児溝の修道院で病死。その死の少し前からバルサムかスミレのようなよい香りがあたりに漂う。その不思議な現象に村の人々が大勢彼女の遺骸のもとに祈りのために集まり、その葬儀は天の国への凱旋のような盛大なものになる。
シスターマリア・アスンタ列福される。
多数の中国の殉教者とともに、7人の殉教者列聖される。
創立者マリ・ド・ラ・パシオン列福される。二十一世紀最初の総会。総会において今後6年間の活動方針として「強制難民、疎外されている人々、特に女性」を優先課題として選択した。
創立者福者マリ・ド・ラ・パシオン帰天百年、シスターマリア・アスンタ列福50周年 記念。創立者帰天百年にあたるこの1年間、総会の活動方針の一つとして、「強制難民、疎外されている人々、特に女性」と連帯しながら、世界77カ国のFMMが、祈りと活動のリレー「連帯の鎖」を実施した。
福者シスターマリア・アスンタ帰天100周年記念