マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

子ども時代

創立者マリ・ド・ラ・パシオンのフィオレッティ(小さい花-エピソードを伴った小伝記)を
連載いたします。

人となられた神の子イエスの子供時代について、聖書はあまり語っていませんが、 事実かどうかは別として、都エルサレムで両親からはぐれ、3日間母マリアを心配させ、はらはらさせたというエピソードがあるだけで、普通の家庭の子供同様に成長していったようです。

マリー・ド・ラ・パシオンは小さいときの名前を「ヘレナ」(フランス語ではエレン)といいました。彼女はとても恵まれた家庭に生まれ、フランス革命後の貴族階級に属し、5人兄弟の末っ子で愛情に包まれて育ちました。また才能と賜物も多く頂いていました。ヘレナの家族と叔母の家族が同じ館にすんでいましたので、母親、叔母そして、家庭教師によってきちんとした教養、宗教教育を受けています。でも、母親は、ヘレナが小さいときいつも彼女のことをとても心配していました。彼女は、いつもグループの主役、賢くてにぎやかでリーダーシップをもっていると同時に、第2のジャンヌダルクになることを夢見るほど非常に強い性格で、きかん坊だったからです。

ある日、いたずらの罰としてヘレナは読書を禁じられました。すると、彼女は早速、物語を自分で書き上げ、その本を抱えて誇らしげに家中を歩き回って言いました:「本を読んではいけないと言われたけれど、書いてはいけないとは言われてなかったわ。私が書いた本はとても面白いのよ!」 また別のとき、ヘレナは誤って一重ねのお皿を割ってしまい、母に厳しく叱られました。彼女は母が物に執着しているのを嘆かわしく思い、自分の貯金箱のお金を全部出して、母が見えるところに「これでお皿を買ってください」と書いて置きました。素直な従順な子供とはかけ離れていたこんなヘレナが、聖母マリアの神の望みへの従順と謙遜をあらわした「おことばどおりになりますように」をモットーに生き抜くように変えられたのは、ただ神の無限の愛によるものだったのです。
それでも、ヘレナの子供時代には、貧しい人々のために皆で何かをしようというきざしがみられます。あるとき、乞食ごっこを何度かして母に見つかった彼女は、幼友だちと一緒に貧しい人々に衣服を寄付する会を作り、会長、秘書を決め、自分は会計を受け持ちました。そしてこの会は2、3年続いたというのです。この組織化していく能力は世界宣教のための会を創立するという神のわざの道具となっていきました。