マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

自分に聴くには……〈固有の召命〉

内科医をしていると、毎日、たくさんの人に会う。
「咳が出て、熱があります」と訴える方は多いが、人によって期待していることは違うのである。

fl201619-1この薬を処方してくれればよい、と思っている方もおられれば、なぜこんな症状があるのか、よく知りたいので詳しい検査をして欲しい、と思っておられる方もいる。中には稀だが、「大丈夫」と言ってもらえれば検査も薬もいらない方もおられる。

つまり、薬さえもらえればよい人や、「大丈夫でしょう」と言っても、検査をしないと不満な方もいる。このように一人一人は違うのに、ほとんどの人が最初に話されるのは、「咳が出る、熱がある」などの症状だけである。

ここで、咳と熱以外の情報を聞き出すことが必要になる。これまでかかった病気、現在治療中の病気、まわりに同様の症状の人がいるか? などである。また年齢や今、外来で向かい合った様子も大切である。例えば20歳代の人と90歳の方では同じ38度でも違うし、少し顔を赤くした程度で活気のある方と、いすに座るのも苦しそうな方では違ってくる。

そして最後に、見立てと、今必要な検査、そして治療法をお話してから、わたしは
「これでよいですか? これ以外に何かお望みのことはありませんか?」と聞くようにしている。

fl201609-2それは冒頭に述べたように、来院する前から心の中に、はっきり意識するかどうかは別として、なんらかの「望み」があるからだ。すると、「ええ、是非、このような検査をしてください」とか、「薬はこれとこれが欲しいです」とか、「粉の薬はだめです」とか、聞かせてくれる。

このように、分かり切っているように思えることでも、一息つき、あらためて質問をしてみなければ、聞けないことがある。それは目の前の他人だけではなく、自分のこともそうなのではないか、と思う。

今から約20年前に、「固有の召命(しょうめい)」についての書かれた小冊子をいただいたものの、最初の数ページを開いたあとは、表紙が黄ばむまで本棚の中に放置していた。数週間前、本棚を眺めていた時、ふと右手の中指がこの小冊子を引き出した。そして今回は、最後まで一気に読んだ。

「固有の召命」という言葉から、どんなイメージを持つだろうか?

わたしにとって「固有」とは、二人と同じ者のいない「唯一無二、かけがえのないわたし」というイメージであり、「召命」とは「この世に生を与えられている意味」である。つまりわたしが今、生かされている意味であり、限りある生涯の間にできる限りこころを込めて行いつつ、生きなければならないことでもある。

それは何も社会の中で目立つことでないかもしれないし、何かを行うことでもないかもしれない。それでも、他の人には代行できない、独自の意味があり、託された責任がある、と思う。

わたしたち一人一人の「生きている意味」は、簡単明瞭に言い表すことはできない。何かを成し遂げるよりも、個々のユニークなありよう、に近い。誰よりもその内容をわかっているのは彼(彼女)自身であり、生涯を通してその人を生かし続けるように思う。

召命はすでに与えられているのだが、それを日々確認しながら育てつつ、揺るぎなく輝かせていくためには、細心の注意と忍耐を持って「自分に聞き続ける」なければならない。

自分に聴く、とはどういうことだろうか?

冒頭の例に戻れば、

「咳と熱? ああ、風邪でしょう。お薬、出しておきますね」

ではなく、少し「わたし」に話させるように水を向けてみるのだ。

「わたしのこと? よく知っているわ。短気で、それでいて気が小さくて、楽をするのが大好きで……」

他人から自分の欠点を言われたら不快なくせに、自らを批評する言葉は、多くは否定的で、かなり辛辣だ。そうではなく、こんな質問をしてみるのだ。

「わたしは今日、穏やかだろうか? 楽に息ができるだろうか?」

「どんなとき、おもわずにっこりしてしまうだろうか?」

fl201609-3苦しいことや避けたいことがない日はないだろう。それでも自分のこころの深奥から、ふつふつとわき上がる清水のような喜びがあるのではないだろうか?

植えた種が発芽する音は聞こえない。若枝の先から開いたばかりの柔らかい葉に気がつくのは、朝起きたときである。わたしたちにできるのは、立ち止まり、少しにっこりして、「すごい。がんばっているね」とささやきながら、水を注ぐことだ。 (Sr. M.O)