マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-40

本格的に動き出したFMMのカトリック病院設立案 

東京教区の年表によると、この教区に国際的なカトリック病院設立の動きが具体的に動き始めたのは1925年、戸塚師がパリで司祭に叙階されて帰国した年でした。東京にも「神の家」を建てることを心に決めて4年ぶりに故郷へ帰って来た戸塚師と共にヴァイオレットとロ-ズの姿もありました。帰国前に戸塚師は、毎日「一緒に働いてくれる人をください」と神に祈っていましたが、神が与えてくださった協力者がこの英国女性であったとは誰が想像したでしょうか。誰もがこの同行に反対していただけに 驚きを隠せませんでした。6年間脊椎カリエスで身動きも出来なかったヴァイオレットまでがロ-ズとともに来日したのです。その理由を求められてヴァイオレットはこう答えました。「ある日、ロンドンの聖堂でルルドの聖母に祈っていると、急に病気が奇跡的に治りました。もし病気が治れば、半生を日本のために働きたいという切実な願いがそうさせたのです」と。ところが来日2年後の8月、元気なロ-ズの方が急性肺炎で先に天に召されてしまいました。遺言状により遺産の一部は戸塚師とヴァイオレットに、一部はロンドンのFMM修道院に与えられました。ロ-ズの願いは、東京にFMMの病院を設立することでした。その年の12月、戸塚師はサン・ミッシェル会長に手紙を書いています。

《3年前にグロッタ・フェラ-タでお会いした日本人司祭 戸塚神父のことを覚えていらっしゃると思います。今 こうして故ミス ヴィックネル最後の望みをお伝えするために一筆したためている私が、その神父です。ミス ヴィックネルは、イエズスのローザと呼ばれていたフランシコ会第三会の会員で、FMMのロンドン修道院の在世アグレジェでした。東京にカトリック病院を開く私を手伝うために、同じアグレジェだったヴァイオレットと一緒に日本へ来ていました。ところがロ-ザが8月に急逝してしまいました。既にご存じと思いますが、その遺産の一部をロンドンにあるFMMの修道院に残しました。故人はこの病院をFMMに創設してもらいたいと心から望んでいました。私は この方の最後の願いを 近々着座されるシャンボン大司教様にお伝えしょうとその到着を心待ちしております。大司教様からも会長様にお書きくださることと思いますが、生前故人が切に望んでおりましたこの願いをかなえて頂ければ 誠に幸いです。》

時の東京教区長がパリで親交のあったシャンボン大司教であったので、戸塚神父は、早速病院建設に乗り出しますが、会長から返事があるまで将来の方針を立てかねていました。スラム街で働くことを夢見ていた自分の道を進み、 自分の理想とする聖ヨハネ病院を建てたいと望む一方で、本会が日本に来て東京に大病院を建てるなら、当然その病院のため大いに協力しようと待機していました。 

シャンボン大司教から本会に寄せられた東京修道院創設の要請

1928年(昭和3年)、サン・ミシェル会長が戸塚師の手紙を受け取って一か月後に、今度はシャンボン大司教から東京修道院の創設を要請する2月8日付の手紙が会長のもとに届きました。それには「フランシスコ会第三会員」の署名が書かれていました。

《東京大司教区は長い間 カトリック病院の必要性を感じてその実現のために何度も試みてきましたが、今まで成功したためしがありませんでした。2年前カトリック司祭で医師の戸塚師が英国婦人の援助のもとに、長年待望していた病院の芽生えと言えるような診療所を建てました。この婦人はロ-ズという方でフランシスコ会の第三会員でしたが、昨年(1927年)東京で亡くなりました。彼女はロンドンにあるあなたの会の修道院に遺産の一部を残したということです。あなたの会は、既に、北に札幌修道院、南には熊本にハンセン病院があり、病院に経験のあるシスタ-方もいます。その中央にある東京に修道院があれば、北と南を結ぶ「絆」になるでしょう。東京大司教区が長い間待ち焦がれてきたカトリック病院を建ててくださいますようお願いいたします。》

1927年、いよいよ国際的なカトリック病院設立の構想がシャンボン大司教によって具体化されていきますが、これはシャンボン大司教にとって東京教区長として最初に取り組む仕事になりました。シャンボン大司教が本会にこの事業を要請した時、パリ外国宣教会総長のゲブリアン司教も 駐日教皇使節のマリオ・ジャルディニ大司教も会長にこの要請を受諾するように極力薦めています。当時本会にとってこの要請に応じることは 到底不可能と思われる程、第一次世界大戦後の荒廃と病人の続出、さらに経済恐慌でひどい人手不足と財政困難の渦中にありました。しかし会長は、国内外を問わず行き場のない貧しい人たちの救済のために、また、国の中心地に修道院があれば、将来大いに役に立つであろうと考え、受諾を決意しました。やがて、東京国際聖母病院の経営を承諾する旨の手紙が1928年(昭和3年)4月4日付で東京大司教館に届きました。駐日教皇使節のマリオ・ジャルディニ大司教は、「私は東京にカトリック病院が建つ日を6年間待ち続けてきました。あなたがその新設計画に着手してくださることを知り、とても嬉しく思います。」と、励ましの手紙を会長に書いています。

戸塚師は、会長から承諾の手紙を受け取ると直ちにその準備に取りかかりました。先ず、ヴァイオレットと一緒にシャンボン大司教を訪問し、今後とるべき事柄について相談しました。その後、シャンボン大司教も、中国にいるクリゾストム管区長と頻繁に手紙を交わしながら、このプロジェクトに対する考えや要望を相互に出し合いました。しかし、このプランが実際に動き始めるには管区長の日本訪問の日まで待たなければなりませんでした。