マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-39

戸塚文卿師を導いた摂理的出来事による、本会とフランシスコ会の東京進出

戸塚青年と神との出会いで最も大きな影響を与えたのは、先輩で代父の岩下壮一師でした。暁星、一高、東大と、二人は カトリック教会の前途有望な青年として同じような路線を歩んでいました。「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」の創立もヨ-ロッパ留学も、歩みを共にしてきたのです。ロンドンに留学中の岩下青年は神学と哲学に、医師としてパリに留学中の戸塚青年は医学研究に専念しながら、二人はロンドンとパリを舞台に親交を深め、日本の社会にカトリックの精神とその教えを広めたい一心で、日本の宣教を目的とした「ボン・サマリタン」の会を作る計画を立てていました。その理想は、聖書の「善きサマリア人」のように国籍、文化、宗教を問わず助けを求めて来る人を誰でも分け隔てなく受け入れる「神の家」、つまり学校や病院のような事業を作ることでした。しかし、この二人には決定的な違いがありました。それは、岩下青年が司祭職への道を選んでいたのに対し、戸塚青年は司祭職への招きの声に耳を貸そうともしなかったことです。

ローズと、ヴァイオレット

ローズとヴァイオレット

ところが、そのような戸塚青年の心を動かすほど思いがけない出来事がロンドンで起こりました。その一つが彼をフランシスコ会第三会入会へ導いた「元FMMのロ-ズ」との出会いでした。ロ-ズは富裕な女性で、病弱のため本会を退会し、その後も在世アグレジェとしてロンドンの修道院を経済的に援助しつつ、脊椎カリエスで病床に伏していたヴァイオレットの身の回りの世話をしていました。この英国女性も発病してクララ会を退会していました。退会後、二人とも修道名と修道服をそのまま保持しつつ、ロンドンのアパ-トで聖フランシスコの精神に徹した「修道生活」を続けていました。罪人の回心と司祭召命のため、また、日本の宣教に尽くすという目的で厳しい苦行と祈りを捧げる二人のもとに、聖職者をはじめ日本と関係のある人たちが集まり、そこにフランシスカン・ファミリ-が自然に作られていきました。ここに「ボン・サマリタン」の理想を見ていた岩下青年も、その一人でした。夏のある日、休暇でパリからロンドンへ来ていた医師の戸塚青年は、岩下青年の願いでヴァイオレットの診察に出かけました。このことをきっかけに戸塚青年は聖フランシスコの精神にすっかり捉えられ、常に、聖フランシスコの精神に燃えて生きていきたいとの思いから、フランシスコ会第三会に入会したのでした。

もう一つは、彼にパウロ的大転換をもたらしたFMMのコ-ルダッシュ修道院の院長との出会いでした。これは、司祭への招きの声を執拗に振り払っていた戸塚青年を、司祭職へ大転換させた奇跡的な出会いで、これもロンドン滞在中の出来事でした。「旋風に巻かれたように、方向を大転換してしまった」この出会いについて戸塚師は「戸塚神父の伝記」の中で自らこう語っています。

戸塚神父とヴァイオレット

『僕は、岩下君の招きでパリからロンドンへ 来てしまいました。それから大学に辞表を出して、司祭になる決心をしました。僕のこの変化は、自分自身でもあまりにも不思議です。岩下君は僕に「完全な生活に入れ」という手紙を何度も繰り返しくれましたが、その都度僕は自分の天職は司祭になることではないと返事しました。余りしつこいので腹を立てていました。8月の末、岩下君の言葉に乗せられて一週間の予定でうかうかと英国に遊びに来てしまいました。その時、ロンドンから50マイル離れた所にあるコ-ルダッシュというフランシスカン尼院に行きました。そこである人に会いました。若い聖女でした。僕の目は生きている聖徳を見ました。そして、僕の耳には主のみ声が雷のようにとどろきました。もう万事を棄てねばなりません。これが僕のベケ-ルング(転向)の話です。僕は2~3年当地に滞在してから日本に帰り、東京にカトリック病院(神の家)を建て、そこで医者として司祭として働くつもりです。僕は、毎日そこで僕と一緒に働いてくれる人をくださいと神様に祈っています。』

コ-ルダッシュのFMM修道院で戸塚青年に「電撃的な感銘を与えた若い聖女」とは宣教経験の豊かなフランス人のM. アニュエルのことでした。このシスターは、戸塚青年と会った時のことを振り返ってこう話しています。「コ-ルダッシュの修道院のシスターたちは 彼の司祭召命のためにとても熱心に祈っていました。神がその祈りに応えてくださったことを深く感謝しています」と。事実、アニュエルは、この青年の司祭職転向後も、戸塚青年がロンドンで、ロ-ズとヴァイオレットと一緒に作った「ボン・サマリタン」の会を終始訪問し、そこに集まっていたフランシスカン・ファミリ-と交流していました。

日本では、既に帰国していた山本信次郎氏が、戸塚青年の転向によって起こる様々な問題を一つずつ解決していきました。「ベケ-ルング」後、彼はパリに戻り司祭職を目指して勉学に没頭しますが、郷里の東京で病院の設立計画が出されたのは1922年(大正11年) の頃です。「戸塚神父伝」はこう述べています。

山本信次郎氏

『大正11年頃より、麻布のカトリック婦人会の有志たちは、ツルベン神父の指導のもとに愛徳姉妹会という病院経営に当たる修道会をヨ-ロッパから招いて、カトリック病院を建てようという遠大な計画をもって帝国ホテルでバザ-などの催しを度々行い、相当多額な資金もできて、病院も建てられそうな気配であったが、この修道会を招くことが難しそうになったので、フランスに帰国して、パリ外国宣教会に勤務中のシャンボン神父に手紙を書き、「戸塚先生が神父になって帰国して病院を建てるなら大いに後援する」旨を伝えた。』

当時、山本信次郎氏の千代子夫人が会長を務めていたこのカトリック婦人会は、カトリック教会の神学校や社会事業を陰で支える存在でした。