マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

雪の朝

四歳から小学校二年まで新潟に住んでいた。父が勤めていた会社の社宅は校区のはずれにあり、表通りに出てバスに乗っていけば、学校まで、二つか三つ目だったが、「車の通りを横切るのは危ない」という母の考えによって、私は家の前から学校の裏門まで伸びる裏道を歩いて通った。

道の右側はうっそうと暗い松林が続いていた。子供一人で松林に入ることは禁じられていたので、毎日、横目で見るだけだった。休みの日に父とともに入っていくと、薄暗い林を通り抜けた向こうは寒い色をした海だった。

東京の中野で生まれた私が雪国に引っ越したせいか、幼稚園は一日行くと、二日は病気で休んだ。気候が合わなかったのだろう。小学校にあがると、雪の日も家の前から学校まで続く道を歩いていくだけの体力がついていた。

私は雪の朝が好きだった。赤いフードのついたジャンバーを着せられ、ミトンの手袋、長靴を履いて出発するとき、いつもよりハイな気分になっていた。これから「大冒険」に繰り出す興奮を楽しんでいた。

家の木戸を出るとすぐ、細かい白い粒がひっきりなしに顔に吹き付けて来た。前を見て歩くことが出来ないので、目を伏せ、足元を見て歩いた。傘は差さない。フードですっぽり頭をおおい、両手は空けておく。何度か転んだが、そのころは骨も体も柔らかだったのだろう。あまり痛くもなかったし、何より、転ぶことを怖れていなかった。

小学校に着くと、各教室に据えられた石炭ストーブが、すでに明々と燃えていた。まだ昭和三十年代のころだ。ストーブの周りには棚が設けられており、そこに母から持たされた弁当を置く。昼には暖かくなっていた。

中学生になったころには、行動するより先に、「これはうまくいくだろうか?」とか「失敗したらどうしようか」と考えるようになった。

今の私は、雪の日に出かけなくてよいように予定を変えるか、車に乗って行こうとするかもしれない。大人になるとは分別をつけ、危険を避けることを学ぶことでもあるが、何かつまらない。

小学生の私は「雪道では転んで当たり前」と思っていた。靴底が滑ったら逆らわずに、そのまま転ぶ方がよいことも知っていた。そのたびに「私ってなんて上手に転ぶのか!」と一人で悦にいっていたのだ。何とも微笑ましく、たくましい。

せっかくつけた分別を使わない手はない。それでも「冒険」や「挑戦」を楽しむこころを思い出すと切ない。今となってはもう手に入らないが、そのころの爪の垢を煎じて飲みたいものだ、と思う。 (Sr. M.O)