マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-26

危機に立たされた北海道のフランシスコ会

第一次世界大戦の波は、漸く日本における宣教活動の基盤を築いたばかりのフランシスコ会にも押し寄せてきました。当時の状況について、フランシスコ会の史料をもとに更に詳しく見ていくことにします。

長い殉教・迫害の時代を経て兄弟のいなくなった日本に、宣教再開のため総長から派遣されてきたドイツ・フルダ管区出身のヴェンセスラウス・キノルド師とカナダ管区出身のモ-リス・ベルタン師は、いずれも国籍の故に開戦と同時に戦争に巻き込まれてしまいました。

フランス国籍のモ-リス・ベルタン師は、本国の国民総動員令により本国への帰還命令を受けて強制的に宣教地から引き離され、宣教地に残ることのできたドイツ国籍のヴェンセスラウス・キルド教区長とフランシスコ会士たちも、一か月後に起きた日本の対ドイツ宣戦布告によって、日本政府の厳しい監視下におかれてしまいました。フランシスコ会の宣教活動が札幌地区と函館の亀田および室蘭、倶知安、白老のアイヌ地区で成果をあげていた矢先のことでした。 

世界大戦が本会の上に及ぼした影響

寄る辺ない貧しい人々へ授産所の開設 予防から社会復帰まで一貫した医療活動

寄る辺ない貧しい人々へ授産所の開設
予防から社会復帰まで一貫した医療活動

この戦争で日本のFMMはどのような影響を受けたのでしょうか。当時、日本には、熊本、人吉、久留米、札幌の4か所に共同体がありました。どの共同体も、貧しく病む人々に医療を施す病院だけでなく、身寄りのない子供や老人の施設、女性や障害者に職を与える授産施設など、様々な社会事業も手掛けていました。共同体の公式訪問を終えて、ステファナ管区長が日本の共同体をコロンブ副管区長に委ねて日本を離れたのは1914年(大正3年)5月、戦争勃発の3か月程前でした。イタリアのトリノに滞在中の管区長から受け取った手紙では戦争など想像もつかないことでしたが、その直後に起きたドイツのベルギ-侵略ではベルギ-出身の管区長はベルギ-から避難してきた子供たちの世話のため急遽フランスへ行くことになりました。戦乱が欧州全体に広がっていったのでした。

このように、日本の共同体には戦争の影響を直接受けた形跡はなく、むしろ 事業の充実を優先させて後回しにしてきた修道院や聖堂の新築が実現したことを喜んでいました。ところが、日本の対独宣戦布告で外国籍の会員のいる共同体に戦争の影が忍び込んできました。ドイツ国籍の会員に対して警察の厳しい取り調べが始まったのです。特に、札幌修道院の周辺には外国籍の人が多く住む北海度大学やフランシスコ会の教会などがあったために、ドイツ人の姉妹たちも警察の標的になっていたようです。ある日、突然数名の警察関係者が修道院にやって来てドイツ人の姉妹の個室に入り込み、手紙や書き物だけでなくあらゆる持ち物を荒々しく広げてスパイ行為がないかどうか調べ、修道院の玄関では警察官が修道女も一般の人も出入り出来ないように見張っていたのです。何も疑わしいものがないと分かると、それ以上何事も起こりませんでしたが、このような取調べが度々繰り返されていました。

熊本と人吉では、日露戦争の時ロシア兵のポ-ランド人が大勢収容されていた捕虜収容所に 大勢のドイツ兵が送られてきました。姉妹たちは日本に残された連合国の家族や捕虜となった対戦国のドイツ兵など、カトリックとプロテスタントの区別なく戦争で苦しむ人たちの痛みを共にしつつ、捕虜収容所や留守家族を訪問して歩き、修道院に子供を連れて来た母親には遊び場も提供していました。誰もがコロンブ院長から聖母マリアのメダイを喜んで受け取り、大きな慰めを得ていました。

どの共同体でも姉妹たちはヨ-ロッパや中国から届いた手紙を頼りに欧州戦争の実態を知り、祈りで世界中の会員と結ばれていました。特に会長や管区長からくる手紙には、想像を絶する戦争の悲惨さや会員の安否を気遣う会長の思いが綴られており、時には欧州にいる姉妹たちの「小さな言葉」も同封されていました。ところがそれも1916年(大正5年)頃からぴったり来なくなったので、コロンブ院長がある消息筋を通じて調べてみると、海外からの手紙は役人に読まれ配達されないままになっていることが分かりました。これは共同体にとって大きな犠牲でしたが、この犠牲を戦争が一日も早く終結するようにとの願いを込めて捧げました。しかし益々大きな破壊力を発揮する近代兵器の登場で戦争の悲惨さは増し、姉妹の兄弟や親戚が欧州やアジアの戦場で戦死したという悲しいニュ-スが入ってくるようになりました。そして、思いがけなくも手にしたのが会長帰天の訃報でした。

1917年(大正6年)4月、会長の帰天を知らせる電報が日本の共同体に届きました。Mコロンブはベルリオ-ズ司教に「私たちの歩みを導く星、私たちの弱さを支える強い腕、確かな導き手であった会長」の帰天を知らせると、司教は「この偉大な会長様は、ロシアと極東を結ぶことを考えておられたのに」と、まだ若い会長との別れを心から惜しみました。

そして、札幌の院長Mグアダルペにも手紙で次のように書いています。

 

会長様のご帰天はなんと大きな試練でしょう!未だ お若く熟練した

修道会に新たな発展をもたらす働きがおできになると期待出来る方で

した。ロシアから頂いたお手紙の中では極東とロ-マをつなぐため

シベリアに沿って一連の修道院を創設することを夢見ておられました。

この会長様は出会うすべての人になんと言う香り高い教訓を残された

ことでしょう!札幌の「天使の聖母」修道院創設のためお知り合いに

なれたことは 私のささやかな人生の中で大きなお恵みの一つでした。

この修道院は若い知牧区の最も美しい宝の一つであり、私が主の裁き

の庭に立つ時、主の哀れみを受ける資格を与えてくれることと喜びを

もって期待しています。         (1917年4月28日)

第二代会長M.レダンプシオン

第二代会長 M.レダンプシオン

確かに Mレダンプシオンは創立者念願のコンスタンチノ-プルとロシアに修道院を創設し、本会の世界宣教に大きな弾みを与えたのでした。また、生前創立者の片腕となって会の発展に貢献し「創立者のエコ-」と言われ、その精神を会員に伝えることを願ってやまなかったM レダンプシオンによって本会が創立者列福調査の第一歩を踏み出せたことは最後の大きな喜びとなりました。1917年(大正6年)4月21日、Mレダンプシオンは創立者が最後の日々を過ごしたサン・レモの修道院から天国へ旅立ったのです。