マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-21

札幌天使病院の開設

札幌の共同体と事業計画をキノルド師に一任してマドレヌ・ド・パジ管区長が札幌を去ると、直ちにこの計画は実行に移されました。本会が既に購入していた北12条の病院用地に建材が運ばれ、工事が開始されたのです。共同体が住んでいた北3条の木造の家も 病院の建築資材として使用されるために壊され、シスターたちは北15条の借家へ移り住みました。 

その一方で、札幌訪問を終えて熊本に戻った管区長は、病院の開設に備えて グアダルペ院長と看護婦の資格をもつシスター パンクラチオを熊本に呼び、熊本と人吉の施療院で日本の病院運営と日本語を学ばせようと考えました。「その日暮らし」がやっとの共同体に旅費など出せるはずがありませんでしたが、幸い キノルド師の援助で 二人は1213日に出発することができました。その翌年1911(明治44) 7月、二人が札幌へ戻ってきた時、共同体は北15条の借家で 病院に必要なシーツ、布団、枕、カバー、看護服などの縫物で多忙な毎日を送っていました。キノルド師は、札幌にあるどの病院にも劣らない病院を建てようと細かいことにも手抜きせず、難しい役所の手続もこなしながら 建築を見守っていました。また、未だ日本語もよく理解していないと心配する共同体のために、キノルド師は「最初の56年間、自分が病院長職を引き受け、出費や役所との交渉など経済的法的な面で全責任を負う。但し、この病院が経済的に自立した時には 修道会を事業主とし 修院長が病院長になって、自由にこの病院の管理運営に当たる」という申し合わせを本会と交わしていました。 

910日、見渡す限り広大な畑の中に 無料の外来病棟と10床の入院病棟が完成しました。開院式を前に キノルド師は「天主公教会」の名のもとに「天使病院開院」の広告を新聞に掲載し、ビラも配り、5000人程しかいない札幌村に知らせています。このキノルド師について、修道院長のグアダルペは会長に次のように伝えています。  

この方は神に選ばれた真の道具であり、神の栄光のために働かれます。
本当に、なんと素晴らしい神のはからいでしょう!
3年前、私たちが日本へ来た時には資金も仕事も何一つ持っていませんでした。
それが、突然、神は何もないところから美しい病院を作って下さったのです。 

1911(明治44) 915日、病院の祝別と開院式を行ったベルリオーズ司教は会長のMレダンプシオンにこう書きました。「これで ようやく札幌にいるあなたの最愛の娘たちにも 愛をもって献身的に奉仕する宣教活動の場ができました。 1906年に私たちが交わした約束を 神様は どれほど豊かに祝福してくださっていることでしょう」と。確かに1906(明治39) 以来、司教と会長の共同作業は 絶え間なく続き、世界中から寄付金が送られてきていました。なかでも アントワープのティメルマンス嬢は大恩人の一人でした。その恩に報いるために、彼女の名前を書いた板を病院玄関に掲げて写真をとり、彼女とその家族のために祈ることを約束しました。 

病院の落成と同時に 病院の狭苦しい屋根裏部屋に引っ越してきた
札幌の共同体はフランシスケンらしい貧しさの中で 聖体の主と共に生活できることを喜びました。暫らくの間、語学や刺繍や料理の先生を続けながらフランシスコ会の兄弟たちと一緒に患者や貧しい人たちの相談相手となり 精神面で援助していました。天使病院は キノルド師のもとで 医療施設のない札幌村の人々の必要に応じて徐々に発展していきました。無料で治療を受けられる外来には 相変わらず 貧しい開拓民が大勢 殺到していました。当時 栄養失調のため結核や伝染病にかかる人が多かったので、
1912年(大正元年)には 隔離病棟と結核病棟の増設、道路・河川・橋などの開拓工事で けが人が続出したこともあって1913年(大正2年)には 外科・手術室の増設、そして1914(大正3) 1915年(大正4年)には 待望の聖堂と修道院が病院の横に新築されました。それでも、患者の大半が医療費を払えない貧しい人たちでしたから、共同体の生活は 相変わらず 不安定で貧しいものでしたが、宣教熱に燃えて無償で人々に奉仕する姉妹たちの回りに北海道の各地から若い女性信者が集まって来るようになり、姉妹たちのよき協力者となっていきました。こうして、キノルド師を宣教師団長とするフランシスコ会の宣教活動は大きな輪を描いて広がり1915年(大正4年)に フルダ管区に編入した北海道のフランシスコ会の司牧地域が知牧区となり、第一次世界大戦後には代牧区へと発展しています。摂理的にも 本会を通して起こった不思議な出来事がこの扉を開く鍵となったのです。