マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

シスター アポリナリアの思い出

1963年9月、有期誓願式後から、私はSr.アポリナリアの共同体に入れて頂き、良いお手本を見せて頂けたことを深く感謝し思い出をわかちあいます。最初の面接で見つめられた銀色の瞳に、小学3年の夏休みの終わり頃、中国済南市でお目にかかったことを思い出しました.。

札幌天使病院で始まった「天使園」で学童を送り出すM.アポリナリア

25年前の1938年、私は近所の子供たちに誘われて、社宅の斜め向いにある中国人のミッションスクールの礼拝堂に行きました。白いドレスの花嫁さんが赤い絨毯の上を歩き、後ろに大勢の人が続いていました。子どもたちがワイワイ、ガヤガヤと騒ぐので、振り向かれた方がいました。その方は、黒いベールに、顔は白い布で殆んど見えず、銀色の瞳がチラッとだけ見えました。グレーのマントは裾まで長く、その他のことは記憶に残っていませんでした。私は母に「何をする人?」と聞き、「神様にお仕えして居られる方よ」と言われましたが、わかりませんでした。その方がSr.アポリナリアだったのです。

1963年に話は戻りますが、草取りをしておりましたら、Sr.アポリナリアが「Sr.ジタ中村とあなたは、どうして中国語で話しませんか」と言われました。横にいらしたSr.ジタ中村に「中国のどちらにいらしたの」と伺うと、「済南」と答えられたので驚きました。「お家は?」とまた問いかけ、「中村農園」との答えに再び驚きました。Sr.中村のご家族とは不思議なご縁で、引揚も同じグループだったのです。

私が1970年、種子島に派遣された時、責任者のSr.宮沢が熊本の思い出話にSr.アポリナリアの話をして下さいました。Sr.アポリナリアは愛徳の深い方で、宣教活動から帰院するとお部屋にキャンディが置いてあり、疲れが消えるほど嬉しかったそうです。細やかな心遣いをなさる方でした。

その後1974年、台北に派遣された私は、ご復活祭の日本語ミサでフランシスコ会(OFM)のドイツ人の神父様にお目にかかりました。神父様は「私も済南に居りました。OFMは男子の孤児、隣のFMMは女子の孤児を預かり、院長のSr.アポリナリアは寛大でOFMはずいぶん助けられました。」また、「地域の中国人たちから愛徳の聖人と噂されていました。」と付け加えられました。その時私はFMMとして誇りを感じさせて頂きましたし、済南でお目にかかったことが事実であったとの確信が得られたことは、この上ない喜びで、大切な思い出となりました。

オブラ-ト志願者とMアポリナリア(左)

過日、管区の歴史を読みましたら、Sr.アポリナリアは1922年頃から札幌におられ院長をされていました。その頃の思い出を伺ったことがあります。天使病院の結核病棟が離れていて、屋根のないところをお盆で運ぶと雪が積もり、患者さんに冷たい食事を運ぶのが辛かったと話してくださいました。私は、ご自分の寒さより患者さんを思う愛深い心に感動いたしました。

ご帰天の1ケ月くらい前だったと思いますが、食器を洗うSr.アポリナリアにSr.テオフィルダが「シスター、無理をなさらないで下さい」と言われますと「私は、無理をするために修道生活を選びました」と答えられ、姉妹たちは深く感動しました。病床につかれてからも、時々廊下まで美しいお声の讃美歌が聞こえ、まだまだお元気のようだと私は嬉しゅうございました。7歳の時、ドイツの教会で讃美歌「きよしこの夜を」独唱されたと伺いました。

中国でも日本でも(当時は同じ管区でした) 多くの人々に慕われたSr.アポリナリアのお祈りは必ず神様に聞き入れられたと思います。その証にSr.荒尾、Sr.ジタ中村、Sr.ゴレッテイ中村、祈りを知らなかった小学3年の私まで召命のお恵みが頂けました。Sr.アポリナリアのお祈りによって、数えきれない人々が救われたことでしょう。