マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

どうしてFMMに? Sr. 筑摩 輝子の巻

シスターは現在日本管区中のシスター方のスーツやスカートを縫ってくださっていますが若い頃から洋裁で身を立てようと思っていらしたのですか?

chikuma4 洋裁をしていたのは女学校を卒業してから。私の家族は大阪に住んでいて、空襲が激しくなってきたので、京都に引越ししました。けれど当時は学徒動員の時代で、私は大阪の特攻隊の真空管を作る工場に通いました。女学校を卒業したら軍事工場に行くのが普通だったのですが、私は行かずに銀行に勤めていました。間もなく終戦になり、父が学校に行くようにと言ってくれて、「酒井女子生活科学学院」が丁度創立されたのでそこに入りました。1年目は普通の学科を学んだのですが2年になると研究科と師範科のどちらかを選ばなければならなくなり、先生にはなりたくなかったので、研究科を専攻しました。この学校の隣りが『京都ホテル』で進駐軍の宿舎になり、将校たちの家族が住むようになりました。アメリカ人の奥さんたちから服を作って欲しいと頼まれ、先生のご主人が画家でデザイナーだったこともあり、注文が殺到するようになり、「手伝って欲しい」と声が掛かりました。数人の仲間たちと学校に残って働き、洋服をたくさん縫ったり、イブニングドレスを作ったりもしました。

卒業後は仲良し3人、離れたくなかったので学校に残ることにしたのですが、「縫い方を研究するから、これをほどいて・・」とそんなことばかり先生から頼まれ、働かされるのに嫌気が差して、2年後にはやめることにしました。

父の友人が京都の四条大宮に店を持っていて、そこを借りることにして、仲良し3人で「シスター」と言う名の洋裁店を開きました。けれども終戦後間もない頃だったので、生地なども余り手に入らず、その洋裁店は余り長続きはしなかったのですが・・・。

 

カトリックとはいつ出会われたのですか?

chikuma2 仲良し3人の一人がカトリック信者になって教会に行こうと誘ってくれて、3人で教会に行くようになりましたが、余り興味はありませんでした。実は母は病身で、若い頃から入退院を繰り返していました。そんな母を父は非常に良く世話し、また一人っ子の私を本当に可愛がってくれていました。その母が10歳の時に亡くなりました。亡くなった母は焼かれてしまった後は、本当にどうなるのだろう?と真剣に考えていました。「お母さんはお星様になったのだよ」と言われて、夜空を見上げてもピンときません。そのような思いをずっと抱えていた所に、カトリックの教えで「霊魂は不滅だ」と教えてもらい、「これだ!」と心底思えたのです。それからは熱心に教会に通うようになりました。

 

そして洗礼を受けられたのですね。お父様は反対されなかったのですか?

若くして妻を失った父には再婚を勧める方が何人もいたようです。父も、私のためにもそのほうが良いと思ったのでしょう。「新しいお母さんに来てもらってもいい?」と私に聞きました。私も寂しかったので、「いいよ」と言いました。今考えると本当に父は私の意見も聞きたかったのでしょう、父は私を何処にでも連れて行きました。再婚のお見合いの席にも私を連れて行きました。最初にお会いした人は私が「いや」と言ったので、止めになりました。二人目の人は優しそうで、母に似ていて、この人なら・・・と思い賛成し、お話しがまとまりました。お母さんにとっては迷惑なことだったと思うのですが、二人の新婚旅行にも、私はついてゆきました!妹たちも生まれ、家庭は賑やかになって行きました。

教会に出入りするようになり、洗礼を受けたいと言った時、父は反対し、許してくれませんでしたが、キリスト教を学び、霊魂は不滅だという真理を確信し、両親には内緒で洗礼を受けました。

その頃レジオ・マリエが出来それに入り、「マリアによってイエスへ」のモットーのもと熱心にロザリオも唱え、教会活動に参加していました。父は次第に黙認してくれていました。

 

修道会に入ろうと思ったのは?

 同じレジオ・マリエに入っていた方たちとメリノール会のシスターのお手伝いをするようになっていました。レジオの仲間たちが次々修道院に入るので「どうしてシスターになるの?」と質問したら、「聖人になりやすいから」との答えでした。純情だった私は、わたしも聖人になりたいと思い、必死になって祈っていました。何処の修道会に入ればよいのかも解らず、京都にある修道会を訪ねましたが、心が引かれず、メリノールのシスターが阪神地区の修道会に連れて行ってくださいました。あちこち行って疲れて、もうあきらめようと思った時、最後に夙川にあるマリアの宣教者フランシスコ会に連れて行って頂きました。通されたのはボロの応接間で正面に創立者マリ・ド・ラ・パシオンの大きな写真が飾ってあり、つぶれそうな椅子に座りました。そのお写真を見ているとその方が「ここにいらっしゃい」と言われたような気がして、「ここだ」と思いました。院長様はとてもご親切で、会の本を何冊か貸してくださいました。もちろん父母には時には嘘をついて、修道会調べをしていました。入会の意思があることをシスターにお話ししたら、「管区長様がこちらに来られた時に連絡をあげるので会いにいらっしゃい」とのこと、実家に知らせが来るとばれるので、教会に連絡をもらうことにしました。3ヶ月ほど経った時、「明日夙川にいらっしゃい」との知らせが入り、「友人の所に泊まりに行く」と嘘をついて管区長様に会いに行きました。管区長様は「何故マリアの宣教者フランシスコ会に入りたいのですか?」お尋ねになり、「フランシスコが好き、ご聖体の前で毎日祈りたい、何よりもマリアの宣教者になりたい、それでこの会に入りたい、家族は反対しているけど入りたい」とお願いしました。管区長様も受け入れてくださり、それで5月に入会する決心をしました。当時、指導をしていただいていた神父様は「聖霊に導かれて行きなさい」と一言仰いました。そのときは余り良くわかりませんでしたが、本当にその通りで、今はますますそのことばが心にしみています。

 

chikuma1どのように説得したのですか?

修道会に入る事を話すと、父は悲しんで病気になりそうになり、なるべく顔を合わせないようにしていましたし、母も「6月の法事まで待って」と頼み、こうなったのも自分の責任・・・と思ったようで、古屋司教様のところに相談に行きました。司教様は「そんな親不孝者はきっとすぐ帰ってきますよ」とおっしゃったそうです。それで、予定通り行くことにしました。一人娘を修道院に送った方から、「これはおめでたいことだから赤飯を炊いて送り出してあげなさい」と言われ、本当に赤飯を炊いてくれて、それを食べて出発しました。上の妹はあっけらかんとしていて、教会まで送ってきましたが、下の妹は寂しがっていました。修練院に着くと「ちちきとく、すぐかえれ」の電報が来ていましたが、「絶対帰らない」と決め、行きませんでした。その後も母から本当に毎日、毎日「帰ってきて」の手紙が来ました。「父さんが倒産したので帰ってきて・・・」と。とても辛い時期でしたが耐えていました。修道服をいただく、着衣式の日にはもちろん家族は誰も来てくれませんでした。ただ私が代母をし、後にクリストロア会に入った代子がお祝いに来てくれました。修練期の間はそのような状態でした。初誓願を立てることになった時、母と、亡くなった母の弟が連れ帰るために2人で迎えにきました。私は神様に従うことを選んでいたので、帰りませんでした。母は裏切られた・・と思ったのでしょう、それ以後は手紙が来なくなりました。でも本当に母と私は仲が良かったのです。初誓願後は神戸の夙川に派遣されそこで幼児教育の勉強を始めました。その後福岡に派遣され、終生誓願を立てた私は九州の人吉の修道院に派遣されました。そしてその年、年の黙想に参加するために神戸の海星に行きました。家を出てから8年の歳月が流れていました。そのとき父が会いに来てくれたのです。父は「あなたが幸せならいいよ。でもいやになったら、何時でも帰ってきなさい」と言ってくれました。その翌年の3月に父は帰天しました。

父の死後、母は大阪に戻り、友人のしている食堂を手伝いながら、生活をするようになりました。

 

壮絶な体験をなさったのですね。修道院に入ってから洋裁はなさらなかったのですか?

修道院に入ってからは洋裁ではなく、幼稚園や保育園で働くようになりました。人吉で12年間、その後は北海道の釧路の幼稚園で4年間、それから再養成の時をいただき、1年間養成コースに通い修道精神を深めました。その後大分県の津久見の修道院に派遣され、責任者をしながら幼稚園の主任の仕事をしました。その後再び人吉に戻り、また2年後には夙川に派遣されて、モンテッソリーの管理者コースにも行き、子どもたちやお母さん方に宗教のお話しをし、楽しく過ごしました。それから種子島の小さな共同体に派遣され、11年間、責任者をしながら、保育園の事務や会計の仕事もしました。今まで元気に働かせていただいていましたがここで病気をし、幼児教育からは退くことになりました。身体が少し不自由になりましたが、福岡の修道院にゆき、そこではまた、長年離れていた洋裁を行なう機会に恵まれました。8年間過ごしましたが、修道院が閉じられることになり、今度は2度目の北海道、札幌に来て現在に至っています。

こうして自分の歩みを振り返ってみると、ずっと神様に導かれてきた事を強く感じ、感謝の気持ちで一杯になります。私は母の弟にあたる叔父に時々”心のともしび”を送っていました。叔父は自分で通信教育によってカトリック教理、聖書の勉強を終えていましたが、病気の時にお見舞いに行った時、私が洗礼を授けることが出来感謝しています。

いつも聖ピオ10世の「摂理にし損じなし」というおことばを思い巡らして心の支えにしています。65年の修道生活を振り返るとき、辛いこと悲しいこともたくさんありましたが、いつも共同体の姉妹方に支えられ、共に祈り合いながら歩んで来られたことは何よりも大きな恵みと喜びです。今、シスターになりたい方の召命が少なくなっていますが、とにかく主の呼びかけ「来なさい」との声に従ってほしいと願っています。

今日はどうもありがとうございました。これからもお元気にご活躍ください。