マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-29

日本のFMMは、次の総会が開かれる1926年、つまり大正時代の終わりまで引き続き北イタリア、上海、フィリッピンと同じ「無原罪の聖母」管区に属し、ステファニ管区長のもとで 総会後の新しい路線に沿って再出発しました。管区長は 1920年の総会前に一度日本を訪問していますが、それ以後の訪問は、会長代理として日本の共同体を視察する公式訪問者に任命された前管区長のMステファナによって行われました。久しぶりに日本を訪れたMステファナは、戦後の日本社会と教会の急速な変化に注目しました。

第一次大戦後の日本は、世界の列強国の仲間入りをしたとはいえ、国内では にわか成金の大戦景気もしぼみきって経済恐慌に陥り、それに追い討ちをかけるように関東大震災の発生で大混乱の状態にありました。この渦の中で教会に救いを求めて扉を叩く人も大勢出てきました。いわゆるキリスト教ブ-ムの到来です。日本の教会は、1919年 (大正8年) に教会史上初めて設置された駐日ロ-マ教皇庁使節の存在、世界大戦に応召されて日本を去って行った宣教師たちの再来、新たに海外から派遣されて来る宣教師の到着、邦人司祭の召命増加などで活気づいていました。

このような戦後の変動期に、Mステファナの公式訪問を受けた日本の共同体は、海外から16名の会員を迎えて新たな活力を得ながら、教会と社会のニ-ドに応じた体制を整えていきました。最初の変化は、新しい時代の波を受けて1921年 (大正10年) に実施された久留米修道院の閉鎖でした。これに続く主な変化として世界大戦のため10年間停止状態におかれていた熊本の修練院の復活、札幌では1922年 (大正11年) に制度化された「オブラ-ト」の修練院創設と志願院の組織化および職業教育の実施、不況や関東大震災で孤児や捨て子となった子供や身寄りのない老人のために本格化した札幌の養護施設と、熊本の老人施設など事業の拡張が挙げられます。今回はオブラ-ト制について取り上げたいと思います。 

本会に新設されたオブラ-ト制

1922年(大正11年)、世界大戦で荒廃した地域の復旧と世界経済の復興に向かう世界の新しい動きの中で、本会の宣教活動も新たに開始されました。会長のMサン・ミッシェルは、ビルマとインドの辺境地で働いていた時の宣教体験から「欧米のシスタ-が辺境地の人々の間に入るのは非常に難しく、特に異教色の濃い地域の人々に深く浸透していくためには その土地の歴史、風俗、習慣、国民性、メンタリティ-を十分に理解している同じ土地出身の召命が必要である」と考え、オブラ-ト制を新設しました。オブラ-トとは「神に献身した者」のことで、次のように説明されています。

自分の出身地で働くように定められているオブラ-トの召命にはそれなりの特別な条件があります。この召命を達成させるために先ず、修道者として厳しく養成し、宣教成果を上げるために不可欠な安定した長続きする環境を確保すること、そして、欧米人が生活できないような困難な場所で「真理の開拓者」として宣教の最前線に送り出すことです。

「辺境地」によく浸透していくために、オブラ-トの共同体は、大きな修道院に属しながらも土地の司教管轄の下で、その修道院から離れて生活する2〜3名の共同体で、アグレジェとは異なり、あくまでも本会の正会員でした。つまり、アグレジェは 本会の宣教活動に協力するフランシスコ会第三会員であって会員ではないので本会の修道生活を送る義務は全くありませんが、オブラ-ト会員は本来の会憲で義務づけられている 「聖体の礼拝」と「祖国を離れる」項目が免除された独自の会憲と聖服が与えられてはいますが、厳密な意味で 本会の修道生活を送るFMM会員と見なされています。このオブラ-ト制は、布教聖省から「マリ・ド・ラ・パシオンによって教会に植えられた大木の実り」と大歓迎され、フランシスコ会総長から「フランシスコの木から生じた新しい枝」として セラフィン的な祝福を受けて1922年 (大正11年) 7月8日に認可され、特に、中国、ビルマ、インド、チベットの辺境地で美しい花を咲かせていました。

この年、日本でも「オブラ-ト制」が適用するかどうかを見るため、公式訪問者のM.ステファナがオブラ-ト修練院の設置を予定していた札幌修道院を視察することになりました。札幌代牧区は函館教区から分離独立してキノルド師が初代教区長になったばかりでした。1月早々、M.ステファナは札幌に約1か月間滞在して開設の可能性を探りました。そこで目にしたのは、姉妹たちがフランシスコの兄弟たちと殉教者聖ゲオルグのフランシスコ修道女会のシスタ-たちと一緒に働いている姿でした。その頃、教区長館が北15条から天使病院の直ぐ前に新築移転し、そこに現在の「北11条教会」となる仮聖堂が建てられたこともあって、フランシスコ会の兄弟も信者も増加していました。地域の人たちは 大学の先生や学生などがよく出入りする文化の中心地としてこの付近一帯を「フランシスコ村」と親しく呼ぶようになっていました。この町では司祭も修道者も周辺の人々から信頼され、天使病院の方も患者の口を通してよい評判を得ていました。このような恵まれた環境にある札幌修道院ですが、土地出身のFMMがいない共同体の実情からも、キノルド司教はオブラ-トの修練院を開く計画に全面的に賛成したのでした。

2月、M.ステファナは熊本修道院の訪問に移り、そこで世界大戦のために停止状態にあった修練院が息を吹き返して活気づいているのを目の当たりにしました。会長はこの修練院に優秀な人材を派遣し、日本人会員の養成に新しい道を開いたのでした。M.ステファナが訪問した時、2人の志願者と7人の修練者がM.ヒアシンタとM.シャ-ル・ボロメの指導のもとに有意義な生活を送っていました。この修練院も ようやく軌道に乗り始めたところです。

札幌に創設されるオブラ-ト修練院の開設準備

同じ年の7月、日本にオブラ-ト修練院を開く準備のためにMアポリナリアが 会長代理として中国から札幌へ派遣されて来ましたが、その翌年、札幌修道院の院長に任命されています。創設10年目を迎えた天使病院はここ数年来の増改築で多くの人手を必要とし、道内から働きに来る若い女性を幾人も受け入れていました。この頃、天使病院で開かれていたフランシスコ会の司祭による要理教室に大勢の職員や患者の希望者が集まって来ました。その中から洗礼や修道生活を望む人が出て来たのです。こうして、天使病院に来てから洗礼を受けて志願者になる人が徐々に増えていきました。院長は、まず、オブラ-トとして入会を望む人のために志願院のような制度を作り、教会のカテキスタのもとで志願者に信仰教育を施し、霊的生活の向上を図るとともに 職業教育にも力を入れました。入会前に看護婦の資格を取得させるため、志願者にも病院の看護従事者のために開かれていた看護教室で当院の医師から看護の勉強を学ばせたのです。これが功を奏して、その翌年行われた道庁の資格試験に15名全員が合格しました。これがきっかけとなって、この小さな教室が道庁に認められ、天使病院付属看護婦養成所となる幸運をもたらしたのでした。キノルド司教は札幌知牧区の福祉事業をマリアの宣教者フランシスコ修道会に、教育事業を戦後ドイツから招いた聖ゲオルグのフランシスコ修道会に委ねて宣教の輪を広げるという大きな構想を描いていたので、札幌に本会のオブラ-ト修練院が開かれることを非常に喜び、志願者の信仰教育に協力的でした。

1925年 (大正14年) 8月、Mステファナは オブラ-ト修練院開設準備のため、再び札幌を訪問しました。その時、病院と教会の発展ぶりや信者と志願者の増加を見て非常に驚いています。病院そのものは大きくありませんが、助けを求めてやって来る人を大勢受け入れてよく世話をしていました。この訪問中、M.ステファナは、多忙な生活の中にあっても霊的生活が疎かにならないように共同体を励まし、信者や志願者にも会いました。17日間の滞在の最後に、M.ステファナは共同体にオブラ-ト修練院について話し、修練院の建物の建築プランを立てた後、全てを院長に委ねて熊本へ出発しました。志願者には、言葉の不自由な院長に代わって キノルド司教が自らこの制度の目的について詳しく説明しています。こうして、1922年より開始された札幌のオブラ-ト修練院の開設準備が会長代理のMステファナの指導のもとに滞りなく終了し、この年の11月7日に正式認可を得ました。修練院の建物も天使院の敷地内に完成し、共同体手作りのオブラ-ト会員の聖服も出来上がり、オブラ-ト修練院開設の日を待つばかりとなりました。

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