マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-20

札幌修道院の使徒的活動 

 札幌に落ち着いた姉妹たちは フランシスコ会のマントのもとで聖体を中心とした生活を送り、土地の言葉を学ぶ日々に満足していましたが、直接 宣教活動と言えるような使徒職がないことに一抹の不安を感じていました。「言葉が話せるようになるまでは活動しないように」と司教から言われていたのですが、少し言葉が話せるようになると ミシンを購入してフランスから送ってもらった布地でいろいろな物を製作しては売り、若い女性に 裁縫、ししゅう、料理を教え始めました。院長のMグアダルペは農学校の教師や学生、町の医者たちにフランス語、ドイツ語、スペイン語を教えていました。この年の暮れには 司教に手紙を書き、アトリエの認可を感謝するとともに こう述べています。 

 現在 使徒職に従事していないことが私共にとってどんなに大きな犠牲であるかご存知だと思います。私共は、強く望んでいるにも拘らず札幌で神のみ国を広げるという素晴らしい宣教活動を未だお助けする ことができません。摂理が「その時」が来たことを知らせてくだされば直ちに献身的に働く心構えでおります。その時の到来を待ちつつ神の恵みを勝ち得る祈りの使徒職に励んでまいります。顕示されたご聖体のみ前で祈る時、特に多くの恵みを受けることができると思います。 

 それから2年の間、札幌の共同体は ベルリオ-ズ司教から度々届く手紙に勇気づけられながらも 病院の事業計画が具体化しないまま、貧しさと半年続く零下25度の厳しい寒さをしのぎつつ、祈りの使徒職に励みました。やがて 函館から度々来院するシャンボン師の紹介で遠くから働きに来る女性信者も出てきました。創設か月後の1909 (明治42) には、この中から 北海道で最初の女性フランシスコ会第三会員と札幌で本会最初の准会員志願者が誕生しています。共同体は キノルド師の指導のもとに年の黙想会を行い、3名の誓願式も終え、着々と将来の使徒職に備えていました。病院用地も購入ずみで、あとは 病院の建設計画を待つばかりとなりました。 

 ところが、広大な司教区のこと、至る所で大火、地震、津波、伝染病などが発生し、この宣教師不足に ベルリオ-ズ司教はフランシスコ会に札幌地域の司牧の一部を委譲するだけでなく本会の事業計画もキノルド師に一任せざるを得ない状況に追い込まれていたのです。

 1910 (明治43) 1月、本部の送金で病院用地を購入されていたにも拘らず一向に建築が始まらないのを見て、会長は 実態調査のために管区長を札幌へ送りました。結局、問題を複雑にしていたのは、開拓途上にあるこの地域では 道路が作られるかどうかによって いつでも計画を変更せざるを得ない状況があったためでした。 

 この管区長訪問は事業計画の具体化に大きな実りをもたらしました。ベルリオ-ズ司教はキノルド師から出されていた病院建設の具体案と開院後数年間は責任をもってシスタ-方の生活を見ながら病院の運営に当たるという申し出を受け入れ、全てをキノルド師に一任することにしたのです。「キノルド師には先見の明があり、この事業を成功に導くあらゆる資質が備わっている」とのラフォン師の言葉に、司教は キノルド師に全幅の信頼を寄せたのでした。司教の勧めどおり 管区長は 札幌の小さな共同体とその事業計画をキノルド師の保護のもとにおき、会長にこう書いています。「どうぞ 札幌のことは ご安心ください。ここの姉妹たちほどよく世話を受けている所はありません」と。