私は5人兄妹の次女として大阪で生まれましたが、戦時中は両親の故郷の焼津に疎開し、戦後伊丹に戻りました。ごく普通の仏教徒の家庭でしたので、小さい頃は特別に宗教的な思い出はないですね。母は家庭科の先生をして働いていましたので、ばあやさんに育てられたという感じです。最初にキリスト教に触れたのは、当時神戸の海星女学院に通っていた姉からの勧めで、私も中学校を受験する前に「外国人のシスターの言葉に慣れるため」に初めて教会というところに連れていってもらいました。それから無事合格、入学後に教科書と一緒に「公教要理」という本をもらったのですが、姉が言うには「これを一冊覚えれば、“洗礼”を受けられる」とのことで、私もすぐ洗礼を希望する学生たちのグループに入りました。両親にも話して、すぐに洗礼が受けられると思っていたところ、「まだ早い。」と言われて許可が下りなかったんです。それであんまりがっかりして、国語の授業で「ダメになった洗礼」という作文を書いたら、一転して許可が下りてしまい、一生懸命「公教要理」を丸暗記して念願の洗礼を受けました。一番多感な時期でしたから、やはり清さへの憧れみたいなものだったんでしょうね。何か清いものに触れた感覚を覚えています。その時姉も一緒に洗礼を受けたので、それぞれにアシジのクララとアグネスの霊名をいただきました。その後、妹も私と同じように海星に入り、洗礼を受けたので、日曜日は姉妹3人で家の近くの教会に行ってミサに与っていました。
*修道生活を考えたのは?
まだ戦後まもなくて、学校は施設も整っていなかったのですが、大勢のシスター達が学校で働いている時代でしたので、シスター達に接する機会も多くありました。当時のシスターは日本名の代わりに修道名で呼ばれており、頭の先から爪先まで体を覆っている修道服でしたから、学生たちは「ほんとうは男か?女か?」「髪の毛はあるのか?ないのか?」「ほんとうの名前は?」などと、色々なことに興味津々でしたね。高校生になると、同級生たちの中にも「シスター志願グループ」みたいなのがありましたよ。でも、私は全然そこまでは考えていませんでしたし、弟が病気をしたこともきっかけで、“白衣の天使”に憧れて、高校卒業後は上京して看護師になり、将来はアフリカに行って貧しい子供たちのために働きたいと思っていました。それで、同じFMMの看護学校であった聖母短大へ進学し、卒業後は1年間聖母病院で働きました。私はそのまま看護師を続けたかったのですが、両親が「このまま修道院にでも入りたいなんて言い出したら困る!」と心配していたので、とにかく実家に帰り、両親の薦めに従って一般の会社に勤めたんです。でもやっぱり、そこは「私の場所じゃない」と感じて、両親には内緒でこっそりと病院の求人を探し、面接を受けたりしていましたが、結局またFMMが六甲でしていた万国病院に勤めることになりました。その頃には、両親の心配したとおり(!)だんだんと修道生活についても考え始めていたんですね。でも、何せ中学校から始まってずっとFMMと関わってきたので、今度は違う世界を知りたいと思い、他の修道会を探して門を叩いたのですが、8月に初めて訪ねたのに、12月に入会と言われてしまい、「私のこと何も知らないのに…」と変な違和感を感じてしまって、結局そこには行きませんでした。それから、もうやっぱりここしかない?と覚悟を決めたんですが、まず、「どういう人がシスターになるんだろう?」という疑問が湧いてきたので、病院で働くシスター達をよく観察したりしましたね。でも結局よくわかりませんでした。私は幼児洗礼でもないし、シスター達からも特別に声をかけられるわけでもないし…悩んだ挙句、わからないんだからとにかく門を叩いてみようと、入会希望を伝え、その後は何だか流れにまかせてすんなりときてしまいましたね。
両親にとってはもちろん嬉しいことではなかったでしょうけれど、せっかく入った会社を辞めて、また病院に戻った頃からうすうすとは気づいていたらしく、私の希望を受け入れ、入会のための準備などを手伝ってくれました。私自身も、どうしても両親からの祝福を受けて新しい一歩を始めたいという思いがありましたので、ずっと神様にそれを祈っていましたね。聖書に「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」というみことばがあるけれど、私は修道院に入っても絶対両親を捨てたりなんてしない。私は両親をずっと大切にする!と心の中で思い続けていました。
初誓願後は看護師として天使病院、聖母病院で働き、終生誓願を立てて3年後に、海外へのミッションに派遣されました。
はじめにイギリスで1年英語の勉強をしてチュニスにはいり、 その後、リビア、アルジェリア、チュニスと、同じ管区で32年間、あちらでも国立病院や訪問看護などで看護職をとおしての働きが主でしたが、1990年代のアルジェリアはひどく政情不安定な時期でしたので、外国人にとっては危険も大きく、国外に避難するかどうかを選択しなくてはならない状況に置かれたことも度々でした。それはもちろんとても大変で厳しい体験だったんですが、振り返ってみれば、FMMの会員として、また教会の一員として、ほんとうに“一致の力”を実感した恵みの時だったと思います。
* 自分の選びに迷いを感じたことはありませんでしたか?
私はずっと両親を大切にしたいと思い、両親のためにたくさん祈ってきましたけれど、高齢になった両親を直接自分で世話することはできませんでした。でも不思議とそのことも自分の中では矛盾や葛藤といったものはなかったですね。私が遠く離れた国で目の前に置かれた人に奉仕しているように、きっと両親も誰かによくしてもらっていると信じて疑いませんでしたし、何よりも神様がみことばのとおりにすべてよく計らってくださるといつも思ってきました。そして、そのとおりになりました!父も母も洗礼の恵みをいただいて、私は二人とも最期に立ち会うこともでき、ほんとうに平和で安らかな旅立ちを見送ることができました。
私は福音のなかでご復活後のイエスとマグダラのマリアがしているやりとりを黙想するのが好きです。二人が出逢った一瞬、過去も未来もないその「時」に、ありのままの自分自身とイエスだけが存在している、その瞬間を思うことが大好きでなんです。これからも、自分がいただいた召命をもっと喜んで生きていきたいと思いますし、そこに希望をおいていきたいなぁと願っています。