広がりゆく宣教 (1908 – 1926)
本会を南から北へ導いた摂理的な出来事
来日10年目の1908年 (明治41年)、本会は南の九州から北の北海道へ広がっていきました。当時 長崎教区の熊本・久留米・人吉に続いて函館教区の札幌にも、函館教区長アレキサンドル・ベルリオ-ズ司教の要請を受けて 修道院が設立される運びとなったからです。これにより、本会は 教会の少ない北海道で貧しく暮らす開拓民に奉仕することになり、 教会にとっても、殉教のために日本から姿を消したフランシスコ会の再来日と札幌教区の新設という歴史的な出来事へ導かれていくきっかけとなったのです。
その発端は、ベルリオ-ズ司教が、熊本の待労院でハンセン病患者の世話をするシスタ-たちの姿を見て、創立者マリ・ド・ラ・パシオンに「神の国を広げるために あなたの優れた娘さんたちが 間もなくここへ働きに来てくださるものと期待しています」 と書き送った1904年9月24日付の手紙にありました。この手紙が創立者のもとに届いたのは創立者の帰天2か月前でしたが、その翌年の1905年には 早くも このプロジェクトが具体的に動き出していました。それは、計らずも ロ-マで ベルリオ-ズ司教と第2代会長マリ・ド・ラ・レダンプシオンが摂理的に出会ったことから始まりました。
当時 函館教区は、新潟を含む東北7県・北海道・南サハリン・千島の広大な地域を受け持っていたにもかかわらず、その司牧に当たっていたのは 司教を含めて わずか12名の司祭と24名の伝道士だけでした。北海道についていえば、函館には シャルトルのパウロ会と男子と女子のトラピスト会が活動していましたが、函館以外の土地は 入植した信者の家族がいても牧者が一人もいない、言わば 宣教の面でも「開拓地」でした。道庁所在地の札幌でさえ、2人の司祭が小さな伝道所に住み、プロテスタントの宣教熱におされながら必死で宣教していたのです。それで、日露戦争が終わると、ベルリオ-ズ司教は ロ-マへ行く機会を利用して 広大な教区に必要な活動資金と宣教者を募るために ヨ-ロッパの各地を巡り歩こうと決心したのでした。
1905年 (明治38年) 10月、横浜港を船出したベルリオ-ズ司教は、船中で知り合ったフランス人の紳士から「マリアの宣教者フランシスコ修道会のロ-マ本部にいる私の娘にこの年老いた父の挨拶を伝えてください」と依頼されていたので、ロ-マに着くと、直ちにFMMの本部修道院を訪問することになりました。その前日、司教から訪問の通知を受けていた会長は、会の創立時にマリ・ド・ラ・パシオンを力強く支え導いてくださったフランシスコ会のラファエル師に次のような手紙を書いています。
「明日、函館教区のベルリオ-ズ司教様が本会の修道院をご自分の教区に創設してほしいと お願いにいらっしゃいます。最も重要と思われることは、この司教様が 私たちを通してフランシスコ会に 司祭の派遣を依頼してほしいとお願いになっていることです。神父様、これはフランシスコ会が日本で再び宣教を開始する絶好の機会ではないでしょうか。」
この考えは、フランシスコ会の本部評議員として活躍中のラファエル師の心を引き付けました。この瞬間から ベルリオ-ズ司教の願いは本会とフランシスコ会との共同作業によって実現へと向かっていったのです。会長は 司教の要望に応えて 函館教区にも修道院を創設する方向に話を進め、ラファエル師はフランシスコ会の総長 デオニジオ・シュレ-ル師にこれがフランシスコ会の日本再宣教の機会になることを伝えることで、このプランは同時進行していきました。
12月19日、FMMの本部修道院を訪れた司教は、紳士から頼まれていたシスタ-には移動後で会えませんでしたが、会長と直接会って話すことができました。その時の様子を記録したフランシスコ会の小史によると、会長は、「私の教区にも修道院を設立してほしい」という司教の願いに「よろしいですとも」と 即座に快諾し、「でも、今のところ 会は 資金を必要としている所が多いので援助できない状況にあります。資金の問題はどうなさるおつもりですか」と、一層 突っ込んだ話をしています。司教は 会長の受諾を非常に喜び、北海道の首都として急速に発展している札幌に招きたい意向を示した上で、物質上の問題については「今の自分には どうすることもできないが、自分の訪欧の目的は宣教活動のための資金集めである」と 説明しています。会長は 募金活動に出かける司教に 寄付を募ってもらえそうな修道院の宛先を幾つか知らせました。こうして、本会もベルリオ-ズ司教の新しい協力者になったのです。
一方、この訪問で既に会長の承諾を得たものの、FMMを受け入れるために障害となる宣教師不足の問題が再び浮上し、ベルリオ-ズ司教は、フランシスコ会第三会員で 以前日本で宣教したことのある同僚のマルナス師の所へ相談に行きました。これが 意外にも新しい展望を開くきっかけとなったのです。司教はマルナス師に「今度 自分の教区にマリアの宣教者フランシスコ修道会の修道院を創設してもらうことになったので、シスタ-たちの毎日のミサや終日聖体顕示のために修道院付司祭が必要になる。ところが何分 自分の教区には司祭がごく少数しかいないので、FMMの司牧のために一人の司祭をあてるのは 困難である」と、その実情を話しました。すると、マルナス師は「では、フランシスコ会を札幌へ呼んだらどうですか。そうすれば、ただFMMの小聖堂でその務めを果たすことができるばかりでなく あなたの広大な教区のためにも宣教の貴重な力添えとなるでしょう」と進言し、「自分の知り合いに 1895年にフランス海軍の一将校として日本を旅行中 長崎で殉教したフランシスコ会員の勇気ある信仰に心を打たれて、 自分も将来この国で宣教のために働きたいと望んで母国へ帰り、フランシスコ会に入会して叙階されたモ-リス・ベルタンというフランシスコ会の司祭がいる」と、一層現実味を帯びた話をしています。
その翌年、1906年 (明治39年) 4月、ベルリオ-ズ司教はフランシスコ会の総長と話し合うためにフランシスコ会のサン・アントニオ修道院へ赴きました。すると、総長は 直ちに司教の求めに応じ、その場で「差し当たり3名の司祭を送りましょう」と即答したのです。その中の一人がモ-リス・ベルタンであることを まだ誰も知りませんでした。その後、司教は、本会の会長だけでなく フランシスコ会総長の紹介状も携えてヨ-ロッパの諸国をめぐり募金旅行を続けますが、この二枚の紹介状のおかげで「どの修道院でも 無上の歓迎と少しでも多くの寄付が得られるように援助してもらい」、意外にも 多大な支援を受けることができました。司教は 集めた寄付の一部を札幌のFMM修道院の建設資金として会長に旅先から送り続けています。