マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

Sr.アグネス渡部元子の巻

*  洗礼のきっかけは何でしたか?

私は広島市で生まれました。両親と兄の4人家族で、家の宗教は浄土真宗でしたが、特別に熱心というほどではなく、いわゆる家に仏壇があって…といった一般的な仏教徒でしたので、子どもの頃に何か宗教的な思い出というのはありません。ただひとつだけ覚えているのは、父方の祖母が病気だった時に、父が「高野山に行っていた」ことがありました。その頃、それがどうしてなのかよくわかりませんでしだけど、不思議と今でも覚えています。現在も変わっていませんが、私が通った小学校のすぐ近くがカトリック幟町教会でしたので、学校の行き帰りにはいつも教会の近くを通りましたし、時々イエズス会の修道士さんや神父さまたちの姿を見かけることもありました。子ども心に何となく知らない外国の世界への憧れのようなものもあり、小学校3年生くらいの時に、一度教会の中に入ってみようとしたこともあったのですが、何だか中が暗くて怖かったのを覚えていますよ。それでも教会や神父さまたちの姿は、私にとっても、家族にとっても、穏やかだった日常の景色のひとつになっていました。

それが、私が16歳の時に、広島に原爆が投下され、見慣れた風景は一変してしまいました。私の家族は隣にあった造り酒屋の大きな蔵のおかげで、幸いにも皆無事でしたが、家は後で焼けてしまいました。あの時に生まれて初めて、死んだ人を見たことは忘れられません。
それからは、両親もとにかく何とか住むところを見つけたりと必死でしたし、みんな混乱状態の中で生きてましたよね。終戦後もずっと色々なごたごたが続き、十代後半の私自身もいろんな悩みや苦しみ、不安などをたくさん抱えながら、それをどこに持っていけばいいのかわからず、よりどころがなかった時でした。自然と教会に行ってみようと思ったんです。それで、幟町教会を訪ねるようになり、18歳の時に洗礼を受けました。両親にとっても「教会」は身近な存在だったし、あの荒廃した社会の中でまっとうに生きてほしいという思いもあったのか、受洗についての反対はまったくありませんでした。

*  修道生活を志したのは?

私は父の妹である叔母にすごく可愛がられて育ち、叔母と母もとても仲が良かったので、私が学校を卒業したら叔母の息子である従兄弟のところへ嫁ぐことになっていたのですが、戦後しばらくしてその叔母が原爆の影響で亡くなってしまったんです。それでその話しもなくなり、叔母の死後は両親の間も少し難しくなったりと、色々と大変な時期でした。
そんな中で教会に行き始めて洗礼の恵みもいただき、本当に「救われた」思いでしたし、私を救ってくださった神様への感謝として、何か神さまのために自分を捧げたいと思っていましたので、20歳の頃、父に「修道院に入りたい」と言いました。
父にとっては「修道院」なんて、一体どんな所なのか見当もつかなかったのでしょうね。その当時神戸に住んでいた叔母に話したみたいです。その叔母は知り合いの娘さんがFMMに入会していたので、色々と相談に乗ってもらったところ、どうやら怪しい人たちや危険な所ではないらしい。何も心配いらないみたいだから、行きたいと言っているのなら行かせてやりなさいと助言してくれたんだそうです。その時にはもちろんFMMの事は全く知りませんでしたが、父に許してもらったので、それから教会の友人たちと一緒に“修道会めぐり”みたいなことをして、地元だけでなく、関西や東京などにも行ったんですよ。その中で出会ったのが、当時夙川にあったFMMの修道院でした。シスターたちの明るさが私にはとても気持ちが良くて、修道院でのご聖体顕示と創立者の精神としての“犠牲”という言葉にも心が惹かれました。そして、友達に「FMMに入りたい」と話したところ、「あそこは厳しいみたいよ」と言われてしまいましたが、私はそれでもいいと思ったんです。その後東京の聖母病院なども訪問して、21歳の3月から戸塚でアスピラントの生活を始めました。他の8人と一緒でしたが、途中で2人が家に帰られ、誓願を立てた6人組もだんだんと天国に逝ってしまい、現在は3人だけになってしまいましたね。

*  その後は“厳しい”生活でしたか?

う〜ん、 そうですね〜。でも何せ戦後の混乱期でしたから、私が特別ということではなく、みんな厳しい時代を生きていたと思いますよ。みんな何かあるたびに「家に帰ったら?」と言われたりして、そのうえ私は病気をして誓願が6ヶ月伸びたりしたので、共用の物置に置かれていた、自分の“行李”がまだあるかどうか確かめに行ったことが何度もありました。そこに置いてなければ、“帰り支度を…”ということになるので、見つけるたびにほっと一安心しました。もちろん辛いこともありましたけど、「帰れと言われたらどうしよう」とは思っても、自分から「もう帰りたい」と思ったことは一度もありませんでした。
それから24歳で初誓願を立てて、最初の派遣は夙川でした。幼稚園で働いたのですが、子ども達のお母さんより年が下なのに、“先生”と呼ばれるのがとっても恥ずかしかったですね。
その後も長い間幼稚園で働きましたが、場所は福岡、札幌、釧路、天草と北から南まで移動し、退職後も伊江島、津久見、種子島、三軒茶屋と、離島や小さな修道院での生活が多かったです。

*  いま振り返ってみると?

60歳を過ぎて幼稚園での使徒職を終え、初めて事業の現場から離れた後は、しばらく精神的にも不安定だったんでしょうね、姉妹との人間関係に悩んだりして、今更ながら「私は道を間違えたんじゃないか…」なんて苦しい思いをした時期がありました。誰にも相談できる環境ではなかったので、とにかくほんとにたくさん祈って、祈って、神様に支えていただいた体験を思い出します。いま振り返れば、あれが私の「転機」になりましたけど、それは決して自分で作ったものではなく、「神さまのやり方」だったんだなぁと…。
ほんとうに色々な事がありましたけど、振り返れば、いただいた大きな恵みにただただ感謝です。被爆も体験しましたけど、とにかく今日まで生きています!まだまだやりたい事はたくさんあるけれど、残念ながらもう身体がついていかない。でも、いまは自分でもすごく穏やかな時を過ごしていると思います。どこに行ってもいいです。住めば都になるでしょ!とにかく神さまのお迎えがあるまで、修道者でありたいし、前向きに明るく生きたいんです。これから自分の人生の選択を考えている若い人たち、一歩進んで試してみることもいいんじゃないですか!