マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

カチン難民キャンプでの生活

第一次・第二次世界大戦は史上最悪の戦争と言われていますが、同じ国民が争いあう内戦はより悲惨な状況を生み出し、内戦を逃れるために数多くの難民が生まれ故郷を後にしています。ミヤンマーのプラン・クン・ズンのFMMは、そのような状況に直面し、難民の間で、貧しく苦しむ人々との連帯を生きています。

 

カチン州で、長い不安な戦争が始まったのは、2011年6月9日のことでした。政府軍とKIO(カチン独立軍)の間で戦争が始まったのです。多くの村人が家を離れ、安全なところに逃げなければならなくなりました。その危険な状況の中で、FMMは、神により頼み、御聖体の拝礼から力をいただきながら、村に取り残されてしまったお年寄りや病人のお世話のために修道院に留まっていました。

そのうち村の主任司祭もお年寄りを連れて村を離れてしまい、FMMが最後まで村に残っていました。2011年11月17日、近隣の村やKIOのキャンプが焼かれ、危険が迫ってきました。最悪のことが起こる前に村を出て行くようにと言われ、私たちは夜、修道院を聖水で清めた後、悲しみのうちに村を離れました。信仰と信頼のうちに、御聖体を携え、それぞれは最小限の身の回りの物を持って、100マイルの困難な道を歩いて行きました。親切な人の助けで、中国国境のロイジェ難民キャンプに到着しました。そこの信者さんが数日間私たちを泊めて下さり、お世話をしてくださいました。

難民キャンプはロイジェとジュガウパの2箇所にあり、私たちは村人たちと行動を共にするために二つのグループに分かれることにしました。ジュガウパキャンプには490家族1893人がいましたが、環境はとてもひどいものでした。私たちFMMはここに2012年12月4日に到着しましたが、1ヶ月間は、ベッドもなく小屋の床に寝ていました。気候も厳しく、衣類も食物や水も不足し、子どもやお年寄りは弱り、コレラが蔓延し、多く人々が命を落としました。しばらくすると教区の神父様やカリタスの援助で、小さな小屋が建てられ、私たちも小屋に移りました。私たちはできる限り、物的、霊的に、周りの人々を助けるように努力しました。病人のお世話をしたり、人々の悲しい体験談に耳を傾けて共に祈ったりしていました。また子どもたちのための要理教室を開き、学校の勉強を手伝ったりしました。しばらくして、携帯電話で、管区のシスターたちと連絡を取ることができるようになりました。

難民キャンプに逃れた後、2011年12月7日には、兵士たちがプラン・クン・ズン村に入り、司祭館と修道院を破壊し、目にするものは何でも持ち去り、持っていかないものは、すべて粉々に壊して行ったというニュースが入りました。兵士たちは、私たちが飼っていた豚、鶏、アヒルなどを屠って食べ、その残がいをあちらこちらに散らかしていったということです。私たちは、この話を聞き、難民キャンプから修道院を見に行きましたが、その恐ろしい光景を忘れることはできません。

今でも私たちは難民キャンプで人々と生活を共にしています。この体験によって、私たちは深い信仰、ミッションと人々への愛という大きな恵みを頂き、苦しむ人々と運命を共にしたことで、自己奉献の真の意味を理解することができるようになってきたように思います。どんなに暗い夜にも輝く星があるように、これらの苦しむ人々の中にも、一条の希望の光が輝いています。いつの日か、皆がすべてを置いて出てきたふるさとの村に帰り、新しい生活を始めることができるように願っています。

Maria khawn San, fmm  Helen Udi Nu Jan, fmm