マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

FMM日本管区の歩み-10

熊本から久留米と人吉のミッションへ

 

久留米教会のソーレ師
久留米教会のソーレ師

1903 (明治36)7名の姉妹の殉教後、タイヤンフ-の共同体が再建されたのを見て、Mマドレンヌ・ド・パジは2年ぶりに日本訪問の旅に出ました。この訪問は1902 (明治35) に創立者がコ-ル師に約束していた久留米と人吉のプロジェクトについてそれぞれの主任司祭と話し合い、いずれは病院を建てたいという二人の将来計画の実現に向かって事前調査を行うために実施されました。

本会が招かれている福岡県久留米の教会は、明治維新一年前の1867年に筑後で発見された今村のキリシタン部落から発生しています。最初、今村の隠れキリシタンたちは極秘のうちに大浦天主堂と交流していましたが、1879 (明治12) に、コ-ル師が長崎からこの村に初めて派遣されて宣教を再開しています。その翌年、コ-ル師の後任として今村に着任したソ-レ師は、隣村の久留米にも仮教会を建て、久留米一帯の司牧を開始しました。1889 (明治22)、久留米に市制が敷かれると、多くの信者の家族が今村から久留米に移り住むようになったため、ソ-レ師も久留米の仮教会に定住するようになりました。医療に心得のあったソ-レ師は、盲目的な信仰をもつ隠れキリシタンの再教育に力を注ぐ一方、有馬少膳の土地を購入してその屋敷に設けた仮診療所で無料かごく僅かな治療費で貧しい信者の治療にあたっていました。ここに本会が呼ばれたのは、ソ-レ師の診療所を閉めて小さな病院を建てその管理運営を引き受けるためでした。

人吉教会のブレンゲェ師
人吉教会のブレンゲェ師

コ-ル師が熊本県の人吉に初めて足を踏み入れたのは1896 (明治29)、中尾丸施療院の設立後に病に倒れて久留米のソ-レ師のもとで療養し回復したばかりの時でした。その時、コ-ル師は有安師と深堀師の日本人司祭を伴って人吉へ出かけ、土地を購入して小教区をつくり、主任司祭としてブレンゲェ師を招き「人吉教会」としました。それと同時に、貧しさのため治療を受けられずに苦しみ死んでいく人が多いのに心を痛め、これらの人々の救助と魂の救いのために教会用地に小さな診療所を開く計画を立て、そこで奉仕する会員の派遣を創立者に要請したのでした。

 創立者の要望に応えて、Mマドレンヌ・ド・パジとMコロンブは久留米と人吉に出かけ、二人の司祭とかなり具体的に話し合っています。当時、熊本から人吉へ行くためには、鉄道で八代まで出て、その先は船、牛車、人力車か徒歩で佐敷か田浦を回り、球磨川に出たあとは小舟で川をさか上る方法しかありませんでした。人吉からは八代まで小舟で下るので、片道だけでも一日がかりの旅になったと言われます。

 日露戦争に阻まれた久留米と人吉の創設

 その翌年、Mマドレヌ・ド・パジとMコロンブは久留米と人吉の新しいミッションの情報を携えてロ-マで開催される総評議会に出席し、この二か所に修道院を新設する準備を整えて、創立者と最後の打ち合わせをしています。これらの修道院は熊本の修道院が咲かせた二輪の花ということで、創立者自身もその実現を非常に楽しみにしていました。

ところが1904 (明治37) 210日、管区長と院長の不在中に日露戦争が勃発し、医師の不足、日本人司祭の応召、海外からの寄付の途絶え、物価の高騰などのためライ事業は大混乱に陥りました。その上、コ-ル師も香港へ病気療養に出かけるため3か月間不在することになり、M.コロンブが熊本へ戻った後もライ事業は大きな打撃を受け続けました。ついにコ-ル師は入院患者の受け入れを断念せざるを得なくなりました。ライ部落で悲惨な生活を送っている気の毒な病人を前に Mコロンブは創立者にこう報告しています。 

 『なんと哀れなライ者たちでしょう!現在入院中の患者の世話が精一杯でどうしてもこの人たちを新しく入院させるわけにはいかなくなったのです。私たちにとってこれ以上辛いことはありません。この悲惨な人たちを追い返さなければならないなんてなんと酷いことでしょう!!私たちが何もかも捨てここに来たのはこの人たちを救済するためなのに。でも、神さまが送ってくださる人たちを追い払わなくてもいい方法もちゃんと見つけてあります。入院させることができないならこちらの方から宿屋へ出かけて行って、足が不自由なために診療所へ来ることのできない人たちを勇気づけ、重い病人には必要なものを差し上げるのです。この人たちが、私たちの貧しさ故に死ぬことがありませんように、聖母に祈り、お委ねしています。』 

日露戦争は、ライ事業存続の危機を招いただけでなく、久留米と人吉の新しいミッション計画さえも中断させてしまいました。このミッションは、世界中から殺到するこの種の要請の対応に苦慮していたにも拘らず、創立者が受諾したものでした。苦境にある熊本の共同体を励まして、創立者は次のような手紙を送っています。 

『あなたがたはすっかり日本人のようになりましたね。日本が神さまから委ねられている宣教地なのですから、とても結構なことですそちらの創設のことが気がかりです。お二人の神父さまには二つの修道院創設のことは忘れておりませんとお伝えください。』

 

熊本地区のミッション地
熊本地区のミッション地

熊本の共同体が、創立者マリ・ド・ラ・パシオンが1115日にイタリアのサン・レモで天の父のもとに召されたという訃報に接したのは、その僅か2か月後のことでした。この突然の知らせに熊本の小さな共同体は大きな悲しみに包まれました。フランシスコの精神に徹していた創立者は極東の地・日本でライ者のために働く「娘たち」を心から誇りに思い、「母」としての祈りと手紙と援助で絶えず励まし続けてきたのです。創立者にとってもミッションから送られてくる手紙は生き生きとした純粋な慰めを与えてくれるものでした。久留米と人吉の修道院新設計画は日露戦争に阻まれて創立者の生存中には実現しませんでしたが、生前、創立者は、「娘たちが悲惨なライ者のために非常に献身的に働いているのを知るにつけ、会の将来の発展を一層強く確信するようになりました」と書いているように、日本での宣教活動に大きな期待を寄せていました。熊本修道院の創設から久留米と人吉の創設までの8年間に日本へ派遣されてきた会員が18名に及んでいるのを見ても、日本のミッションに寄せる創立者の思いがうかがわれます。