マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

ポーランド

希望の女性
Sr.マグダレナ・ミテクはワルシャワの「フーシェンフ移住者センター」で、移住者たちのお世話をしています。大きな苦しみを体験した女性との出会いを分かち合ってくださいます。

私は移住者たちのお話しを聞かせていただく機会に恵まれていますが、あまりの困難な体験談に、言葉の裏にある大きな苦しみを想像することしかできないような時もあります。しかし、多くの方が、そのような困難な状況の中にあっても、将来に向かって大きな希望を心の奥底に持ち、かえって周りの人々を力づけています。そのような一人の女性を紹介したいと思います。
「昔はモンゴルとカザフスタンの間には国境がなく、先祖たちは家族皆で自由に移動していました。」とセレンジュは話し始めました。「しかし後に国境が定められ、私たちの場所はモンゴルになってしまいましたが、私たちカザフ人は自分たちの村を作り、自分たちの言葉と文化を保ってきました。私は学校で、カザフ語を学ぶこともできました。」と彼女は誇らしげに言葉を続けました。(彼女はモンゴル語、カザフ語、ロシア語に加え、ポーランド語も流暢に話します。)「私はモンゴルで教育を受け、理学療法士の資格を取りました。そこでモンゴル人の今の夫と出会い、結婚しました。しかし両方ともの家族が私たちの結婚を受け入れてくれませんでした。イスラム教と仏教は相容れないものでしたし、カザフ人はモンゴル人を嫌い、また逆も同様でした。それで、とても苦しい生活をしていました。やがて息子が生まれましたが、それでも何も変わりませんでした。・・・」

彼女はすべてを口にしたわけではありません。思い出すのもつらい体験をして来たのです。「私たちは住みやすい場所を求めて国を逃げ出し、ここポーランドにやって来ました。私たちは、まだここで滞在許可をもらえていませんが希望を失ってはいません。」と言って、ほほ笑みました。こんな状況の中で希望を持ち続け、ほほ笑むことができるということは、信じられないことです。彼女たちは難民キャンプで苦しい生活をした後、友人と一緒に小さな部屋に転がり込みました。それから、最初はモスクワで、後には南ポーランドで、たいへんな苦労をして、部屋を借りました。外国人に部屋を貸すことは、皆がいやがっているからです。その上、法的身分がハッキリしていない人にとっては、仕事を探すことは困難の極みです。

彼女の話は続きます。「私たちは良い人々に出会い、助けていただけたことを感謝しています。2年後には娘を出産しました。しかしそのころ息子の耳に障害があることがわかったのです。モンゴルでは健康診断の機会がなかったので、早い時期に耳が聞こえないことに気づかなかったのです。息子は名前を呼ばれても反応しないし、音の鳴るおもちゃにも興味を示しません。それで医者に診せたところ、耳に障害があることがわかりました。無理をして高価な補聴器を買い使わせてみましたが、何の効果も見られませんでした。息子のオジュンが学校に上がってからは、家族の心配はますます大きくなりました。別の病院で診察したところ片方の耳は全く聴力がなく、もう片方は80%失っているが、補聴器でどうにか聞こえるようになるというのです。しかし、問題は、お金です。そのころ私たちは今まで住んでいたところから立ち退きを迫られ、新しい部屋を見つけなくてはならず、高価な補聴器を買うお金はありませんでした。」セレンジュがFMMのシスターに出会ったのはそのころでした。FMMと神父様達の援助で、オジュンに補聴器を買うことができました。「医者は、補聴器を使ってもある程度しか聞こえないと言っていますが、私は希望を捨てません。私は息子を誇りに思っています。今、また部屋を出るように言われていますが、どうにかなるでしょう。」と静かにほほ笑みながら言葉を結びました。何という信頼でしょう。彼女の話に、こちらが元気づけられました。

主よ、あなたは、信頼する者を決してお見捨てになることはありません。

Magdalena Mitek fmm