『広がった、支援の輪』海外宣教者を支援する会広報担当 八巻信生
昭和57年9月1日の夕方、東京・千代田区六番町の日本カトリック中央協議会会議室で、新しい組織づくりの会議が開かれようとしていた。
集まったメンバーも異色の顔ぶれと言ってよかった。 神父、、修道女、外務省の大使、医者、テレビのニュースキャスター、放送記者、実業家、主婦と、さまざまであった。 この会が、日本を遠く離れ、海外の宣教地で人々のために働き、まさに世界に生き″ている宣教者たちを、精神的・物質的に援助しようと集まった「海外宣教者を支援する会」の誕生であった。それから一年余、会は大きく伸び、会員数は、法人会員四六一人、個人一五六人、賛助三六人(58年10月現在)を数えるまでに至った。寄せられた善意の基金、寄付の中から、この一年間に川カ国(地域)のために約一二〇万円の援助を行なうことが出来た。 一年間の活動を通じて、感じさせられていることは、僻地という言葉は、差別かもしれないが@世界の片隅に、想像さえつかぬ場所が数多く存在していることA豊かさに倦んでいると思われた日本人の中に、積極的な支援の輪が拡がった意外性であった。 文化祭の行事の一つに、海外宣教地の現状をテーマに取り上げた高校もあり、事務局に寄せられる、国内(「エコー」に収録)、国外(「エアメール」)からの手紙も、「支援する会」の目的に共鳴し、バックアップするという趣旨のものが、日毎に増えて来ている。 「海外宣教者を支援する会」は、その設立趣意書で次のように述べている。「かつてキリスト教を宣教される国であった日本も、今日、約二百数十名の日本人宣教者たちが世界38の地域に派遣され、言語、風俗、習慣の違い、偏見、貧富の大きな落差の中で……キリストの愛と宣教の業に従事し、それぞれの地域社会望見献している……世界の人々との出会いを大切にし、人々の幸せを願い、キリスト信者のみならず、広く、人道的立場に立つ多くの人々の賛同を」WCY(世界コミュニケーション年)は、この一年で終るが、決して終娘してはならないのは、これによって一だんと培われた、全世界の国と国、人と人のコミュニケーション(繋がり)である。 たしかに、カトリックの中の一つの活動体として発足した、この「海外宣教者を支援する会」ではあるが、今や、会員は、宗教、宗派を問わず、年令、社会的地位にかかわりなく、個人のみでなく、いろいろな企業からも支援の手が差しのべられている。 自分たちより弱い人たちが、全世界から一人でも減るように個人を越え、真に人道的立場から「支援の輪」が広がる事を期待する。 『役員会報告』「海外宣教者を支援する会」では、去る10月18日、中央協議会々議室で役員会を開き、「会」の当面する懸案事項について審議した。この結果、海外への援助、とくに@現地の司教から、S.浜谷を通じて要請のあった、インドネシアの学生たち(神学生、大学生、高校生、修道女志願者)15人に、1年間分の学資として、計33万円を援助する。2年目以降については、学資を援助する里親を探し、紹介するAアフリカへの援助衣料の送料を負担することなどを決めた。 また、「会」主催の講演会(11月13日)の講師には、帰国中の、青木勲神父(マリア会・ブラジルから)、Sr道下美和子(マリアの御心会・ベニンから)に依頼することを了承。 また、機関誌「きずな」5号は、教会関係ばかりでなく、広く、一般企業、マスコミなどにも、会の趣旨を理解してもらうような内容とし、海外宣教者への支援のきずなを拡げていくことを了承した。 『帰国宣教者講演会開く』「会」主催の講演会が、11月13日(日)午後2時から、東京・四谷の隻葉同窓会館で開かれた。講演者は、折からブラジルから帰国中のマリア会・青木勲神父・「異国の人々と共に」、アフリカ・ベニンからの、マリアの御心会の道下美和子シスター「アフリカの大地で」、マリアの宣教者フランシスコ修道会の水島洋子シスター「オート・ボルタから帰って」。 会場には約80人が参加、講演に熱心に耳を傾けていた。(別稿) 『異国の人々と共に』マリア会 青木勲
サンパウロから、三百二、三十キロ離れたバゥルーという所に居ます。私の小教区の信者数は約七万五千人で、主日には司祭一人が三〜四回ミサを挙げます。月曜に始まって、当日まで、ポルトガル語の説教づくりで苦労していますが、この苦労を体験するだけに日本に赴かれた、宣教師方のご苦心もよく分ります。
この地に参りましてから、私が痛感したこと、それは、「物の値打ち」というもので「者(人)の値打ち」に変ったということです。3年ほど前から、私は、サンパウロの、ハンセン病院でチャプレンをしています。ここは、施設としては、一番良い病院と云われて居ます。ここに住む人たちこそ「物を失って、者(人間)の価値を知った」人たちではないかと思います。そういう人たちが、病院には沢山居ります。 見舞いに行き、私が、ビアニカを弾くと、不自由な手や足で、ギターを弾く人、ピアノを叩く人、煙草の好きな私が、タバコを一本もらって吸おうとすると、手でライターを押えこむようにして、火をつけてくれようとする。不自由な手足を一所懸命使って、サービスしようとしているのです。 これらの人々と一緒に居る恵みを感ずる毎日です。 いま、中南米には、新しい解放の神学が生れようとしています。 それは、豊かな、富める側でなく、貧しい側に立とうとする教会像です。苦しい経済状勢の中で、人々がいま、どのように生きて行くかが問題となっています。 ブラジルでは、いま基礎共同体作りが進められています。 それは、神を中心に、階級も、差別もなく、等しく神とともに生きる共同体を作ろうという考え方に基づいています。 どうか、私たちのためにお祈り下ぎい。 『アフリカの大地で』マリアの御心会 道下美和子
いま、物質のない国で、どう働くか、どう助け合っていかなければならないかということを痛感しています。
そのような所で、一緒に生活を分ち会うということは、そこに生きる人々との関わり合いが問題です。私としては、そこで何もしてあげられないし出来ない。しかし、相手が与えてくれる笑顔、明るさを、どう生かすかということが心に深く入りこんでおります。 年とともに、自分が、どう生きなければならないかということが問われています。 ある時、一人の法律を学んでいる学生に「(日本の)ダンピングとは何か」と問われた時、返事が出来ませんでした。「物を作って、そして、何をしているのか」と云われたのです。ここの人たちは物がなくても生活しています。物で、生活しているのではないのです。 会は、診療所、女子教育、ハンディキャップ児のお世話、衛生教育、栄養障害児センターなどをやっています。 そして、(私たちのために)何かしてやろうとボランティアに来て下さる方々がいらっしゃいます。でも、この、何かをしてやろうという気持から、多くの人々は、ここで、何を、どう生きて行くかを反省させられ、自問自答させられて帰る人が多いのです。人々は、行って、何かをしたというより、反対に、何かを貰ったということを切実に感じるようです。私たちが顔も忘れてしまったような方々から、手紙で家族のことを知らせて来る、そこに人々との交わりの重さを感じます。 私たちが、そこに住んでいる時、現地の人たちは、あなたは外国人ではなく、ここに住んでいる人なのだと考えてくれているようです。嬉しい時には家庭に招待され、悲しい時には祈って下さいと願って来ます。この人たちと接する時、私は、そこに送られて居るというのではなく、そこに置かれている、その場所で、一緒に(人々)と生きているということを実感します。 いま、私に課せられている課題は、人々から頂いたものを、どう使い、どう役立てようか、それをどう、人に分配してゆくことが出来るかということです。 遠く離れて居ても、それは出来ると思います。 日本のように、物質的、精神的に豊かな所に生きていれは、相当なことが出来ると思います。日本人には、それが出来るのです。 どうか、そういうものに出会ってほしい。 日本は、もっともっと、外に目を拡げて欲しいということを感じます。どうか「自分」から出て欲しいというお願いです。 (他から)頂いたものを、「頂いたように」返してあげて欲しい。 それは「出来る(可能な)希望」ですし、それは、私の希望でもあります。 『今日に生きた″日々』マリアの宣教者フランシスコ修道会 水島洋子
私の居りました所は、サハラ砂漠の南、サバンナ(草原)地帯がつづいております。
気候は年中暑く、乾季(10月末から)の間は、すべてカラカラに乾き、皮膚がピーンとするような感じがします。 サハラ砂漠からの熱風に喘ぎ、雨が一番欲しい時期です。それだけに、5、6月の雨季に入って雨が降ると、雨は水の塊が天から降るという感じで、一雨ごとに革も生え、雨が降るたびに、緑は、みるみる成長していきます。雨が降ると人々は種まきをはじめます。 川も海も、湖もないこの地方では雨が、唯一の耕作用水なのです。 それだけに人々が恐れているのは、干ばつです。ちょっと入った奥地では、いつ滑れるかもしれない井戸を頼りに生きているといった現状です。 私が、オート・ボルタに唯一人住んでいる日本人という実感はありませんでした。と、申しますのは、ここには修道会が5つあり、そこに受容れられたという感じだからです。 受入れ先の共同体は、ボルタ人の修練院でした。その修練院で、土地のシスターを養成する仕事をして、オート・ボルタのボボデラッンという所にある国立病院で看護婦として働きました。 病院の壁の汚れや、ゴミなどには閉口しましたが、病院では床や階段にも、人がごろごろ寝ているのがなぜだが分りませんでした。 でも、やっとその理由が分りました。サバンナの砂地に建てられた泥の家に住んで、家の中には家具も、何もない、大きな建物に住んだことのない人が病院に来ても、それは砂地の上で生活するのと、同じ感覚だったのです。 入院患者に多いのは、意外にも木から落ちてケガする人です。ある時、老婆が木から落ちたと、担ぎこまれたのには驚きました。 でも、木に生るものが多いので、子供も老婆でさえも木に登らなければならないのです。その他には、潤れた野井戸に落ちる人、泥家の下敷になった人、河馬に喫まれたと駆けこんで来る人も居ました。この地方に寄生虫が多いので、それで目が見えなくなる人も多いのです。傷がうむと、そこから寄生虫が出て来る。それを切らないように楊枝ではじくり出すこともあります。 このような人々を看護しながら感じたことは、物が無いということです。何かしてあげたいと思う時に、物がないということは苦しいことでした。40人の病棟に体温計が3本しかないのです。物がなくても、宣教者として、何が出来るかを考えると、それは、愛をもって、家族のように接することだと思います。 患者さんたちから教えられることもありました。病院にはベッドはありますが、マットがない。ベッドに板を敷いてその上にシーツをかけるだけです。でも、そんなベッドに寝る人は「痛い」とか「苦しい」と訴える人はなく黙々としています。大騒ぎするのは、エリートの人たちです。土地の人は、「待つ」ことを知っています。 しかも、希望をもって待つことを。待つということは耐えるということのようです。希望をもって待っているのです。今日はなくとも、明日は神様が何とかして下さるという明るい希望をもっています。 この地の人々は、今日に生きています。予定で生きてはいないのです。私も、「今日に生きよう」という心で毎日を過しました。 苦しい時に、誰かが祈って下さっているという、祈りの重ぜを感じておりました。お祈り下さった方々に、心から感謝申上げます。 『講演会についてのアンケート』11月13日の講演会にご参加になった方々に、講演についてのご感想をお聞きしましたところ、次のようなご感想をお寄せ下さいました。ありがとうございます。
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