『南米』『ある青年の死』聖心侍女修道会 日高和子
…こちらに帰って来て最初のショックは、仲良しで…私が(日本から)戻るのを楽しみにしていた18歳の若者が、仕事中…電気シぎツクで亡くなっていたことです。……彼は両親が難嬉し、一時、とてもグレていたのですが、去年のクリスマス前に足を骨折し家に居なければならなかったので、私が話相手によく立寄っていたのでした。
…彼の仲間の一人が、やはり、仕事中に亡くなり、ショックを受けた仲間に一も話してほしいと話しかけられたのが、最初の出会いでした。彼の骨折を機会に、私たちは、いろんなことを話し、ギプスでもどうにか歩けるので、クリスマスの準備のためのノベナに誘うと、一日も休まず参加し、教会の青年会に入るし、ごミサにも欠かさず与っていました。…クリスマスの前には告解もし…一日の静修にも…彼は参加し、私が日本から出した手紙を嬉しそうに、誰かれとなく見せていたそうです……私は、彼が亡くなったことはとても悲しいのですが、その反面、大きな慰めも感じています。なぜなら、神様は、彼が最高に良い状態の時に、お召しになったからです。…枝の祝日に、私が日本に行く前に撮った写真…が出来てきました。それは嬉しそうに笑ったもので、まるで、私たちに、「すばらしい思い出を忘れないで」と、言っているようでした。…こちらは2人の志願者を加え、シスター・ロサも入れて5人になりました。 (3月31日) 『身代金代りに食糧を』援助修道会 八木橋裕子
「きずな」を通して、海外に派遣されている宣教者が増えていることを知り、心強さと喜びを感じ、励まされます。
先日はサンパウロを通過されたローシャイタ神父様から連絡を受け、シスター滝沢と二人で、サン・ゴンサロ教会のイエズス会修道院の小聖堂で、聖体祭儀にあずかった後、なつかしい日本のニュ・―スを伺い、雑談し、楽しい一時を過しました。 私たち二人は、長い間、住み慣れたサンパウロを離れ……昨年…から、オザスコ司教区に移り、主にオザスコ市の日系司牧で働いています。オザスコ共同体の、とくに、青年グループは殆ど全員が日本へ働きに出かけ小人数になってしまいました。 オザスコ日系共同体の創立当初から今年の始めまで献身的に司牧され、全員から惜しまれた堀江神父様は、二月に北東のジョアン・ペンア市(パライバ州)に異動され、その後、二世の宮平神父様が兼任を引き受けられました。私たち二人は、出稼ぎに行った方々の留守宅を訪問したり、カテケーゼ、病人訪問、家庭集会等、地味な宣教の日々を、感謝の中に過しております。 社会経済的不安定のブラジルで、貧しい人々が生きのびるための犯罪は絶えませんが、先日の新聞に「身代金代りに、食糧20トン、リオのファベラ住民に配る」という見出しで、ある会社経営者が、誘拐され、身代金の代りに大量の食糧を要求され、家族はスラム住民に配り、自由の身になったという記事が出ていましたが、こんなケースは初めてだそうです。人の生命は軽視され、抵抗すれば簡単に殺されてしまう社会の現実の中で、犯人が、同じ境遇にある仲間達のために食糧を要求したということの中に、人間味をお感じになりませんか。 『来年3月中村師の胸像、伝記を』マリア会 長谷川一郎
…思ってもいなかったローシャイタ神父様の中村長八神父記念館の落成式への参加は、本当に嬉しいことでした。ヤッパリ、神父様はブラジル人ですね。ブラジル語でいう、いわゆるスプレザ(予期せぬ驚き)によって、参加者一同を喜ばせ、式を大いに盛り立ててくれました。
…式後、私は野下、小川神父とパンクナルに行くことができました。 これも私にとって、一つのプレミオ(褒美)でした。 旅行中、野下師と、いろいろ中村神父について意見の交換が出来ました。具体的結論としては、来月3月までに、胸像と伝記(日本語・ポルトガル語)の完成を目指して働くことが決まりました。 中村長八神父記念館 『在伯日本人のバイタリティに驚嘆』コングレガシオン・ド・ノートルダム 斉藤好枝
…ここに参りましてから、早くも8カ月近く過ぎ去ろうとしています。やっと足も地につき、バスや地下鉄を使って、サンパウロ市にも一人で行けるようになりました。最近、ほんの僅かの間に、私の住居に泥棒が入り、テラスから飛び降りるところを、近所の方が見て、早速、教えに来て下さいました。寝蛍エに入って、カセットテープレコーダーと、少しばかりのお金を盗んで参りました。…5分足らずの間に、門をよじ登り、足がかりを見つけてテラスに上り、私が不注意にカギをかけないでいたテラスの入口から台所―寝室に入鰍閨A目的を果して行った早業には感心いたしました。大金が入っていると思った…札入れには、幸いパスポートや証明書類を取り出した後でしたので…隣の町のバス停に捨てられていました。…別の袋に、同じ場所に入れてありました大金は、盗まれていなかったのも不思議です。…子供達に日本語を教えることにも、大分馴れて参りましたが、授業中の態度は日本の子供達とは非常に異なり、二重のエネルギーを消耗させられます。日本人の顔をしている子供達が、日本語ではなくて、ブラジル語で話しまくっている事が、私には、不思議にさえ感じさせられると共に、私自身は一向にブラジル語が通じ得ないことを残念に思っております。…ここは日本人が多く……これは、移民された方々の、生活への挑戦から産み出された、衣食住への配慮が行き届いたためであると思います。
去る4月13日には、学園の体育館で、スキヤキ大会が、資金獲得のため行なわれましたが、信徒の婦人方は、一週間前から、手作りのコンニャクや豆腐を、早朝から夜遅くまでかかって準備され、当日は朝の5時から真夜中まで活鍵されました。御夫婦揃って活躍の方も多く、また、農家の方々は、沢山の野菜をトラックで運び、寄贈されました。そのバイタリティには全く糎叩喫するより他ありません。…誰一人「疲れた」という言葉もなく、立ち通し働いておられますので、私も午前9時から午後6時まで、食事時以外は立ち通しで、野菜切りを手伝いましたが、ついに……カブトを脱ぐ…結末に至りました。 日本語を教える傍ら、松尾神父様の移民部落巡回のお伴をさせて頂いております。広大な畑に、青々とした野菜が立派に栽培され、山一面に実った柿の木を見て、ここがブラジルであることも、ふと、忘れてしまう程でございます。困苦を越え、克服して来た人々の中に大和魂の力を感じさせられます。 しかし、その志も遂げず、犠牲者となられた初期の移民の方々、また、最初のブラジル宣教者、中村長八神父様のご活躍と、果された使徒活動の書い御遺業を知り、感激新たに…この国で働くことの新たな意義を見出し、微々たる歩みを進めております。 『寂しい日系移民記念の日』宮崎カリタス修道女会 田河緑
〜6月18日は日系移民の記念すべき日…。例年の如く、司教座聖堂で、今年は午前9時より、ブラジル日本移民83年記念慰霊ミサが捧げられました。花で飾られた祭壇下の階段…9時5分前、今日のミサ解説者シスターマリア浦川(カリタス会)の、若さに満ちたはりのある声で、「皆様、おはようございます…」と、日伯両語でミサ前の解説があり、それが終ると、Srフィオレンツア川上(カリタス会)の指揮による聖歌隊の入祭の歌、聖歌隊メンバーは、カリタス会員を中心に、(女性)信徒と他の会の修道女の方々です。つづいて、司式司祭の武内神父様(イエズス会)(ら)司祭団の入堂、来賓は石垣泰司サンバウ口絵領事夫妻、文化協会、援護協会の役員の方々。聖堂を見渡すと、二百人足らずの少ない参列者でしたが、聖歌隊が、祭壇より前方に陣どったため、讃美歌は美しく、聖堂内に響きわたりました。来賓による日伯両語の共同祈願、全員心をこめて祈りました。年数が経つにつれて、参列者の数、顔ぶれが変ってS参ります。帰天、病気、老衰、出稼ぎ、いろいろ理由はあると思いますが、日系五世を数える今日、若い人たちには、このような記念日はあまり関心がないのかもしれません。何かしら心寂しい感じがしたのは私一人ではないと思います。
とくに今年、寂しさを加えたのは、ドナ・マルガリータ渡辺様の欠席でした。お年も90歳を越え.持病の再発で養生なさっているとか。彼女は日系コロニアと共に歩いて来られた、残り少ない初期移民の一人です。救済会の会長という重々しい職名はついても、とても柔和で謙遜な方で、第二次世界大戦のときは、命をかけて、同胞を援けてこられ、今までずっと老人の世話(いこいの園)、貧しい人々を助けてこられた野に咲く一輪の花です。いつまでもいつまでも咲いていて欲しい方です。 『アフリカ』『なお、戦火の下で』御聖体の宣教クララ修道会 鶴田順子
…こちらは…東南地方で…戦斗が・続いています。約六万四千人の人たちが隣のギネアへ避難民となり逃げています。…ルンサも三百人の男性たちで、自衛団の結成式が行なわれました。…こちら北の方にも、いつ襲ってくるか判りません。いま雨期に入り、戦いが難しくなっているとのことです。…すでに、東南のミッションのシスター達はフリータウンへ避難しています。二人の神父様も…捕虜になっているとのことです。…毎日、ジェット戦斗機が…南へと飛んでいきます。…病院の看護婦さんの故郷も戦いの町に変っています。
何人かの看護婦さんたちは苦しんでいます。ともかく、歴史の流れを感じています。6月17日からスペインへ3カ月行きます。 …昨年から今年にかけて、戦争のニュースばかりですね。平和を祈るとともに、心の平和をも、いつも願い、実現するようにと思っています。平和は一人一人の心から出て来ますから…。 『戦火の下、避難準備で宣教を』御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
…日本では、雲仙が噴火して、沢山の死傷者を出したというニュースに、こちら、皆、心配して…おります。…しかし、自然の災害より、人間が作る災害は絶えまなく…沢山の被害者を出していることは悲しいことです。ここ、シエラレオーネも戦争状態が続いており…局地的に激しい戦斗が行なわれております。私達も、追い出されるかもしれないので、その時のために、小さな袋に一枚の着替え、砂糖と水、穿きやすい靴を揃えておくよう云われております。
…私の知っている限りでは、カトリックミッションは、国境の町、プジュンのイギリス人のシスターの修院(で)は、車と食糧をとられ…土地の神父2人は行方不明になっています。 …ルンサはまだ平和です。学校も毎日開かれ、生徒も登校しており、給食も毎日行なわれています。…毎日、頭をかすめるように低空飛行して行く飛行機に、戦争下にあることを思い出され…町の入口に、鉄砲を持った兵隊が…通行する車をとめて検査したり…町や、近村の青年達が…軍事訓練を受けている程度です。 4月のコンテナ、本当にありがとうございました。…軍の的になったら大変と、シスター20人(と)、大急ぎで、殆どの荷物を解き、ルンサ中の人に分けてしまいました。どんなに喜ばれましたかしれません。数日前、国連の調査で、一番生活水準の高い国は日本で、世界中で一番低いのはシエラ・レオネだと英国の放送が伝えたの汲ナ、先生方から、「シスターの国は一番、私達は最低だから、援助が必要なのですね」(と)、おめでとうや、ありがとうを云われましたが、なんとなく、素直に喜ぶことは出来ませんでした。 『日本語話す神父様発見!!』無原罪聖母宣教女会 守山陽子
…今回は名簿をお送りいただき大変感謝しております。海外で、日本人宣教者が、これほどまで多く活躍しているとは知りませんでしたので、大変励まされ、力づけられました。また、マラウイには、日本語を話す宣教者は私一人と思っていましたが、名簿で、フランシスコ会のアメリカ人神父様がいらっしゃると知り、思いがけない発見に嬉しくなりました。……共同体はカナダ人ばかりですので、フランス語がよく飛び交います。マラウイの公式語は英語ですので、高校生たちのY・C・Sムーブメントの指導には英語が欠かせません。そして、ミッションでは、土地の言葉チトンブカ語を使っています。私は語学が堪能ではありませんから、フランス語も英語も、チdンブカ語もチンプンカンプンで、ジェスチャーつきでコミュニケーションに頑張っています。ここには、協力隊の日本人が沢山居らっしゃり、たまに日本語を話せる機会にめぐり会えますと、ほっとした気持にさせられます。
…日本は雨期(梅雨)の其最中でしょうか、こちらは、やっと、雨期が終り、乾期に入り、朝晩、とても冷えこむようになりました。 セーターや毛布なしにはいられなくなりました。一カ月ほどポンプやタンクが壊れて、水不足が深刻になりミ、ッション中、水に悩まされましたが、やっと水も手に入るようになり、野菜の栽培も順調にいくようになりました。水不足は、診療所にとっても、畑にとっても大きく響きますし、生活を脅かされますので、実に深刻な問題です。…(6月8日) 『アジア』『貯水タンクは丘の上に…』援助マリア修道会 一同
三月、四月は湿度の高い時期とかで、ポンペイはこのところ連夜大雨です。昨年の台風以来、風雨を少し恐れるようになりましたが、太陽の強さにヤレヤレ南国を感じて、元気に過しています。
(ご援助で作る予定の)雨水用タンクは貯めた水を、電気(etc)を使わなくとも(停電が多い)家に送水出来るように、家のすぐ横の丘の上にと考えています。今は草木いっぱいです。草刈からはじめていきます。 きずな″に掲載されている記事を楽しみに読ませていただいております。各地で働いていらっしゃる皆々様と、それを支えて下さっている日本の皆様、自分の…無力さを感じる時は、なによりの、励ましです。(4月21日) 『誘拐が相次ぐ…』御受難修道女会 松田翠
…暖かい御理解と御支援、本当に有難うございました。
…マーベルの人々は、…親切な方が多く、工事のために必要な材料を注文しても、支払はこちらが出来る時まで、辛抱強く待って下さいますので、ありがたいことだと思っております。 新しい年早々、干ばつに見舞われ、今日まで、2日程、ごく僅かの雨が小時間降っただけで、4月に入ってからは暑さもますます、きびしくなり、それに加えて、ここから2時間余りの北コタバトの事情が、大変危険になって参りました。…電柱が破壊され、別時間の停電続きが、干魅による停電に加わり、ますます、生活を厳しくし、ただでも大切な水があちこちで得られなくなり、やっと水道管を引いた私共の所に、沢山の方々が水を求めに来られました。 2〜3週間は大変な毎日でしたが、電柱もやっと修繕され、一日のうち2すぐらいは電気に恵まれるようになりました。早く雨が降れば正常に戻るのですが、雨乞いを祈りつづけています。 北コタバトでは…誘拐事件が続出、フランス人の66歳のカロック神父様の消息も確かでないようです。緊張の毎日ですが、この修院は、お蔭様で無事です。2週間ほど、自分たちの家や敷地(山の)を追われた避難民に…三食を与えたり、その人々の必要に忙しい毎日でした。山岳少数民族はますます圧迫され…かわいそうです。 『おたよりありがとう』「パンの耳」 東京・世田谷・小学6年田川麻衣今日、学校で反省しなくてはならないことがありました。 給食が終って、帰りの会の前の時のことです。…つくえの下にあったパンの耳を、だれかがけりはじめたのです。それから男子(五人くらい)が、おもしろ半分で「パンのサッカー」とか言って、けりながら遊びはじめたのです。 私は(止めようかなあ)と思いましたが、言えませんでした。 そして、帰りの会の時、先生のお話でパンのことが言われた時、(やっぱり、あの時、言っていればよかったな)と思って、とてもこうかいしました。 世界中には、日本のように豊かではない国もあります。その国では、パンの耳でも、食べれない事だってめずらしくないでしょう。 私たちが日本に生まれたのは偶然です。もしかしたら、貧しい国に生まれていたかもしれません。私たちが貧しい国に生まれていたら、パンの耳でサッカーをするなんて、ゆめの又ゆめでしょう。 日本は豊かです。でもそれは、戦後、外国の色々な国から助けられて、やっと、ここまでこれたのです。今度は、日本が助けてあげる番だと思います。 それから、あと一つ、私は「やめなよ」という一言が言えませんでした。そういうことが言えないようでは、いけないと思います。 悪いことだと思ったら、みんながはっきりと「だめだよ」と言えるクラスにしたいです。 先生の批評=パンの耳のことから、違う国のようすまで考え、また、知ることができましたね。 正しいと思うことを実行していく時、必ず困難なことがありますが自分が正しいと思うことを実行できるようがんばって下さい。 「パンの耳・続」 昨日、パンの耳のことについて書きましたが、それに関係のあることがあったので書きます。 教会から、フィリピンにいるさいとうさん(成城教会で住所を知りました)へ、クリスマスカードを送りました。そして、そのへんじが来たのです。その手紙には、フィリピンのことがかいてありました。私は、その手紙を読んで行くにつれて、びっくりしました。 その国の生活の様子があまりにも日本とちがっていたからです。 おふろはなくてトイレもない家だってたくさんあります。日本のように毎日入るなんてことは、すごく「ぜいたく」なのです。 私はその手紙を読んで、日本の豊かさに改めてびっくりしました。 今まではそれになれていたから、急にそんな生活になったら困るだろうなあ。 フィリピンでは、パンの耳一つで困るほど貧しくはありませんが、同じようなことだと思いました。 私たちが小さな事から大事にしていくと、そんな国も、だんだん豊かになっていくと思います。 田川麻衣ちゃん(右から7人目)(社会科工場見学で) 『日本の教会から派遣された宣教者国別統計』(1991年6月現在)
『新派遣宣教者』(敬称略)長崎純心聖母会あーた・ク嘗美紀子 〜ブラジル〜 幼きイエスズ修道会 松山浩子 〜チャド〜 |