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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES






『不毛の地の教会づくり』

海外宣教者を支援する会広報担当 八巻信生
 海外宣教地の多くは地理的な意味で不毛の地であろうが、物質的、経済的にも世界有数の富める国と言われている日本も、さまざまに荒廃している社会状勢を考える時、霊的僻地、魂の不毛の荒野と云っても過言ではない。総人口が一億人を超えたというのに、日本全国のかトリック信者は約42万人、全体の僅か0.4%、あるいはそれ以下という数字がその不毛ぶりを物語っている(数字は57年12月31日現在・カトリック新聞調べ)。
 このような不毛の地で、今から11年前、一つの教会造りが行われた。東京の西郊、昔、万葉集にも多麻の横山”と歌われた美しい山野を切り拓いて、総面積3020Haに37万人の住む人工都市を作るという計画〜多摩ニュータウンがその地である。
 冷たいコンクリート住宅群の林立する人工砂漠のようなこの地に教会が生れた。一人の信者が教会建設の必要性を教区に陳情し、それが容れられて、その年のクリスマスに信徒20人が集まり、白柳大司教様による家庭ミサが行われた。カトリック国ではいざ知らず、不毛の日本では稀有なことであった。そして、大司教の英断により、翌年からは派遣司祭による月1回の家庭ミサ、そして、最初の家庭ミサから5カ月後には、なんと、正式な小教区として認可されたのである。その間の信者達の努力は涙ぐましいものがあるが、正式認可の告示中「現在のところ、一定した聖堂はありません」という文言が、この教会設立のユニークさを物語っている。
 やがて居住した主任司祭の小さな住居が教会となり、賃貸マンションに移り住み、溢れる信者を収容するために、教区から資金を借り購入した分譲マンション二室の一室を聖堂に改造したマンション教会、それが東京教区68番目の小教区多摩教会である。信徒たちは今、豊かでない収入の中から借金を返すために献金を続けている。
 この間、新しい宣教拠点が得られることを祈りつづけた信徒たちに同じ市内に宮崎カリタス修道女会経営の保育園が与えられた。
 この教会も昨年10周年を迎えた。その記念の日に一信者が述べた「私は神を観念的に捉えて来たが、この教会造りを通じて次々に願いが実現するのを見て、正に神様が身近かに居られることを実感する」との言葉は印象深い。
 たった一人から、いま五百人にまで信者が増えた、この塔上の十字架もチャペルもない教会で人々は祈っている。人々にとって、風吹きすさぶ荒野を旅して来た旅する教会″の旅はさらに続くことであろう…海外宣教地でのご労苦には及ばないが、同じように霊的な不毛の地での教会づくりに海外宣教者達との共通体験があると考える、この教会造りに携わった一信者の述懐である。





『第3回理事会』

 海外宣教者を支援する会の第3回理事会が5月26日夜、中央協議会で開かれ、次の案件を審議、決定、了承された。
  • 活動報告=・57・9・1海外宣教者を支援する会発足。・理事会3回(10・18、11・29、58・2・8)開催・講演会2回(57・9・1、58・1・13)開催
  • 会員活動・]マスカード二四三通を宣教地へ・ミニバザーを開催(58・1・31)純益20万円を会へ寄付・衣類各10Kをフィリピン、パラグアイヘ
  • 援助(第1回)四九〇、五五〇円をボリビア、ブラジル、フィリピンヘ
  • 広報:機関紙「きずな」1号(57・12月)2号(58・3月)各三五〇〇部を発行
  • 会員数(58・3月現在)四六七名(個人一〇七賛助二二法人三三八)
  • 58年度当面の援助=@ペルーへ新刊書三万円Aペルーへ大文字祈り本五〇冊二二、000円Bブラジル日伯司牧協会へ聖歌集五〇冊二九、五〇〇円Cアフリカ・シエラレオーネへ一二〇、000円(女高生1名一年分奨学金)の計二〇二五〇〇円。以上が諮られ、承認された。
  • 決算報告=収入:六、六二四、五〇四円(寄付金他)支出:一、四九七、七八五円(内訳=援助費四九〇、五五〇円、広報(きずな)印刷代2回二六〇、四〇〇円、印刷費二〇〇、〇六五円、通信費(きずな発送代、印刷物)四八〇、八三〇円、支払手数料(郵便振込手数料、その他)二二、三一〇円、残高五、一三三、四八〇円(次期繰越金)このあと、去る2月16日から二週間、フィリピンバギオで行われた、バギオ日本人が建設したケノンロード建設80周年記念式典に出席された梶川神父様から、現地宣教活動の現状が報告された。






『きずな』

無原罪聖母宣教女会 高橋興子
 切っても切りえない離れにくいつながりを、中国の先人たちは、「絆」という文字で表わした。掴めないほど細く、たよりない綿糸が幾重にもより合わされて糸となり、糸がさらによられて絆となっていく。「絆」という字を眺めていると創世記の一節が思い浮かんで来た。
 「人がひとりでいるのは良くない。彼のためにふさわしい助け手を造ろう」(創世記2・8)
 人間はもともと「半」であって、一人では弱く、たよりない存在でしかないが、他とより合わされ絆によって完成される存在であることを文字を生み出した時代の中国人も、旧約の聖書の民も知っていた。
 たしかに人間は、いつも。パートナーを探して族を続けている。ひとたびパートナーが見つかると、さらに深く緊密なきずなを追い求める。きずなで結ばれてこそお互いを見出し、助け合い、励まし合い、深め高め合って、豊かな尊い人生を全うできる。反対にきずなのない孤独な人の生涯はなんと淋しく、不毛なことであろうか。
 地球が小さくなった今の時代、人間は国と国とのきずなを求めるようになった。どの国も孤立して生きることはもう不可能だ。それで、いろいろなレベルでの交流が盛んな今日ではあるが、もしも、一国がその国だけの利益や名誉を追い求めるなら、それは搾取であり、支配でしかなく、きずなは成り立たない。
 宣教者と呼ばれる人たちがいる。日本からも二二〇余名の宣教者が海外で活躍している。さまざまな文化、国籍、人種の中で、其のきずなを求めている人たちだ。彼らは特にすぐれた技術や才能、財産などを持っているわけではない。ただ、神さまは人類みんなのお父さんであると信じているから、ことばや皮膚の色が違っても兄弟として生きたいと願っている人たちだ。はたから見ると「なんでまた、こんなに貧しい所に行かなくても」と思ってしまう。
 この人たちこそ自分が「半」であることをよく知り「絆」に合わされてゆく幸せを一番よく知っている人たちなのではなかろうか。
 なにものも彼らの喜びを奪うことはできない。