『アフリカ』『おやつの時の顔が最高』ショファイユの幼きイエズス修道会 三宅陽子
…今年は例年になく、4月、5月に各2回雨が降り、私達を驚かせました。…雨期に入りましてからも、今のところ一週に一回は雨が降り、早いところでは、葉が15センチメートル程に伸びております…この状態が続いてくれればと、願っております。
…さて、先日は…ご援助を頂き、まことに有難うございました。 地域の要望に応え、昭和餌年秋、保育料を払って、公立の幼稚園へ行けない、貧しい家庭の子どもたちのため、幼稚園を開園いたしました。もう3年になりますが、まだ、園舎がなく、修道院の敷地の一隅や、夜、青年たちの娯楽のために建てられたセンターをお借りし、保育を致しておりますが、子供たちは喜んで来ております。 ここでは、殆どの子どもが朝食をとらずに…参りますので、おやつの時間が、何よりの楽しみで、この時の顔は最高です。きれいに並ばせ、ピーナツ、あるいはドーナツやクレープを配ります。 これを貰うため、幼稚園に来る子どももおります。ここには、傘やレインコートがなく、雨が降ると幼稚園に来られず…また、病気により休む子どもが多くなり、6月20日からバカンスに入りました。 『新しい支部開設』ショファイユの幼きイエズス修道会 永瀬小夜子
…あちこち回って、このチャドに来て…七カ月が過ぎました。
…主都ウンジャメナに、今年一月十日に新支部(を)開設致しまし(た)。この支部は日本人(私)と、カナダ人二名の支部です。 仕事としては、カトリックセンター宿泊所です…まだまだ不自由な交通機関…地方から、挨にまみれてたどりつかれる宣教師方に、一息いれて休める場所をとの要望に応えたいと開かれました。 開業以来、人々の出入は激しく、とくに、この短い間に、六名の重病人を本国へお見送りするなど、何が起るか、さまざまです。 …宣教師たちの懸命の努力にも拘らず、まだまだ、人々の意識は、自国を自ら育てるところまでには、まだ、時間が必要です。 …貧富の差…恐しい勢のインフレ…この中にあって、彼らとともに、いつも、そこにいて働く人々に、一時でも憩って頂けたらと、七名の職員(チャジアン)とともに…懸命です。…日本人のお客様には、全く出会いません。この主都には、日本人は、まだ、私一人です。 (一九八八・七・一五) 『アフリカの生徒も、テストに追われ…』御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
…こちらルンサは雨期に入り…雨が毎日よく降っており、湿気がとても強く、日が照ると、まったく、蒸気ガマの中に居るようです。
…五月中旬から六月中旬まで…西アフリカの生徒たちにとっては、頭の痛い試験が続きます。日本のように深刻な問題はありませんがいつものん気な生徒たちも、この時ばかりは緊張し、夜も寝ずの勉強、ローソク(や)、ケロセンランプの下で頑張ります。 小学校は、まだ義務教育では(なく)、年齢もマチマチで、五歳で入学する生徒もあれば、十歳で始めて学校に来る生徒もいます。 現在、小学校は七年制で、頭の良い生徒は六年でも、卒業テストを受けることが出来ます。…卒業テストは、全国共通テストが定められた日に、定められた試験センターで行なわれます。……テストの結果は、それぞれ(入学)志望校に知らされます…テストに合格すると、中学入学資格が得られます。しかし生徒は(さらに)それぞれの志望校の入学試験も受けなければなりません。中学でも、卒業学年の五年生、六年生は、中学卒業大学人学資格テストを全員受けます。…このテストの結果、一級、二級、三級と分けられ、一級は、すぐ大学を受けることが出来、二級は、科目によってはCK、三級は中学卒業資格は得られたが、大学のためには六年生(フォーム・6)を行なわなければなりません。このように、アフリカでも、生徒はテストから逃れられません。しかし失敗しても悲観はしていません。落第生は、「一年先輩」と胸を張って、もう一度はじめています。…(追記)…最近、郵便事情が悪くなるばかりで、以前は、日本からいろいろ届いていましたが昨年からいろいろなニューズや「きずな」も到着しておりません。やはり淋しく思います。 『『サンキ』モモヨ ジャパンピープル−ありがとう、日本のみなさん−』手を貸す運動代表 佐藤正明
…多くの方々の湧きあがるご支援に支えられて、手を貸す運動は、次第に大きな流れとなりました。昨年Sr根岸美智子さんが帰国されて、各地で講萌されたり、新聞や雑誌が取り上げてくれたりして以来、実に沢山の方々や団体が、シエラレオネの子たちを助けるために手を貸して下さるようになったからです。本当に大きな喜びです。
…シエラレオネは、森も川もあり…自然にはかなり恵まれているのですが、…ずっと植民地であった後遺症から、産業、政治、経済、教育などがひどく遅れ……激しいインフレ、給料の遅滞、失業、ドルの所持、持出しの禁止など、日本では考えられない状態のようです…貧しくて、子供たちの多くが一日一食しかとれないことは、皆さん、すでにご存知の通りです。…そんなところに開始された千人の児童の給食は大変な喜びをもたらしたそうです。 みんな「サンキ、サンキ、モモヨ、モモヨ、サンキ、サンキ、ジャバン、ピープル」と踊り上り、歌い歩いているとのことです。 サンキはクリオール語、モモヨはチムイ語で、ともに「ありがとう」を意味するそうです…これくらいの給食で、そんなに喜んでもらえるなんて…と、それを読んで涙が出ました。 (「手を貸す運動ニュース7号(88・3・15発行)」より転載) 『南米』『パラグアイで初の聖人誕生』聖霊奉侍布教修道女会 林静子…五月十六日から十八日まで、パパ様がパラグアイにお出でになり…殉教された、三人のイエズス会 の神父様方を…列聖されます。
(そのうちの)ロケゴンザレス神父様は、インディオから殺され、火で焼かれました。しかし、奇跡的に心臓だけ焼け残りました。
殉教の翌日「たとえ私を殺しても死にません。何故なら、私の魂は天国に行きます。そして私は、あなた方から離れますが、また、帰って来るでしょう」という声が、灰の中から聞え…それで、この心臓が見付け出され、今でも、この心臓はガラスの器に入れられて保存されており、信心の対象になっております。今までは福音でしたが、今度、パパ様より列聖されます。パラグアイのアツスンシオンに生れたこの聖人は、パラグアイの、一番日の聖人です。 …エンカルナシオンの町も、この神父様が創立されました。…私の住んでおりますコロニアも、一昨年、市に昇格し、今、やっと電化工事をしています。今日は夜中から雷が鳴り、大雨で、学校も幼稚園も、お休みになりました。道路がぬかるみ、歩行が大変で、車がおくれるのでお休みです。こんなところが、田舎の不便さの、呑気さと云いましょうか…。(四月十二日) パパ様、ご来訪記念(右から)Sr金永Sr林Srマリア・テレジア 〜エンカルナシオンの広場で〜 『パパ様、ご来訪の日』聖霊奉侍布教修道女会 林静子
…五月にパパ様がウルグアイ、ボリビア、ペルー、パラグアイにお出でになりました。今日は、パラグアイにいらっしゃった時のことをお伝え致します。
五月十六日、パパ様がペルーを出発…午後、アツスンシオンにお着きになった時は大雨で、皆、ずぶ濡れになって歓迎いたしました。 …私はエンカルナシオンに属しておりますので、三日目のエンカルナシオンでの祭儀のことをお伝えいたします。 …エンカルナシオンには、たった、一時間四十分の御滞在でしたが、草原の飛行場の横に、パパ様歓迎のエスベランサ広場が作られました。エスベランサ”というのは、スペイン語で、希望という意味です。貧しい国ですので、放映の道具は、お隣のブラジルから借りて来て設置しました。パパ様の祭壇を作るためには、隣国アルゼンチンの大工さん達が、応援に来て居りました。 小さな草原の飛行場ですから、ドイツから借りて来た四機の軽飛行機で、パパ様の一行は到着されました。 私たちは夜半から野宿してお待ちいたしました。オーバー、毛布にくるまって、夜明けを待ちました。 「PAPA Jvan Paulo. Secundo. Te Quiero Todo el mondo」ホワン・パウロ2世パパ様、世界中の人が貴方を好きです″と、小旗を振りながら熱狂的に叫び、十万人以上の人々が約三万坪の広場に集まりました。アルゼンチンからも、司教様、神父様、シスター・万が多勢参加されました。 …短時間でしたので御ミサはお捧げにならず、聖書朗読とお説教がありました。奉納の式には、いろいろなグループが、贈物をパパ様に、直接差し上げました。…パラグアイでは、今まで、政府と教会の関係がよくありませんでしたが、…この度の御来訪のための準備は、政府と教会が協力してやりました。このために対話もあり、よい結果をもたらしたと思います。90%以上がカトリック、また、30歳以下の若者が人口の70%を占めている若い国ですから、希望はございます。 修理中の教会のドーム 『三年がかりで、やっと建物が』武内重雄
…今年八十年を迎え、先月、盛大にその祭典を催したブラジルに於ける日本移民は、二世、三世、四世を含めて、百十六万八千人を数えます。その最も大きな集団地は、云うまでもなく、サン・パウロ州の首府、サン・パウロ市であります。南米第一のマンモス都市で、人口は一千万人を越え、五十カ国以上の人種が雑居する柑咽です。
このサン・パウロ市に、三十万人近くの日系人が、文化、教育、商工業の各方面で活躍しております。 市の中心地、カテドラルの背後に、二百三十年の歴史を持つ、聖ゴンサーロ教会があります。聖ゴンサーロは、日本二十六聖人殉教者の一人です。イエズス会が、一八九三年から、この教会を担当しております。一九二六年、ギード・デル・トー・ロ師が、この教会で日系人の宣教をはじめました。この教会が日系人の宣教師たちの手に移管されたのが一九六三年、一九六六年。時の大司教アグネロ・ロッジ枢機卿によって、この教会を本部として(属人)日伯小教区が創立されました。現在十人の司祭が概算十八万(受洗者)の信徒を、十二の巡回カペラニアを持ち司牧して居ります。 …この教会が、最も必草としているのは、ホール、子供たちのための部屋、青年会、婦人会、信徒会の集会場、司祭館等です。 一九七〇年から、その建築に取組んで来ましたが…なかなか実現にまで至りませんでした。…一九八五年、ようやく許可も下り施工の運びとなりましたが(その後)…建築材料が姿を消し、工事は頓座する結果にもなりました。教会堂の後ろ、六百uに地上三階、地下二階の建物が、日本であれば半年足らずで竣工するのが、ここでは三年近くかかって建物だけは、漸く出来上りました。昨年のハイパーインフレは、三九一・五三%、今年もそれに劣らない状態で、赤字続きになっております…。 右側が新しい建物、左現教会の側面 『ペトロ・パウロの祝日に』仙台教区 首藤正義
…ブラジリアでのポルトガル語の研修を終えて、サンタレンに戻って来ました。…サンタレンは、ブラジリアとは、いろいろな面で、随分違います。気温は…ブラジリアでは夜2杖の毛布が必要だったのに、サンタレンではシーツを一枚かけるだけで十分です。
食事に関しても…ブラジリアは肉…こちらでは魚の料理が多いです。…6月29日は、ペトロ・パウロの祝日で…私はポア・エスベランサのコムニダージ(共同体)で…祝いました。 その祝い方は、28日、29日の2日間、夕方になると「フォゲィラ・ド・サンペドロ」と言って、それぞれの家の前で「焚火」をします。お盆の迎え火”のような感じです。そして、怨日には、夕方、十字架とローソクを持った侍者の子供を先頭に、たくさんの子供たち、大人たちが参加し、模型の舟に安置されたペトロの像を担いで、地区の通りを練り歩きます…これを…プロフィッサオ(行列)と云います。…カペラ(聖堂)に着くと「ビーバー・サン・ペドロ」の三唱とともにミサが始まります。……、サの最中、犬が入って来たり、小さい子供が歩き回ったりしていますが、祭りの雰囲気は最高です。…祭で幕が開いたサンタレンでの一週間でした。 日本から送られた本が無事着いて喜ぶロンドリーナの日本人信者会の皆さん 〜イエズス会スクール師〜 『電話が入って大助かり』フランシスコ会 マヌエル加藤
日本は暖かい時をお迎えのことと存じますが…ペルーは逆に、寒い時を過しております。…例年にない寒さが襲って来て、風邪が流行しておりますが、幸い…元気に聖務に励んでおります。
…二、三年前にラジオ、テレフォンのために…ご寄付を頂きましたが、そのラジオ、テレフォンが、ようやく、エンマヌエルホームに取り付けられました。…砂漠の中にあるこの施設に…電話が入ったおかげで大助かりです。急に何か起った場合、以前のように心配することもなくなりました。皆様から、エンマヌエルホールの建築のために頂きましたご寄付の中間報告を、ペルーに着いて一カ月以内にするつもりで帰りましたが、ペルーに着きましたら、経済状態が非常に悪く、建築材料も含めて、いろいろな物が、市場から姿を消しておりました。…鉄材とセメントを捜すのに走り回った結果、四カ月かかって、幸いに、ようやく鉄を全部と、セメントの一部を購入することが出来ました。…品物が不足しておりますので、途中で、何が起るか心配しております。今のところ、来年6月までには、完成したいです。そして、来年8月に行われる、日系人ペルー移住九十周年に、この建物を、お世話になっている、ペルー国民への、感謝の気持で、贈呈したいと思います。 一九八八・六・二〇 『アジア』『三人の手術枠に、三百人!!』聖母訪問会 フィリピンコミュニティ遠藤マツエ
イザベラ教区のレフアラルセンクーが、日本カトリック医師会と他のご好意の方々のご協力で建てられてから、早や二年が過ぎました。その間、貧しい病者の小さな灯となって来ました。今日は二つの出来事をお伝えします。
昨年の十二月、かねてよりの希望であったメディカル・ミッション(一定期間の集中的手術)が行なわれました。フィリピンに多くみられる疾患の、甲状腺肥大と日の白内障、兎唇の手術に範囲をしぼり呼びかけたところ、予想はしていたものの、甲状腺肥大は…一日三名しか手術できないというのに、三百名の希望者…当然、白内障、緑内障の患者も多く押しかけ、わずか五日間のメディカル・ミッションは、お祭り騒ぎのようでした。専門医の診察の結果、緑内障の患者さんは…バギオ市のセントルック病院で手術を受けることになり、二月に四人の患者(五歳、十五歳、十八歳、五十五歳)が選ばれ…ました。 …二週間後に、無事に手術をすませて戻って来た患者さんたち、出発前とはまるで別人のように、喜び、輝いた顔で「見える!見えるようになった!」と…泣きながら…喜び、主に感謝を捧げました。 寒村に七名のヘルスワーカー誕生″ もう一つの明るいニュースは、五月二十二日、マラボという寒村での、七名のヘルスワーカー(保健衛生指導員)の誕生(です)。 イサベラ教区のプログラムとして、一九七五年に始まったCBHP(基礎共同体保健衛生プログラム)は、ハイウェイから遠く離れたこの無医村に入り、ヘルスワーカーの訓練を続けて来ました。 結核患者が大変多く、貧しい村で…マルコス政権時代は政情が大変悪く、スタッフがトレーニングに行き、二、三泊して帰ると、泊めて下さった家のご主人が殺されたり、村長さんが殺されたりして……プログラムを中止すること数回。訓練中のヘルスワーカーのメンバーも、数回、数人交代しながらも、十三年間を要して、やっと、喜びの日を迎えることが出来ました。…中の一人は、七十五歳のおばあさんで…卒業証書を…渡された時…出席者一同に、喜びの涙が光っていました。…現在、教区のヘルスワーカーは二一八名、スタッフは七名で頑張っています。 『奨学生と共に』聖母訪問会 山下正子
…貧しい子供たちの奨学資金制度をはじめて数年が経ちました。
主に、教区レベルでは大学生対象、コミュニティレベルでは高校生対象に、奨学金制度を行なっています。コミュニティレベルの奨学生(約二十名)は、毎週土曜日、午前二時間、何らかの労働をすることになっており、その後、シスターと共に、一週間の学生生活の分ち合いなどをやって来ましたが、今年からは、一層、人間として、キリスト者として生長していくための勉強会を始めようとしています。また、教区の土地を少し借りて…今年から、本格的な共同農場も始めようとしています。…雨が少なく、土地が固くて、まだ耕すことは不可能ですが、雨期に入れば、カラパオ(水牛)を借りて耕し、すぐ傍のギバン幼稚園の子供たちの、おやつに供する、さつまいもや木いもを植えようと、はり切っています。…木いもからは、カタクリ粉がつくれるので、女子学生には、カタクリ粉を作る作業をさせたいと思っています。…授業料だけでなく、家が貧しいので、学校に通うための交通費、制服、学用品、全て、支給する必要があります。…子供の教育に参加する意味で、一人ひとりの親に面接し、どの部分を家族が受け持てるかを相談し、学期はじめに、決定します。弁当だけ(質素なもの)持つという親が殆どですが。 『比、内需拡大のため、援助品が渡らない?』マリアの宣教者フランシスコ修道会 海野常世
…ただ今、フィリピンは夏の季節で、マニラは大変な暑さでござい)21(ます。でも.ハギオは、朝夕17度ぐらい、日中はせいぜい26〜27度ぐらいで、とても楽な夏を過しております。…私が仕事をしている、日比親善会館…アポンは、いま増築中で、五月の末には、新しい聖堂と、一階に台所(宿泊者用)、日本間と神父様用のお部屋が完成いたします。…新学期に備えて、たゞいま、高校、大学の奨学生の申し込みを受け付けております。
…少し困ることは、今まで日本の皆様から、沢山の衣服、その他の物を送って頂いて、バザーを開いて、奨学金、日比親善協会の運営費に当てておりました。ところが、この度、フィリピン政府からの通達があり、日本から送られて来た荷物は、私達の手に渡して下さらないことになりました。理由は、フィリピンの製品を沢山売るためとのことです。現在、郵便局に二百個以上の荷物が届いているのですが、それを私達に渡すのは無理とのことでした。こんなわけで、今後の仕事の上で、いくらかの支障を来すことと思いますが、摂理とマリア様のお助けに信頼しております…4月21日 『十年目、幼稚園を建てたい』聖母カテキスタ会 千葉礼子
…お蔭様で皆さまに励まされながら、一月で、満十年をこちらで迎えました。十年一昔と云いますが、この十年間に、こちらもどんどん発展しています。私はメダン市にあるカトリック小学校に勤務しています。…私の学校は、貧しい家庭の生徒が多(く)、生徒数は今年四一六名ですが、そのうち、父親か、母親のいない生徒が四十八名も居ります。学校も、学校付近も教区の土地になっておりますが、いろいろの問題があり、付近の貧しい民家は、賠償を(もらって)他の土地に移って行きました。でも、もっと高い賠償金をと望む人がまだ頑張っています。…貧しい人々が小学校だけでも教育が受けられるようにとの願いで、この学校を建てたインド司祭(イエズス会)も、教区の司祭不足から他の小教区に移り、私が一切を任されたわけです。…金庫を逆さまにして見せながら、一銭の預金もない状態でこの学校を引き継いで…四苦八苦しました。先生方や職員一同の給料も上る一方…父兄方からは「幼稚園(一年保育だけでも)を建てて欲しい」と願われ、本校の方に、三教室を増員する時に、同時に幼稚園も建てたいー今の…私の願いです。
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