『歴史はくりかえす』日本カトリック移住協議会理事長 石神忠真郎
キリシタン復活後、パリ外国宣教会をはじめ、数々の男女宣教会、修道会が沢山の宣教師を日本に派遣しました。そして、これらの宣教師の宣教、司牧の活動を助けるために、彼らの母国の信者さんたちは、物的、また、精神的援助を惜しまなかった。教皇聖座の、福音宣教者を通じてなされる全世界の信者の浄財(信仰弘布の日の献金)による援助もさることながら、宣教師を派遣した修道会や、宣教師たちの母国の篤信家の義捐金によって、現在の日本のカトリック教会の聖堂をはじめ、学校、病院、その他の施設はほとんど建設されたと言っても過言ではないと思います。 しかし、今や、教育、福祉事業の施設は申すまでもなく、わずか数十人信徒の小教区でさえも、経済的自立を成し遂げ、さらに海外からの援助に頼らないで、地元、あるいは国内の信者の手で、立派な聖堂や種々の施設よじ出来上るようになりました。 さらに、最近、日本の教会で目を見張らせる一つの動きは、人的また、物的海外援助ではないでしょうか。それは、修通会内部での国際人事の交流が盛んになった上に、純邦人修道会も海外にまで、進出するようになり、また、信徒宣教者も輩出して来たことによるのであります。そして、このような海外宣教者を後援する機運が、日本の教会内に高まりつつあります。「海外宣教者を支援する会」の出現や、会に協力する団体、個人が増えつつあるのはその一例であります。 「歴史は繰りかえす」と言います。明治、大正、昭和と百年余、兄貴分のヨーロッパや、北米の教会から援助を受けて来た日本の教会は、世界第二次大戦後四十年にして、ようやく、まだ微力ながらも、逆に、海外の兄弟教会を人的(総数二七三名)に、また物的に援けるようになりました。…われわれは、まさに歴史の転換期に、さしかかったような感じさえいたします。 昨年十二月中旬、「海外宣教者を支援する会」の定期役員会に同席させて頂きましたが、海外宣教者からの四つの援助要請に対して快よく応じて下さる役員の皆さん、その対応の背後には、千を越す会員の方々の力強い協力があればこそと存じます。 国際平和の年を迎えて、私たちは、口先だけでなく、いたみの伴う実践をもって、平和の使者として、開発途上国で頑張っている兄弟姉妹の宣教者達をますます支援して参りたいものです。 『第十五回役員会報告』「会」は昨年十二月十六日(月)午後五時から、中央協議会会議室で年度最後の役員会を開き、次のような案件を審議、決定した。@石神司教、松尾、倉橋両神父ら三聖職者の帰国報告(別稿) A「きずな」について
『支援・援助』
『アンケート・レポート』最近、海外で生活する日本人が増え、それらの国々から日本人司牧者の派遣を要望する声が多くなっている。国際協力委員会では、これらの要望に応えるための具体的な資料を作るため、昨年六月、海外で在留日本人のために働いておられる宣教者たち約七十人にアンケートを求め、このほど、その回答が集まったので「きずな」編集部で整理した。今後の海外宣教、日本人司牧の活動の一助になり得ることであることを期待したい。 (参考資料・外務大臣官房領事移住部編・「海外在留邦人数調査統計59年版」) アンケート項目 (1)現状と必要性(どんな会合を、どのように、人数、回数など) (2)今後の見通しとそのための計画 (3)日本からどんな支援が出来るか (4)他に日本語でミサを行っているところをこ存知でしたら (5)現在に至るまでの(歴史的)経過 回答 ロサンゼルス @約百人の日本語を話す人、他に二百人の英語を話す人が週末ミサに参加。週二回、日本語聖書クラス、月一回日本語ミサ、毎日曜日八時三十分のミサでの聖書朗読、説教は日本語。A日本語を話す人の老令化と減少。一世から、ロサンゼルス地域への日本人司祭の必要性が指摘されている。B一九二〇年以来、この教区でメリノール会が働いているが、日本からの司祭、シスターたちの派遣が望まれる。学校を経営しているので、学校管理の司祭が必要。 CD在米日本人の来訪は告解の時が主で、本来、それらの居住小教区に所属している。 韓国(ソウル) @赴任後一年四カ月で、状況、言葉になお制約あり。対日感情から日本語使用は慎重にしているが日本語使用希望の韓国人のためのミサはあってもよい。現在日本人司祭は二名。A企業等で日本人のために日本語ミサは必要。B来韓する信徒名、住所等が分ればよいと思う。駐在日本人、長期滞在者・学生・旅行者たちの悩みを聞く相談センターの開設も一案。C日本人のための日本語ミサは行われていないと思う。Dナショナリズムが強い。 オランダ @月に一回、日曜日、アムステルべーンで日本語ミサ、子供の教理勉強をしている。月二回、平日朝に聖書朗読会。Aオランダには二千人以上の日本人が在住、アムステルダムなどの日本人とコンタクトする方法が分らない。B日本側が在オランダの日本人名簿、住所等を知らせてほしい。C在オランダ協力者二名あり。D一九八四年、九月以前はオランダ人神父、その前はデュッセルドルフより日本人司祭が月に一度日曜日に巡回していた。アムステルダムのミサ参加者は二十五人ぐらいだった。現在は報告者がその任に当る。 カナダ(バンクーバー) @バ地域のカトリック信者は少数。スティブンンン地区の教会に日本人信者が数人居る。日本語ミサは皆無。日本人司祭も居ない。3日本人は日系カナダ人の永住者である。 ABバンクーバー大司教は日本人司祭を望んでいる。英語を話せるカテキスタでもよい。年二回ぐらいのミサと子供への要理教育が必要。経済的には困っていない。クリスチャン・コミニティを作ってほしい。日本のカトリック新聞が楽しみ。CDバンクーバーは創設百年ぐらい。地域には和歌山出身者が多く、漁師を業とし、すでに二世、三世になっている。 台湾川(I) @布教対象は日本人でなく、大学の男女学生。かつて日本人神父がウライの山地人のために台北で日本語ミサをしたことがある。ABC回答できない。D一九七三年に台湾へ派遣された。日文系学生のための聖書研修会(現在約三十名)。現在までに十人が受洗、さらに二人が準備中。 台湾(II) @日本語による日本人および台湾人の台北グループがあり、毎月第四日曜にミサが中山北路の礼拝堂で挙げられる。A将来、日本語を話す人の司牧を命ぜられれば受けるつもりである。B日本からの支援を知らない人が多い。CD パリー日本人カトリックセンター @一九七二年フランス司教団により設立。毎月第一、三日曜にミサ、参加者二十五人ぐらい。第三日曜に講演会。一九八五年から、とくに国際結婚で生れた子供たちの日本語教室、その他教理研究会聖書を読む会、婦人会など実施。A最近の動向で著しいのは国際結婚をした人々、とくに日本人女性及びその子供の宗教々育。パリの日本人の中にはインテリが多いので、信者、末洗者を問わずカトリックに接する機会を作ってゆく。B一九八三年から東京の後援会、フランス司教団の援助を受けている。Cフランス語の出来る日本人はセンターよりよりフランスの小教区の活動に参加することが望ましい。 サンフランシスコ @一九八五年クリスマスまで日本人イエズス会司祭がミサの手伝い。聖母訪問会シスターが回宗への指導、成人教育のために定期的に手伝い、毎月第三日曜、十一時ミサは日本語。フランシスコ・ザビエル教会は、オークランド教区、サクラメント教区でミサ。フェアフィールドとアラメデで教理を教えている。A一九八六年クリスマス後、シスターに共働者になってもらう計画である。B一九八四年 〜八五年設立した成人宗教教育のための日本語図書館への日本語の、新刊書の定期的発送を。Cサンホセ教区でも毎月定期的ミサあり。D日本人のための小教区の創設者はパリミッション会のBRETON司教。一九一三〜一九二五イエズス会司祭が小教区担当。一九二五〜神言会が担当。一九二九マリア・ヨゼフの侍女会のアイルランド人シスターにより、暁の星小学校、幼稚園設立。一九三九日本人のための新しい教会、聖フランシスコザビュル教会がオタグィア通に建設さる。 サイパン @現地の人の九五%がカトリック。現地人と結鯖した日本人も当地の文化に溶けこんでいる。日本人同士の交流もある。A旅行でサイパンに来て知り合って結婚した女性の離婚、別居がみられる。日本企業の長期滞在者に対しての宣教は考えられるが、報告者は長期計画は立てられない。B日系人と日本人の司牧については、とくに問題はない。Cグアムでは、沖縄の婦人たちを中心にミサが行われている。Dサイパンの日本人は組織化するほど多くない。 『マダガスカルのシスターたち』那覇司教 石神忠真郎
六十年夏、ナイロビで開かれた国際聖体大会に参加しました。
その後、マダガスカルで五年間も働いておられる駄本間(マリアの御心会)を訪ね、そこから約二百キロ南下し、旧フランス植民地のアンケラーべという荒れた地のアベ・マリアというフランシスケンのコミユニテで孤軍奮闘しておられる激遠藤もお訪ねしました。このコミユニテではシスターだけが唯一の助産婦で、ちょうど4産院の夏休でしたが、一人の産婦と三人の乳児を預かっていましたが、この間には一年間の仕事を片付けたり、家の修理もしなければならないといった有様でした。休みでない時には、遠くから何キロも歩いて来る人たち、一人で八十人もの助産をしなければならないということです。都心の国立病院は(治療代が)高いので、難産でも我慢して、シスターの所までやって来るので、大変神経を使っておられました。このマダガスカルの産院のもようは、曽野綾子さんの小説「時の止った赤ん坊」にも描かれていますが、現地でみると、それが小説なのか現実なのかゞ、はっきり分ります。(あの小説は)フィクションではなく、まさにセミ・フィクションです。 シスターは栄養失調の母や子への指導に忙しい毎日で、五年に一度は休暇で帰れるのに、訃遠藤は八年間も帰っていらっしゃらないということでした。本当に毎日が犠牲の生活で、責任感の償いシスターの熱心さには敬服させられました。 マダガスカルの都心、アンタナリーボに司教館がありますが、都心、スラム街、僻地の栄養失調の母子に対して、アメリカなどからの救援物資を配るのも、シスターの仕事になっています。 これらの救援物資は、みな修道会経由になっています。修道会なら送るという(意向もある)ので、修道会が配るわけです。 この配付に必要だということでマダガスカルのシスター本間を助ける会が発足し、(海外宣教者を支援する会などから)トラックが贈られましたが、そのトラックも無傷で現地に到着しました。 「きずな」を通し、皆さんがお祈りをして下さるということが、何よりの力となっているとシスター本間が話しておられました。 (帰国談・取材文責・編集部) 『モジダスに南米宣教の根拠地』ブラジル日伯司牧協議会会長 フランシスコ会司祭松尾繁司
二十五年ぶりに帰国しました。…今回は(新印刷機購入について)皆さんの、また、無名の方々からよじ多くの寄付を頂き、感謝とともに、喜んでブラジルに帰ることが出来ます。
二十三年前にブラジルに行き、もう、かなり古顔になってしまいました。 ブラジルの日本人移住者には七十八年の歴史があります。 中村長八師がブラジルに初めて行かれてからのブラジルの日本人移住は大変だったようです。現在、日本から七十五人の宣教者たち、それにブラジル現地のミッショナリーも合せて、百五十人が布教に当っています。ブラジルでは、日本人の農業への貢献が認められており、日本人の受洗者も多く、司教も、日本への強い支援をして下さっています。宣教者たちも、一年に一回、遠い地域からも集まって、二日間の勉強をしています。この時には、パラグアイ、アルゼンチンなどからも多数参加し、いまや、ラテン・アメリカの集まりとなっています。 この方々の協力によって、このほど南米の根拠地とも云えるよじのがモジダスという所に出来ることになりました。 ご援助による新しい印刷機で、ブラジル語、カナ付きの日本語の資料も作ることが出来、こんご、さらに充実の時が来ていると思います。 (帰国談・取材文責・編集部) |