『南米』『西部(?)の街ノヴァ・カナアン』フランシスコ会 山田伸一神父
…10月のはじめ六五〇キロ北へ、新しい教会を見るために旅行しました。人手が足りないのに、また、一つ新しい教会を開くことになりました。……北の町ノヴァ・カナアン。以前はジャングルだったのを、木をとっ払って町と農場を作りはじめました。…南の人間が三〇〇〇キロも北の土地に目をつけて、新しい生活をしようとしています。
信じられないような安い値段で、何百ヘクタールも買うのです。 しかし皆が皆、成功するとはいえません。在り金を使い果して、すごすご帰って行く人も沢山居ます。赤道近く、きびしい気候と熱帯病も失敗する原因です。民族大移動のあとを追って教会も北上しています。月平均30万人も北のこの州に入ってくるのです。 ノヴァ・カナアンの中心街。全部木造の家です。車の代りに馬をつなぐと、まるで西部劇に出てくるような町の風景です。男たちは、腰にピストルか大型ナイフをぶら下げて歩いています…土地問題でケンカの末、バンバン撃ち合います。クリスマス前に四人死にました。二百年前のアメリカ西部の生活がここではみられます。……12月9日、カンポ・グランヂで、小川神父様の旅行に出かけたあと、日系人の集いをしました。私のところから八五〇キロ南、小川神父様が月に一度ミサを捧げています。日系人が自分たちの教会を建てています。見て来ました。柱と屋根を作ったところでお金がなくなってしまい、いま中止です。…親子断絶とか云って、日本では親子で話しが通じない。ブラジルでは、親子で言葉が通じない。…二世は日本人の血を引いているとはいえ、日木語がよく分らない…だんだん日本の文化から離れていき…逆にブラジル人の間にも…入りこめない…教会側からの適切な指導が必要なようです。 『三十八人が住む神父館』淳心会 ヴィクター・マルゴツト神父
ブラジルの一九八四年はあまりよい年ではありませんでした。インフレがひどくなり…二年前に一ドル、一〇〇クルゼイロでしたが、今、一ドルは三〇〇〇クルゼイロです。物価がすごく上って、大ていの人は、もう、肉、卵、バター、ミルク、コーヒー、チョコレートなどを買えなくなりました。ブラジルは世界で食物の第二の輸出(国)だのに、国民の八〇%が飢えています。数百万人の子どもは飢えのために死んでいます。字の読めない人は三五〇〇万人、小学翻教育も受けていない子ども二二〇〇万、捨てられた子ども二五〇〇万、家や土地を失って、さまよい歩く人四〇〇〇万人以上、これが現在のブラジルです。アモレイラも大変です…が、お蔭様で今年、飢えのために死んだ子どもは一人も居ません。多くの人々が助けてくれました。……アモレイラの「集団センター」は成功です。幼稚園と保育園の子どもたちが増えて、長崎純心会のシスターは大変だと思います。朝六時から夜六時まで、育何十人の小さい子どもの世話…をみなければならないのに…疲れ果てても…エコエコして感心します。同じ「集団センター」の「老人の町」も完成しました。二十六軒の小さな家で…最も貧しい生活をしていた五十二人のおじいさん、おばあさんが、何の心配もなく……休むことができるようになりました。できればもう一つ、二十軒の老人の町を作りたいです…。
…これから「基礎教育学校Lを建てる計画です。貧し過ぎて普通の学校に入れない…子どもたちに…基礎的なものを教える学校です。 また、社会運動である「善きサマリア人のセンター」は、さまよう生活をしている人のために宿屋を建てます。私の家、いわゆる”CASA PAROQUIAL”(神父館)…の生活…は、無職で居る三つの家族、全部で十三人、二人の身寄りのないおじいさん、私の二十二人の子ども、私を入れて全部で三十八人が住んでいます。 そのほか…昼御飯の時、アモレイラの貧しい家族、お腹が空いている子どもたち、また、さまよう家族で、ここに泊っている人がよく見えます。食卓に坐れない人は、階段の上に坐って、皿とさじの足りない時は小さい人が先に食べて、大きいのは少し待ちます。分ち合う”というのは、本当にこの家のトラディションなのです。 『ブラジルの人、心はやさしく』聖ドミニコ女子修道会 宮内永子
六年ぶりに日本に帰り…豊かさに飽かされたような日本から貧しさに喘ぐ、ブラジルに帰って来ました。でも、ブラジルは貧しいけれども、人の心は自らにやさしいと思いました。親切な日未の人々から寄せられた献金を、共同体の二人の心やさしい婦人にお廉いして、月々、困っている母子家庭の生活費や学資にあてることにしました。
こうして、人の情けを経験した共同体の人々が、現地の、飢えている貧しい人々に、心から同情して、助ける心を持つようになってほしいと思っています……。 日本や、富める国のひずみから、多くの人々が第三世界で飢えているのをみて、私たちはつぐないが必要で、世界に投げ出されて、自国の罪のよく見える立場の人に、神様はそれを望んでおられるように思えます。 『教会誌は回し読み』マリアの宣教者フランシスコ修道会 佐々木光子
「あけぼの」12月号、1月号と新号……頂戴いたしました。…心から感謝申し上げております。…こちらの日系の方々は「家庭の友」と「あけぼの」「世紀」「心のともしび」「よきおとずれ」などが大好きでございます。…毎月、それこそ船便で結構でございますので「あけぼの」お送り頂けましたら、本当に幸いでございます。…ものすごいインフレのために、入荷する度に値段の上ります日東書籍、しかも、町では入手できない教会関係の雑誌は、日系の皆さん方に本当に喜ばれて、一冊の未は少なくとも、五、六人で回し読みし、その後田舎の方に送ってあげております。
私、二十六年前に渡伯、…偶然に弟(佐々木治夫神父)と同じ年にこちらに参り、いつの間にか1/4世紀を過してしまいました。五人で参りましたが二人は帰国いたし、一人は、昨年、聖母病院で一年の入院後、掃天いたし、現在は二人だけになりました。もちろん後続の日系シスターたちが何人かいらっしゃいます。…… 手作りのクリスマス飾りの前の幼稚園児〜ブラジル・イボチ〜Sr高田照子 '84年8月より、サンタクルスの日系人司牧開始 聖歌練習の小学生〜ボリビア・サンタクルス〜倉橋輝信神父 『うなぎ上りの物価の中で』聖心会 平尾道子
支援する会を通して、ビデオ機材購入のための多額のお金をほんとうにありがとうございました。……どんなに学校関係一同よろこび感謝しているかは筆につくせません…多くの生徒が、日々恩恵を蒙りますので、長年の夢のまた夢の、思いがけぬ実現に…感謝しています。……85年の経済見通しは暗いものです。パンが上り…ガソリンが上がり…今まで以上に輸入制限が強化され、…国の財政もアメリカの金利引上げで、首をしめられているという感じです。…ビデオの後妹も、最後のチャンスでした。…今、私の居る修院には……援助のため職を世話している家族との交わりがありますが(近所はこういう人々で埋まっています)。その中の一人の主婦は、手術ぎりぎりまで働いて、やっと入院までこぎつけました。いま、リマは真夏です。
昨年のように異常な暑さは続かないらしく、朝夕の冷えこみと真昼の日光の強さは今年は対照的に感じます。リマの海岸は汚染にもかかわらず、連日、庶民の群でにぎわっています。 『テロと創えの中で』三位一体聖体宣教修道会 斉藤万里子
…ペルーは八〇数年前に、日本人移民の始めて入った国ですが、恵まれない環境や悪条件、世界大戦によって早くから移民もとだえて、現在は少しの生残りの移民一世とその子孫の日系人が八万人ぐらい居ると云われておりますが、方々に散らばっており、若い世代はスペイン語しか話せません。…私は、メキシコ人とペルー人のシスターたちの中で、ただ一人の日本人として共同生活をしています。
主に日系の方々の通う学校で教え、また、集会を持ったりして毎日を過して居ります。ペルーの社会、経済状勢は日毎に悪化し、物価は上る一方で、来年からはゼロを三つ取って千ンーレスが一インティという、違う貨幣になることにきまりました。物価の上昇に伴って、収入はそれほど上りませんので、生活は苦しくなる一方ですが、それよりももっと困りているのは、残虐なテロリスクの組織の力が、どんどん強くなって畢隊も政府も押えられなくなってしまりていることです。私どもも、ペルー国内は危険で旅行も出来なくなりました。非人道的で、爆破したり、ピストルで殺すだけでなく、子どもの前で、罪のない母親の鼻をそいだり、舌を切ったりして、殺したりするそうで、暗いニュースが続いて居ります。…その危険で住めなくなっている山岳地帯から逃げて来た人々と、倒産のために職を失りた人々で、飢えはますますひどくなって来ています。 『やっと邦人司祭誕生』聖霊奉侍布教修道女会 林静子
クリスマスを前に、私の住んでおります移住地の出来かけのレンガ建ての教会に、せめて瓦をふせ、屋根だけでもと信者さんたちが話し合い、十二月十八日に、午前中、瓦桟をうち、午後から瓦をのせる作業に移りました。二十人以上の信者さんが働きましたが、屋根の上の梁が折れて、1-3の瓦桟が滑り落ち、乗っていた人が五人落ちて怪我をしました。請負師のごまかしもあって、壁のレンガにセメントを十分使っていなかったため、壁のレンガもガラガラと崩れ落ちました。
五メートルの高さの所から落ちた割に、怪我は少なく…誰も入院をしないですみました。……二十三日にエンカルナシオンのバシリカで…ポップリンケン司教様、二十名の神言会の神父様…列席の下に品田生さんが叙階されました。日本からもお母様と…合計四名の方が出席されました。 これでやっと日本人の神父様が一人、私たちの所に誕生されました。…品田神父様はここの教区に所属して、布教活動をなさいます。 『アジア』『新宣教共同体の誕生』聖母訪問会 フィリピン・イサベラ・コミュニティ
…今夜は久しぶりにシスターたちだけ、夕食がすんだらコミノテの集りをしましょうと決めて食卓につく。食前の祈りが始まったとたん、トントンと戸口を叩く音、「シスター今夜泊めて。もう村に帰るジープはないの」ドヤドヤと二、三人の教会ワーカーたちが入って来た。一人のシスターは素早く立って七輪をおこし、インスタントラーメンの袋を切る。四切のお魚を七人でつつき、みんなで分ち合う時、四人分であった食卓も、結構、みんなは満たされるから不思議。今夜のコミノテの集会も、ワーカーたちの活動の報告に早変りハイウェイ沿いにあるジャパニーズシスターのコンベントは、年々、多くの人の宿となり、憩の場となりて来た。それに加えて、今年はまた、新しい型の宣教共同体が生れたのも、予期しない恵みだった。日本から二人の信徒の青年、ボランティアのお嬢さん二人、横浜から来られた一人の助祭等が、それぞれイサベラの宣教に加わって下さった。…共に食卓を囲み、分ち合い、くつろぎ合い、日本教会から遣わされた宣教グループとしての自覚と喜びが強まって来た。
『八万人の信者に司祭五人』神言会 竹山光雄
常夏の国で迎えるクリス了スと正月にも味わいがありますが、日本人の私には、冷々としたホワイトクリスマスや正月が実感としていいのですが望むべくもありません。…クリスマス直前の日曜日にはミサだけで十二回あり、我々五人の司祭は食事をする畷もないほどです。
洗礼はその日だけで一五〇人くらいあり、三人の司祭が一時間以上かかってしまいました。八万人と云われる信者に五人の司祭といえばこの忙しさも理解して頂けるのではないでしょうか。司祭職を果す上での私の悩みは、あまり数が多いので、一人々々思うほどの時間をあてられないことです。日本の信者はその点、幸せだと思います。 …これからも他の日本人宣教師や私のためにお祈り下さい……。 『ヒンズーの国の中で教会活動進行中』ノートルダム教育修道女会 今村精子 河瀬須恵 金田美代子 中谷宣子
…私たちの住むネパール・カトマズのジャワラケルに三年前建てられたカトリック唯一の教会があります。
昨年来(一九八三年)、司教代理ミラー師を中心に司祭、修道者、信者たちが一体となり、ネパール教会の5カ年計画を創り…歩み出した教会活動も徐々に活発になって来ました。とは云え…専属司牧者が居ないので、大祝日や…二カ月に一回のミサのためには強雨の中、泥水の道を濡れながらやって来る信者たちです。旅の途上に見られる田園風景は…美しい日本の鼻村風景にも通ずるものがありますが、その反面、電気も水もなく…山岳地の農業は厳しい生活と労働を強いられます。水汲み‥、家畜の飼料刈りは女、子ども、幼児の世話、留守を守るのは老人の仕事です。…学校の行事・計画が事前に分らず、授業準備をして登校すれば「今日は授業がありません」と生徒から聞かされ、驚くことがあります。…言葉、習慣の違いで四苦八苦しながらも元気で働いています。 『アフリカ』『小さな学校、月謝が払えない生徒も』マリアの宣教者フランシスコ修道会 黒川栄子
昨年五月に引越しまして、ただ今、マラグッシュという町におります。ここで、私たち十人のシスターは幼稚園、家政学校、モロッコ刺しゅうのアトリエをしております。
私は家政学校で教え、モロ,コ人の先生方と、15才〜18才の少女の教育にあたっています。学校に全然行ったことのない少女も大分居ますので、私のおぼつかないアラブ語では足りません。 彼女たちは、洋裁、碍物、刺しゅうのほかに、アラブ語、フランンス語、算数、料理、衛生、育児等を習っています。生徒数一五〇人という小さな学校ですが、六百円の月謝が払えない生徒が沢山居て、なかなか、経営困難な学校です。でも、生徒たちが喜んで通い、将来、必要ないろいろな知識、技術を身につけていくのを見るのが、私たちの喜びです。 『砂漠の砂降るクリスマス』御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
こちらルンサはサハラ砂漠の砂降る、相変らずのクリスマスを迎えました。…二十三日には、例年のごとく酋長さんの家にキャロルを歌いに行きました。二メートルもある象牙の立ち並ぶ彼の部鼻の前のヴュランダに、赤い椅子に坐った魯長は熱心にキャロルを聞きました。お土産に金一封を頂いた私たちは、さっそく病院に行き、火傷で、両手麻痺してしまったジャミラを見舞い、クリスマスプレゼントとして頂いたお金を、さりそく使用しました。
二十四日の真夜中には、五百人以上も入る教会もびっしりで、七人の司祭によって、壮厳に降誕のミサが捧げられました。二十六日は極く貧しい人々のクリスマスパーティが開かれました。目や身体の不自由な人たち盲人以上が教会の庭に集まり、グループにして草の上に坐らせ、ゴハンのパーティをしました。両手が不自由な患者、しっかり帯をかかえて焼香を待つ、日の悪い患者、車椅子の少年も皆、この日はゴハンを頂き、古着のプレゼントに、とても幸せそうでした。 …子どもたちは「ハッピー・クリスマス・ナ・ピキン(赤ちゃん)・ボーンよ!」とタンポールを打ちながら町中を歩いて、また、踊りながら人々からお小遣いを頂いています。ルンサのクリスマスには、ケーキはありませんが、幼きイエズス様御降誕の喜びは、町中にひびきわたり、皆、心から祝い、楽しみます。 『北米』『ヒバク者のさけび』援助修道会 山田アンプ
一九四五年八月、広島と長崎を襲った原子爆弾のひづめは、今日も在米約一〇〇〇人以上のヒバク者の上に重くのしかかっています。
一部のアメリカ人の間では「ヒバク者」という日本語が、そのまま使用されている程、重要性を持ってきましたが、他の多くの人々は、全く無関心です。幼い時、若い時、広島または長崎でヒバクされ、年をとるにつれ、ガン、その他の病気に苦しんでいる日東人でも、外国に居るために、日本政府の援助を受けることが出来ない(数年前から一年おきに日本政府は医師団を送り、カリフォルニア、ハワイのヒバク者は検診を受けられるようになったが、本国に居る人々のように援助はない)。アメリカ政府はンッポを向いている。 健康保険会社は、ヒバク者と聞いたら断わってくるという。全く、孤児同様な立場に置かれています。私もー人のヒバク者として、修道女として、十二年前から、毎年、アメリカ政府に向って請願書を出していますが、いつも断られ、一歩も進んでいない状態です。 |