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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声


チャドからのお便り(ンジャメナにて)

ショファイユの幼きイエズス修道会 シスター有薗 順子
  海外宣教者を支援する会の皆様
  主のご復活大祝日のお喜びを申し上げます。主の輝き、ご復活の全ての恵みが皆様の上に豊かにありますよう心からお祈りいたしました。
  海外で働く私たちのために常に変わらないご支援を下さいまして、有り難うございます。クリスマス、新年にもマリア様のカレンダーや美しい花のカレンダーも頂きましたが、お礼も申し上げずに、すっかり失礼してしまいました。 この度、日本は地震、津波、原子力発電所爆発事故などで本当に大変でしたね。被害を受けられた方々とそのご家族の皆様に心からお見舞い申し上げます。共同体で毎日皆様のためにお祈りしています。
  さて、こちらは室内で44°、炎天下で60°という最高の暑さ、しかし日本や他のアフリカ諸国の惨事を思いますと、何のことはありません。チャドは昨年、独立50周年を迎えましたが、少し遅れて、2011年1月に盛大な祝典が行われました。1,000発の花火も打ち上げられ、北方からは盛装したラクダが300頭くらい首都に入り、丁度外出していた私たちは足止めされました。
  独立50周年を記念して、首都を初め主要道路は舗装され、大統領官邸前には記念像が建てられ、夜には100近い電球が輝いています。あちこちには病院、産院、学校などが建てられ、一部の地域には2階建ての住居が見られるようになりました。
  反面、病院の職員や教職員は給料の上払いで、ストを決行。私たちの地区でも昨年のクリスマス前から発電機の故障とかで、5・6回予告なしに送電されただけで、停電が続き、電話、メールなどが使用できません。ただ、携帯電話だけは使えます。
  今年、カバライ宿泊センターでは聖香油ミサがありました。そして聖金曜日にも大司教様が来て下さいましたが、教会の2つの発電機は故障で、石油ランプでの式典でした。1,000吊を超す信徒がミサに参加しましたが、マイクも入らず、私は少々イライラしました。周囲を見ますと、皆様平然としておられます。「電気なしの生活に慣れておられるのです《と気付き、私も平静を取り戻しました。24日ご復活のミサ後、フランス人の若い信徒宣教者がびっしょり濡れて、宿泊センターでのベランダに座っていましたので、ミサでこんなに汗が?と聞きましたところ、あまり暑いので、「ボトルの水を頭からかぶった《と笑っていました。「暑い、暑い!《の連発ですが、私は時々、「寒い、寒い!《と言いますと、皆大笑いになります。
  大祝日の翌日は大統領選挙日です。当初、政府は24日に予定していたのですが、司教団の要請で25日になり、嬉しいことでした。
  さて、私たちの修道会が、首都ンジャメナの大司教様の要請を受けて、このカトリック宿泊センターに来てから、今年で23年になります。この施設は聖職者、宣教者たちを優先し、空き部屋があれば、ミッション関係者の方々を受け入れます。ここンジャメナには、チャドで唯一の国際空港があり、色々な方が出入りされます。今から8年前、お炊事を担当していた方が暑さに耐えられず、帰国した後、この役が私に任されました。料理など習ったことはなく、全く我流、見覚えでしかできない私がこんな所で出来るはずがないと、一晩、一睡もしませんでした。しかし、出来るだけやれば良いのだと自分に言い聞かせて、人に尋ねたり、本を見たりしながら、2人のコックとどうにか続けています。疲れ果てた宣教者たちが研修会、会議、買い物などで宿泊され、帰られる時、笑顔で満面を輝かせ、「ありがとう《と言って、僻地に帰っていかれます。この方々は私に代わって宣教して下さっているのです。宣教者の「生命への奉仕《、「エネルギーの源《になっているのだと思う時、素晴らしい奉仕をさせて頂いているのだと誇りに思うようになりました。冷水も充分にあげられず、冷たいデザートなど滅多に出せませんが、それでも40を超える国の宣教者の方々は、扇風機さえ使用できない、世界一暑いと言われるンジャメナのカトリック宿泊センターでの滞在を喜んでくださいます。
ここでの私のミッションをどれほど多くの方が支えていて下さることでしょうと思いながら、日々皆様のためにお祈りと感謝をお捧げしております。皆様、有り難うございます。主のお恵みと皆様のご支援なしに宣教は出来ません。今後もよろしくお願いいたします。
   
2011年5月16日

                 

カンボジアからのお便り(コンポンルアンにて)

信徒宣教会(JLMM) 高橋 真也
  ☆ 里子との対面、再び!
去年、日本の里親が里子に会いに来てくれたことをお伝えしましたが、今年も里親と里子との再会がありました。里子はボパーちゃん、里親は泉さんという方です。私達は朝、首都プノンペンから車で出発し、午後にコンポンルアン水上村に着きました。泉さんは3年前にもカンボジア、そして水上村を訪れて下さっています。その時とは変わった水上村や教会などを少し説明していると、ボパーちゃんのお兄ちゃんのポラー君が私達を迎えに来てくれました。それではと、ボパーちゃんの家へさっそく向かうことにしました。家が近づき、ボパーちゃんも私達に気づき、うれしそうに身を乗り出していました。そして泉さんが家に上がると、二人で熱い抱擁。泉さんも、ボパーちゃんも、この時をどんなに心待ちにしていたことでしょう!目に涙をためた泉さんを見て、彼女も感極まっていました。
  私達は水上村に2泊3日で滞在しました。その間、ご飯は朝から夜まで、全てボパーちゃんのお母さんのイタムさんが作ってくれました。「絶対他の人の所でご飯を食べないで!私は貧乏でたいした料理は出せないけど、娘を学校に行かせてくれている里親の泉さんには、私が心からのおもてなしをしたいから《と言っていたイタムさんの料理は、どれもごちそうで、とても美味しかったです。
  朝には教会の前から出る朝日を楽しみ、夕方にはボパーちゃんに沖まで舟を漕いでもらって夕日が沈むのを鑑賞しました。夜は蚊帳を張って寝床を準備した後、教会の前に座ってお酒を飲み、マッタリとした時間を過ごす…。泉さんだけでなく、私も水上村での至福の時間を楽しませてもらいました!
  ボパーちゃんは、遠い日本からわざわざ会いに来てくれた里親の泉さんに、とても感激していました。そして、私という通訳を介さないとお話が出来ないことに、もどかしさも感じていたようです。最後、泉さんとお別れをする時に手渡した彼女の手紙の中には、「もっと英語を勉強して、コミュニケーションがとれるようになりたいです《と書いてありました。今回の里親との対面が、また彼女の勉強のモチベーションをあげてくれ、将来への希望をふくらませてくれたのです。
  こうした、一人ひとりが強く繋がる、顔の見える支援を、これからも大事にしていきたいと思います。
高橋1 高橋2
左から、泉さん、おばあちゃん、ボパーちゃん、イタムさん  素敵な夕日をボパーちゃんと一緒に見に行きました

2011年5月22日

                 

ボリビアからのお便り(サンタクルスにて)

イエスのカリタス修道女会 シスター白浜 チエノ
  海外宣教者を支援する会の皆様
  東日本大震災の打撃を受け、世界中の人たちの痛む心を集めた出来事を思い起こしています。ボリビアでも一時期は毎日このニュースが放映されました。
  こちらの神父様、シスター、知人の方々からシスターの家族はどうでしたか?と尋ねられ、励ましやお見舞いのことばを頂いています。世界中から寄せられた沢山の支援に心から感謝しています。そして、こちらボリビアの人たちが日本と日本人の良さを評価していました。例えば、災害が起きてから1週間で道路が整備され、物資が配布されると、順序正しく並んで、受け取っている姿を見て、感動したそうです。自分たちだったら、泣き叫んだり、取り合いをしたり、取り乱して、あれほどの冷静さは保てないでしょうと。またノヴィスたちも「ガマン《、「ガマン《、「ガンバレ《などの言葉を覚えて、折ある毎に「ガンバレ《とか「ガマン《と言って、頑張っています。
  この度、車両保険、ガソリン代を支援して頂き、2011年5月16日に確かに受け取りました。心から感謝し、お礼申し上げます。厳しい日本の状況にも拘わらず、ご支援頂き、恐縮しながらも有り難く活用させていただきます。幸便の関係で礼状が遅くなって、申し訳ございませんでした。
  私たちが住んでいる沖縄県民の移住地の周りには15か所のボリビア人村があり、そこで司牧を担当するメリノール会の神父様と共に、各村に小さな教会を建て、数吊のカテキスタ、青年リーダーの協力を得て、司牧して参りました。ところが、この5月そのミゲール神父様が85歳を迎えて、ボリビアにおける50余念の宣教生活を終えて、帰国されました。それで、これからも宣教・司牧を続けるために尚一層の責任を感じています。
  司祭上足で各村でのミサは年に、あるいは月に数回しかできませんので、日曜日の「みことばの祭儀《を各村のカテキスタが出来るように、また土曜日は青年リーダーたちが子供たちの教会学校をリード出来るように、シスターたちが巡回して、奉仕する形をとっています。村人は家の周りで畑を耕したり、牛・ぶた・アヒルなどを飼育したりして、貧しさに甘んじて、「明日を思い煩うな《というイエスのみことばを生きているようです。奥地の人たちは交通機関が乏しく、シスターたちの訪問を待ちわびています。
  その他にも、貧困、病気、家庭問題など限りがありませんが、素朴な喜びのうちに神様を信じ、賛美と感謝を捧げることが出来ますように、共に励んで参りたいと思います。どうぞ今後とも、よろしくお願いいたします。
  「海外宣教者を支援する会《の皆様、お一人ひとりの上に神様の豊かな祝福をお祈りいたします。
2011年5月24日

                 

カンボジアからのお便り(コンポンルアンにて)

信徒宣教会(JLMM) 相沢 雅弘
  《国境紛争》
   最近、日本でのカンボジアのニュースというと、プレアビヒア遺跡周辺で続いているタイとカンボジアの国境紛争のニュースではないでしょうか。
  日本にいる何人かから「大丈夫?《と問われましたが、こちらでも、時折、銃撃戦があったことなどがニュースで流れていますが、見ている限りでは、それに伴う緊張感は感じられず、軍関係車両などの移動も目にすることがありません。また、紛争地域以外のタイとカンボジアの国境の往来は行われています。
  しかし、紛争の小競り合いに伴って死傷者もでており、カンボジア側では難民が1万4千人(2万人程度という人もいます)いて、国は支援を発表してはいますが、今も多くの人が、屋根も電気もない場所での生活を強いられているようです。これは、タイ側でも同じようです。
  《田椊えの季節》
  日本からも早々の梅雨入りのニュースが届いていますが、カンボジアも雨が多くなり、田舎では田椊えが始まりつつあります。
  田んぼを目にしながら育ったわたしにとって、田んぼは季節を感じとる一つの大きな要素となっています。しかし、今年の日本では、農家の作付けの時期でありながらも、震災や津波によって、また汚染によって、多くの方々が作付けを断念せざるをえない状況にあることを考えると、とても心が痛みます。
  震災は、様々な傷を、物質的にも心にも残しましたが、被害が小さかった関東でも、友人の1人は、幕張にある有吊な娯楽施設の駐車場で震災に遭い、液状化する大地を目の当たりにして、その時の恐怖が今も彼女を悩ませています。
  さて、カンボジアの米作りについて触れてみると、実際には家族の食べる分の米も十分にまかなえない家庭が多くあるといわれますが、数字的にだけ見れば、カンボジアの米の自給率は100%で、国内消費の面では十分といえます。
  しかし、周辺の国々が、1年に2〜3回の収穫をしているのに対して、まだ1年に1回の収穫が多いとのことです。これは、自給自足の生活習慣からだけではなく、貯水、灌漑用水の整備が上十分なため、雨の少ない時期には米作ができないこともあるようです。
 そのような中、国は米の輸出を大きな産業収入の一つとして捉え、増産目標を発表しています。では、実際の現場はどうなっているのかを見てみると、わたしが目にしている範囲では、牛2頭でクワを引かせて耕し、田椊えなどは手作業で、というのがほとんどです。小型の耕耘機でさえ珍しく、新しく購入した家が作業をしていると、通りがかりの多くの人が、みんな立ち止まって見ていきます。
  このような状況は、日本の1960年代~1970年代ごろの感じでしょうか。
  作業効率は、機械ですと5倊以上のスピードがあるようですし、動物と異なって疲れ知らずです。
  経済的な面では、おおよそですが、牛1頭がUS$1,000(8万円)に対し、この下の写真の機械でUS$2,800(22万円)とのことですから、作業に牛2頭(16万円)が必要だとしても、けっして安いものではなでしょう。牛でさえ飼うことのできない家庭も多いのですから。この耕耘機はタイ製でしたが、発動機(エンジン部分)は日本メーカーの現地生産製で、その他の部分はタイのメーカーが作って製品として組み上げられていました。
  日本では国の政策や支援もあって、機械化が急速に進みましたが、公的支援が乏しいといわれているこの国では、急速な発展は難しいのかもしれません。また、国による買い上げや価格統制して保護してきた日本でさえ、機械化、大規模化による農業が有効であったとはいえないのですし、カンボジアの近隣国も、より高品質、高価格で取引される米の生産に力をいれているのですから、前途は多難でしょう。
相沢-1 相沢-2

  《結婚式がありました》
  少し明るい話題として・・。
  教会で、信者同士の結婚式がありました。カトリック信者の少ないこの国で、信者同士の結婚は、やはりまだ少なく、珍しいことだったようです。参加自由、朊装自由でしたので、わたしも式に参加をさせていただきました。
  平日の午前中だったこともあり、親族他の参加者は少なくはありましたが、アットホームで暖かな感じの伝わる結婚式でした。新郎新婦にお会いするのはこの日が初めてで、新婦や友人女性達が盛装してメイクをしていると、素顔が分からず、新婦も、式からしばらくたった最近になって、挨拶をされて、「あっ、この人だったのか・・《と、気がつきました。新婦は、お世辞抜きで、素顔も素敵な女性でしたよ。司式は、プノンペン教区のオリビエ司教ほか2吊の司祭によって行われました。オリビエ司教は現在40歳で、世界で最も若い司教です。
相沢-3 相沢-4
 
2011年6月1日

 

カンボジアからのお便り(コンポンルアンにて)

信徒宣教会(JLMM) 高橋 真也
  水上村のあるトンレサップ湖は、雨季を迎えて膨張を始めており、毎日水位が上がっているのが目に見えて分ります。いよいよこれから3、4日に1回は家(村)が移動する引っ越しラッシュの時期です!
  さて今回は、毎年恒例となっているJLMMカンボジアの黙想会についてお伝えしたいと思います。
 ☆最後のチャレンジ
  私達は年に1回、みんなで黙想会(リトリート)を行っています。日々の活動、普段の生活から一歩退いて休息すること。沈黙の雰囲気の中で自分を見つめ直し、神様との関係を深めること。このようなことを目的に、JLMMカンボジアメンバー8人が集まりました。
  今回この黙想会をリードして下さったのは、日本から駆けつけて下さった保久要神父様と、たまたまベトナムに里帰りされていたファム・ディン・ソン神父様(どちらも横浜教区司祭)です。このお二人が、異国の地で宣教し、与えられたミッション(使命)を果たしていくにはどうすれば良いのか?などについての講話をして下さり、私達一人ひとりがJLMMのテーマである『共に生きる』を考えるうえでの、良いヒントを与えて下さいました。
  保久神父様は去年、青年達を連れてカンボジアにスタディツアーで来られましたが、ソン神父様は初対面でした。お二人とも気さくな方で、保久神父様はイタリアで5年間勉強していた時の体験を、またソン神父様は17歳の時に、ベトナムからボートピープルとして命からがら逃れて日本にたどり着いたというご自身の貴重な体験を、それぞれ語って頂きました。ソン神父様は、『涙の理由(わけ)』(女子パウロ会)という本を書き、当時のことを語っておられます。是非ぜひご覧になって下さい。
高橋3 高橋4
   去年と同じシェムリアップの黙想の家。とても静かな所です  左が保久さん、右がソンさん。ソンさんは日本にもう30年

      私は参加する前に漠然と、今回の黙想会は、今まで5年間の水上村での活動について振り返ったりするのだろうなあと思っていました。でも実際に思いを巡らせたのは、ここ最近の出来事や、これからのことなどでした。今の自分の生き方を反省し、それを残されたわずかな任期での活動に、どう繋げていくかなどということを考えていました。   今回の講話の中で心に留まったのが、聖書の中にあるイエスの例え話、いわゆる『放蕩(ほうとう)息子』の箇所です(ルカによる福音書15章11~32節)。どういう話かと言うと、ある息子が、父親からもらった財産を放蕩の挙句に使い果たし、心を改めて父の元に戻ると、父は息子を責めるどころか、祝宴を開いて息子を迎えたという、そんなお話です。この例え話は、子どもである人間を条件なしでゆるして下さるという、神様(放蕩息子の父親に例えられている)の愛の大きさを伝えています。
  黙想会最終日、気がつくと私は、全員そろっての分かち合い(それぞれが自分の思いを発表する時間)の場で、大泣きしていました。初めはとりとめもなく、この5日間の黙想会で自分が感じたことなどを話していたのですが、最後、自分の意思ではないというか、自分でも何でそんなことをしゃべる気になったのか分からなかったですが、あることを話し、話しながら泣いたのです。
  その『あること』とは、ずっと前から自分の中にひっかかったままでいた出来事、モヤモヤした気持ちでした。今考えてみると、無視することの出来なかったそのモヤモヤと、自分は必死に格闘し、そこで生じた様々な思いが、あの時溢れ出てきたのだと分ります。あの分かち合いの場で、信頼出来る仲間たちに思いを打ち明けることで、自分の気持ちに整理をつけたかったのです。
高橋5 高橋6
   分かち合いの様子。みんないろいろな気づきを得たようです  カンボジアの派遣者8人と神父様を囲んでの集合写真

    そのあることと言うのは、「仲直りしたい人間がいる《ということでした。
  自分には、どうしてもゆるせない人間がいます。一人は、1年以上前に解雇した、元スタッフのラー君。活動のパートナーであった彼は、3年間ずっと同じ家で生活し、寝食を共にしていました。でもある時、そんな彼が私をだまし、上正を続けていたことが発覚。解雇を言い渡したその日に、家を出て行ってもらいました。当時は、殺してやりたいほどに彼を憎んでいました。
  もう一組は、ごく最近までずっと一緒だった、前の家の大家さん夫婦。お子さん達を含め、同じ敷地に住んでいる大家さんの家族とは、本当に親しく接してきました。そんな大家さん夫婦も、やっぱり私にウソをついて、上正をしていました。毎日顔を合わせるのが苦痛になりましたが、大家さんを追い出すことは出来ないので、私が家を出ることになり、先月家を引っ越しました。
  上正と言っても、ラー君と大家さんではその内容が全然違います。ですが、どちらも私の信頼を失わせるのに充分な仕打ちでした。心が相当に痛めつけられ、その痛みを早く忘れようと努力しました。でも…忘れられるわけがないのです。だって、彼らと一緒に過ごした時間はとても長く、濃厚なものだっただからです。カンボジアでの体験を振り返る時には、必ず彼らがその思い出の中に一緒にいます。それだけ深く付き合ってきました。
  何でこんなにゆるせないのか?それは、自分が深く傷つけられたと感じたからで、言い換えれば、深く傷ついてしまうほどに愛していたからなのです。彼らがいなかったら、きっと私はこんなに長くカンボジアにいられなかったと思います。彼らの協力があったからこそ、カンボジアを好きになれたのです。これは、どんなに彼らのことを憎んでも変わることのない事実です。憎んでなお、そんなことを、確信を持って言えるくらいに、私は彼らを信頼し、愛していたのです。
  今でも、ラー君の夢をたびたび見ます。最近見た夢の中で、なんと私は彼と仲良くしゃべっているではありませんか!朝目覚めたベッドの中で、「おれは本当に彼をゆるし、仲直りしたいと思っているのだろうか…?《と、考えてみたりもしましたが、分りません。
  「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
  だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。《
   (ヨハネによる福音書 20章23節)
  夢にまで出てくるのですから、やはりずっと彼らのことが気にかかっているのです。カンボジアでの任期はあと1ヶ月ちょっと。自分の気持ちに知らないふりをして、彼らのこと考えないようにするという選択もあったのかも知れません。今までもそうしてきたのだから。わざわざ苦い思い出を持ち出して、苦しい思いをしなくても…と、自分でも思います。でも、やはりそれは自分には出来ないのだということに、黙想会で気づかされたのです。私は、あの放蕩息子の例え話に出てくる父親のように、『無条件で人をゆるすこと』がしたいのです。
  それはただ、自分がスッキリしたいための自己満足であるだけかも知れません。そもそも相手は私にゆるしてもらいたいなんて思っていないでしょうし、自分は悪くないと思っている可能性だってあります。こだわっているのは自分だけで、周りから見れば滑稽なことかも知れません。バカを見るはめになるかもという恐れもあります。でも良いんです。それでも、他人をゆるせる自分でいたいと、そう思えたのです。
高橋7 高橋8
   新しい家は市場が近くて便利!ですが…何と隣が屠殺場  毎朝3時に聞こえてくる、豚の断末魔で起こされてしまいます…

    私は、自分を裏切ったカンボジア人達と「仲直りしたい《と言って、分かちあいで大泣きしてしまいました。みんなはキョトンとしたかも知れませんが(涙で周りは見えませんでした)、私の中でその『表明』は、とてもとても大切で深刻な、生き方に関わる本質的なチャレンジだったのです。仲直りするということが、実際に彼らに会って話をするとか、電話するとか、そういった何か具体的な行動を伴うものなのか、それとも心の中で自分が「彼らをゆるします《と思うだけなのか、それは分りません。でもとにかく、私は今、彼らを完全に、すっかり許したいと、心から思っています。仲直りすると、決心したのです。
  ちょっと前までは、彼らを思い浮かべただけでも吐き気がするほど嫌いでした。絶対にゆるしたくないと思っていました。だから今、仲直りがしたいと思えていることは、奇跡なようなことで、きっとこれは神様からの恵みなのだと思います。ただやはり、やり遂げることはとても難しいでしょう。
  私がカンボジアという国を、そこに住む人々を、そして彼らと共に生きた5年半という時間を、愛することが出来るかどうかの瀬戸際に、今自分は立たされています。もうこの際、思い出はきれいでなくても構いません。汚くても良いから、ずっと愛着を持って手放せなくなるような、そんなものにしたいのです。そのために必要なことは、切れた縁の回復。彼らとの縁は、切られたのではなく、自分から切ったのです。
  決着をつける、と言ったら大袈裟でしょうか。終わりの近づいたカンボジアでのミッションを清算するために、神様からの力を願いたいと思います。
2011年6月17日