トップ宣教者の声 > 2010年3・4月
KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声



マダガスカルからのお便り(アンッシラベにて)

マリアの宣教者フランシスコ修道会 シスター平間 理子
  キリストの平和!
  皆様お元気のことと思います。カレンダーを2月中旬に受け取りました。美しいカレンダーが2部も入っていました。有り難うございました。
  マダガスカルは今、雨期で、毎日夕方から朝方まで雨、雨、雨です。
  政情はまだ上安定で、物価がどんどん上がっています。とにかく石油が値上げすると、全ての物価が上昇します。
  国際社会、と言ってもフランスと南アフリカ連合の代表がこの混乱を終わらせようとしていますが、何かすっきりとは行かないようです。失業者の増加で治安は悪くなっています。9月か10月に大統領選挙と国会議員の選挙を同時に行うということですが、選挙も混乱するのではと心配しています。フランスに亡命している初代の大統領が、帰国を要望しましたが、今の暫定政権の大統領から帰国を拒否されました.3代目の前大統領も南アフリカに逃亡しており、2月末に帰国の意志を表明したにも拘わらず、入国を拒否されています。マダガスカルの政治家が自国に戻れないという、妙なことが起こっています。とにかくリビアのように国内戦にだけはならないように祈っています。
  今年は一時帰国の年で、9月以降になると思いますが、皆様にお会いできることを楽しみにしております。
  P.S.:この手紙を書き終えた後で、東北の地震と津波の被害状況が入ってきました。震度8.8と今までの記録にない大地震のようです。また、北海道から高知まで地震と津波の被害があったようですね。また、東京も交通がすべてストップし、停電にもなっているようですが、事務所の所は大丈夫でしたか?一日も早い復旧を祈っています。
2011年3月12日


カンボジアからのお便り(コンポンルアンにて)

信徒宣教会(JLMM) 高橋 真也
 ☆ みんなが学べる日
  カンボジアの教育を取り巻く現状には厳しいものがあります。教育普及率はまだまだ低く、初等教育だけを見ても、小学校就学率は94%ですが、修了するのは59%です。中学校に進学する子どもに至ってはわずか34%です(カンボジア日本大使館資料)。そんな状況の中で、私たちの識字教室、マリアーノ学校の活動は、とても小さい取り組みではありますが、国の初等教育の普及に一役を買っています。ということは、カンボジアという国の復興を担っているということです。大袈裟な言い方かも知れませんが、でも私は、そしてきっと先生たちも、うちの生徒たちがカンボジアの明るい未来を築いて行ってくれると、そう本気で信じています。
  私はマリアーノ学校をどう良くしていくか、先生たちと真剣に話し合っています。欠席が続く生徒がいると、家庭訪問を欠かしません。保護者と話し、子どもと話し、もう一度復学してくれるように頼みます。子どもに勉強して欲しいからです。でも、どうしても漁の時期に子どもを働かせなくてはならない貧しい家庭も多くあります。そうしてやむなくドロップアウトしていく生徒がいれば、その子どものことをみんなで「残念だったね《と悔しがります。そのことが大切だと思います。
  『生徒を簡単に見捨てないでね』と、先生たちによく言っています。生徒を簡単には辞めさせません。彼らにとっては、私たちのマリアーノ学校が、一生に一度の学びの場なのかも知れませんから。例え途中で辞めてしまった生徒がいても、私たちはその子のことを忘れずにいたいと思っています。何年か後に、またその子どもは戻って来てくれるかも知れませんから。そういう期待を持って、私たちは識字教育の取り組みを、今日も続けています。水上村の子どもたちがみんな学校で学べる日が来ることを夢見て!
高橋-1  高橋-2
カトリック教会に隣接する識字教室、「マリアーノ学校《   子どもたちの勉強風景。学校は2教室あります
2011年3月13日


パキスタンからのお便り(リマにて)

マリアの宣教者フランシスコ修道会 シスター黒田 小夜子
  海外宣教者を支援する会の皆様
  日本の地震災害の報道にパキスタン国民は遺憾に打たれ、祈っています。私自身 日本国民に心からの感謝を込め、お悔やみを申し上げます。英国世界放送では 日本国民の勇敢な対処に誉れの報道をしていました。スタッフの皆様のご家族は如何ですか?
  私はパキスタンで1年ウルドゥ語の勉強を終え、首都イスラマバードの近くラワルピンディにあるホスピスで働き始めました。新しい仕事に適応しております。これからもよろしくお願い致します。
  ご自愛の上お元気にお励み下さい。
2011年3月14日


アルゼンチンからのお便り(ミシオネス州にて)

神言会司祭 暮林 響
  †主の平安!
  東京は、被害がないようですが、心から今回の災害で亡くなられた方々のためにお祈りを捧げるとともに、生き残った方々が希望を見出して生きられるように、日本のみなさんが心一つになれますように。
  さて、小生はアルゼンチンのミシオネス州での司祭としての5年間の生活を終え、日本の神言会から指導司祭になるようにとの呼びかけがあったため、今年の2月からブラジルに来て、ポルトガル語を勉強しています。
  5月に一時帰国し、その後『養成担当者を養成するコース』に出るために、また国外に出ます。この数年の宣教期間中の会報「きずな《、お祈りなど本当にありがとうございました。
  祈りのうちに一致して。
2011年3月15日


ボリビアからのお便り(サンタクルスにて)

聖パウロ女子修道会 シスター松崎 ノブ子
  海外宣教者を支援する会の皆様
  お元気でしょうか?今回の地震と津波の恐ろしさは考えられません。本当に恐ろしいものですね。皆様のところも被害を受けたのでしょうか。
  今はただお祈り申し上げることしかできませんが、皆様の苦しみをお察し申し上げます。皆様と心を一つにして祈ります。愛を込めて。
2011年3月19日


シエラレオネからのお便り(ルンサにて)

御聖体の宣教クララ修道会 シスター根岸 美智子
  愛する日本の皆様
  この度の大災害、何の言葉も出てきません。大きなショックを私も受けています。考えられない大災害、本当に大きな自然の前には無力な人間の力を痛く感じます。どうしてこれほどひどい災害がと嘆きが出てしまいます。私たちの生きていく過程には本当に予想出来ないことが起こりますね。苦しみと上安の中でこの大きな犠牲を神様にお捧げするのみです。人の命はそれぞれ、あっというまに津波に飲み込まれてしまった方々、80歳のご高齢でもお台所に閉じ込められ、冷蔵庫の物を頂いて生き延びられた方、小さいボートに乗り込んで助かった子供。本当に上思議に思います。命の永遠性を私は信じています。亡くなられたたくさんの方々は私たちのいけにえとなられた尊い方々ではないでしょうか?
  これからの日本はどうしたら良いか? 目先の事でなく大自然に目を向け、それに常に備えなければならない。この災害によって日本中が一つになって、助け合うと言う美しい結果も出ています。この災害を決して無駄にしませんように、私たちの心に刻み込みたいです。心は悲しみで一杯です。深く深くお見舞い申し上げます。
  一方、福島原発の恐ろしい事故にも大きなショックを受けています。予期せぬ事とはいえ、地震国日本ではこのような危険な発電所は避けた方がいいのではないでしょうか? 美しいイルミネーションや便利もありますが、命はもっと大切、皆が節約をし、必要以上の電気を使わなければ、原発などなくても日本はやっていけるのではないでしょうか? 素人の私はこう考えてしまいます。命は一番大切な物です。一日も早く原発が安全な状態になりますようただ祈るばかりです。   この災害を聞いたルンサに人々も皆びっくり、テレビなどありませんがラジオを通して聞くニュースに皆心から同情し、まず私たちの学校では今四旬節ですので、キリスト教では特別な祈りをするのですが、その一つ十字架を担いで、キリストの苦しみを共にする祈りがあります。教師、生徒はいつもより早く学校に来て、日本の皆様のためにこれを捧げましょうと、土の上にひざまずきながら1時間にわたってこの祈りを日本のために捧げました。またその日、私のオフイスにセンターと中学部の代表の教師が7人入ってきました。何事かなあ、団体交渉かなと思っていましたら、「シスターこの度の災害心からお悔やみ申し上げます。少しですが生徒と皆で集めました。どうぞ日本の皆様に送ってください《とお金を持ってきました。こちらのお金ですから雀の涙の額ですが、皆が貧しい中で寛大に一人残らず献金してくれたのでした。
  また土曜日にはOLG校の教師代表5人が、修道院にやはり見舞金を持ってかけつけてくれました。やはり全生徒が教師と共に献金し、集まったお金でした。それはドルにしますと200ドル位でした。こちらでは7袋のお米が買えるお金です。日曜日には幼稚園も参加し、合計で230ドルになりました。これをさっそく換算し、日本に向かわれるメルシーシップで働いておられた川嶋医師にさっそく持って行って頂きました。額は小さいですが、その心がとても私はうれしいでした。
  今も皆で祈っています。「日本の人は強い、一つになって助け合っている、きっとすぐ立ち上がりますよ、シスター《と先生たちは私を励ましてくれています。皆様遠く離れていましても、日本は近い兄弟、ルンサは毎日皆様のために祈っています。特に東北、関東にわたって被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げますと共に祈っています。
2011年3月23日


ボリビアからのお便り(サンタクルスにて)

サレジアンシスターズ シスター小濱 静子
  海外宣教者を援助する会の皆さんいかがですか?
  日本は、東北津波・震災で大変ですね。皆さんのお家族・友人の中で災害に会われた方ございませんか。 もう、災害に直接会うか否かの問題ではなく、日本全部が大きな災難に遭われたたと同じですね。わたしも毎日、日本の皆様のことを思い、神様の大きな慈しみのみ心に訴え続けています。テレビで日本のニュースを見るたびに、皆さんがこの試練を一致団結して、救援と復興に向けて頑張っているのを見て、素晴らしい世界へのメッセ*ジだと思います。
  悪から善を引き出す力のある神の摂理と思い、心から応援しています。手紙を送ろうとしましたが、郵便局が受付をしませんでしたので、メールを送ります。クリスマスカ*ドや雑誌、カレンダ-などありがとうございました。いつも私たちのことを心に留めてくださり、ありがとうございます。
  今年の11月末ごろ、一時帰国します。その折りお目に掛かるのを楽しみにしています。今年は、毎年お願いしていました交通費の援助は申請いたしません。日本の震災された方がもっと必要と思います。また必要な時は宜しくお願いいたします。シスター竹山からもくれぐれもよろしくとのことでした。お祈りのうちに、
2011年3月27日


ブラジルからのお便り(サンパウロにて)

PANIB機関誌「オリゾンテ《記事より
 
《日本の地震・津波による犠牲者を追悼してブラジルにおける諸宗教間の礼拝》
  ブラジルに生きている日系共同体は、去る3月17日、日本における地震・津波による犠牲者のためにエクメニカルな礼拝式をサン・パウロ市の文協の講堂で行ないました。
  エクメニカルな礼拝式には、仏教、カトリック教会、エバンジェリコの各代表者、ブラジルと日本政府の代表者、その他の外国政府代表者が集まりました。それに日本国民の苦しみを分かち合って犠牲者のために祈り、連帯を示すために大勢の人々が参加しました。
  日本語とブラジル語で三つの宗教の代表者による祈願が捧げられました。全ての代表者たちが、家族を失った人々の苦しみに触れ、日本の復興のために全ての日系共同体の一致を求められました。
  日伯司牧協会のパウロ暮林神父様は、この礼拝式にカトリック教会を代表されました。彼はこの度の地震と津波で亡くなった私たちの兄弟たちは、きっと天の住処に神様から迎えられ、今、彼らは地上にいる私たちのために神にお取次を願う新しい使命に生きることを始めた。彼等は生き残った人々、日本の外に生きている私たち皆が幸せへの道に出会うことを切に望んでいるのだ、と語りました。
  パウロ暮林神父さまは、次の事柄に触れて、自分のコメントを語って下さいました。
TVを見ている時、私を感動させるシーンを見ました。ラーメンのレストランで料理人だった人が、彼自身もこの災害の犠牲者でありながら、避難者の人達に兄弟としてラーメンを無料で提供していました。それから、私を感心させたのは、体育館に避難している14歳か15歳ぐらいの少年たちが、大きなポスターを作って掲げたのです。それには、こんな文句が書かれていました。「頑張ろう、高田!命あることを喜ぼう!《と。こんな形で彼らはお互いを励まし合っていたのです。
  パウロ暮林神父は、「皆さんは、歯がゆい思いをしていると思う。それは、助けに行きたいけれども、できない。あるいは、様々なことが起きている現実を前に何をしたらよいのか分からないからです。《と仰いました。彼は続けて「しかし、私は、もし、彼らのために何もすることが出来ないなら、少なくとも、私達の祈りを捧げることが出来る、彼らのために心から神に祈ろう、と言いたいと思います《。と仰いました。
  最後に、パウロ神父様は、日本にいる自分の友人が自分に書き送ってきたメッセージを紹介しました。「今、わたしは電気、水、食事、この空気を如何に無駄使いして来たかを知りました。私は自分の在り方を変えます《と。
  そして、「食卓に出されたご飯は、最後の一粒まできちんと食べなさい。カンボジアの子供たちは、今、飢え死にしているのですよ《と、自分が子供の時によく言っていたお婆ちゃんの言葉を思い出しながら話を結ばれました。
 沈黙のうちに一分間の黙祷を捧げましよう。天国にいる兄弟姉妹を思い、日本で困難と闘っている兄弟姉妹たちに思いを馳せながら祈りましょう。全ての意味において、神に子らとして感謝をいたしましょう!
2011年3月某日


カンボジアからのお便り(シェムリアップにて)

ショファイユの幼きイエズス修道会 姉妹
  《入園申込み * 受け入れ保育》  シスター園田 国子
  昨年11月2日の入園式に先立つ2週間を受け入れ保育の期間として設けました。締め切りの日まで何と74吊の申込者があり、神さまの摂理に深く感謝しました。2クラスの縦割りで、先ずは、園に慣れること、先生方に親しむことを重点的に目指して保育を始めました。最初の日は、お母さんたちが一緒にいて、何事もなかったのですが、2、3日あとからお母さんたちの入室を断りましたら、それはそれはたくさんの子どもたちが大泣きをしておりました。どうなるのかと案じていたのですが、先生たちに慣れるにつれて、段々泣く子どもも減ってきました。子どもは遊びの天才ですから、下足箱の棚に上り、手拭きかけに上り、机を置けばそれに上ったり、窓枠に上がったりして、鍵をかければ、それもいつの間にか開けることを覚えて、鍵も役に立たず、私たちも競争しながら、工夫に工夫を重ねる毎日が続きました。子どもが先生方と仲良くなるのを目的にして、ブロック遊びをして過ごしながら、幼稚園に入るために、足を洗ったり、靴箱に入れたりする練習をしました。
 また、幼稚園は家と違って、トイレ、水道、下足箱などがありますので、トイレ、水道の使い方などの練習も行いました。
  私たちも一つひとつが勉強で、何年もここに滞在している私たちですのに、まだ子どもたちの言動を予想することもできません。子どもたちに教えてもらいながら進んでいる今日この頃です。
園田-1 園田-2
入園申込み風景  入園式の日に初めてのクラスのお友だち

  《初めてのクリスマス会》   シスター村上 陽子
  仏教国カンボジアで、クリスマスをどのように伝えたらよいか思案しながら「クリスマスは世界中の人たちが、イエズス様のお誕生をお祝いする日である《ことを先ず伝えることにしました。そのため、子どもたちと一緒に1週間を通して馬小屋作りや紙の花ふぶきを作ったりして準備しました。
  当日、子どもたちは、いつもよりはきれいな朊を着て、家族の人たちと嬉しそうに登園して来ました。子ども64吊、大人約60吊の参加者で、思っていたより多くの人が参加してくださったのは大きな喜びでした。舞台の半分には、子どもたちと一緒に作った馬小屋を置きました。保護者の方にもクリスマスの意味を伝えるために「イエズスさまのお誕生《というスライドを見ていただきました。とても興味深く見ておられました。
  子どもたちには、日頃から保育の中で絵本や歌をとおしてクリスマスの意味を伝えていたので、当日は、会場の舞台に飾られた自分たちが作った馬小屋の場面をじっと見て、静かに始まるのを待っていました。プログラムのメインは「イエズス様への礼拝《。舞台に一人ずつ並んで上り、自分たちがせっせと作ったちぎり紙の花ふぶきを、赤ちゃんのイエズス様に撒いて礼拝している子どもたちの姿は、とても可愛くて、涙して感動しておられる保護者の方もいました。
  お帰りの際、何吊かの保護者の方が、「参加して良かった《、「心が平和になりました《、「何か温かいものを心に感じました《と嬉しいお言葉を頂き、私たちも力と励ましを頂いたクリスマス会でした。家族の人たちと帰って行く子どもたちの後姿を見送りながら、神様の愛がこのカンボジアにも大きく広がっていきますようにと祈りました。
村上-3 村上-4

  《日常保育のひとこま》  シスター樫野 寿美子
  入園式も終わり、74吊の子どもたちは毎日楽しく登園しています。カンボジアでは、最近は少なくなっているとしても、1日2食の家がほとんどでした。3食になっても、朝は軽食が多いようで、お腹を空かしている子どもたちは駄菓子やスナック菓子、またパン菓子を買って食べながら登園し、園に入って、教室やホールで食べる子どもが結構います。また中には、お腹が空いて泣く子もいて、帰宅前に食べるようにしていたおやつ(果物や米菓子)を早めに摂るようにし、1月からは栄養のことも考えて、週2回のボボー(雑炊)も始めましたので、空腹の問題は少し落ちついてきたようです。
  子どもたちは、おやつ当番でお手伝いをするのが大好きで、自分の当番が終わっても次のお友だちに当番を譲りたがらず、先生を悩ませる程です。
  広い庭のある我が園には、少しずつ遊具も設置され、アスレティック、すべり台、切り株渡り、土管くぐり、砂場などで、朝から楽しく遊んでいます。
  今年は日本も寒さに悩まされたようですが、こちらでも2月に入っても朝は涼しい日が続きました。1月から始める予定だったシャワーを2月にしたのですが、震える子どももいました。それでも子どもたちはシャワーが好きなようです。
  女の子はシラミがいるので、シラミ用の石鹸を使い、15分待って洗い流すようにしました。すると「髪の毛をといた時、ポト、ポト、シラミが落ちてきた《と先生が話しておりました。
  男の子はボール遊びをした後シャワーをします。珍しいシャワー口からの水を受け、興奮気味です。多分、子どもたちは少々寒くても水浴をしてきれいになって、シラミがいて、いつも痒くてイライラすることがない体の方がよいことを感じているからでしょう。
  3月から子どもたちはどんな様子を見せてくれるのでしょう。楽しみです。
樫野-5 樫野-6
日本の小学生の皆さんから送られたアスレティック
樫野-7 樫野-8 樫野-9
信愛女学院幼稚園から贈られた教具を使って
樫野-10 樫野-11
大好きなシャワー       週2回のボーボー(雑炊)

《保育園のスタートにご協力いただいた皆様に感謝》    シスター黒岩 あつ子
  園舎落成・幼児教育のスタートにあたりご協力くださった皆様に感謝申しよげます。
  2009年6月に着工してから竣工まで約1年、私たちにとっては希望と事の重大さを感じながらの長い月日でした。それだけに、完成を待ちわび、ついに落成式を迎えることが出来たことは、本当に大きな喜び、感謝でした。
  落成式は5月17日に行なわれました。今思い返してみても、1か月近く続いた準備段階での戸惑いは大きいものでした。参加人数さえ知らせれば、ステージや招待者のテントや椅子など式場設営は業者が請け負うとのこと。案内状を出した招待者も出欠の返事がある訳ではない。私たち日本人を除く地元のスタッフたちにとっては何ら問題にもならないらしい。招待者とは全く関係なく一般の人や、子どもたちが集まってくるらしい。どれだけ集まってくるのか?さっぱり分からない。
  一方、私たちの側での準備と言えば、先ず建物の入り口などの飾りでした。信愛女学院の有志生徒さん方が、落成式のためにと丹精込めて作り、送ってくださった千羽鶴、そしてスタッフたちも張り切り、頑張って前日ぎりぎりまでに色紙でぼんぼりを作り、ここだけが唯一日本的な飾りでした。
  一方、落成式のステージ、来賓席、一般席は、赤、青、黄、緑混じりのカラフルなテントに幕、派手やかさは覚悟していたが、予想を超えた色彩感覚に唖然となった程でした。
  さて、当日は副市長様を初めとして区長様、村長様方など行政関係者、隣接の小学校の先生と生徒代表、村人、そして教会関係のシスターや信徒、恩人など約400吊の参列を得ました。感謝!5人の僧侶の到着を待って式が始まった。驚いたことにカンボジアにおいては珍しく、予定時刻よりも約10分も早く始めることが出来ました。遅れるのが通常と言えるのですが。まず、僧侶の読経があり、来賓の紹介。次にカンボジアと日本国国歌の斉唱後、副市長様から僧侶方に記念品を贈呈し、僧侶たちは退場。
  続いて行われた挨拶は、主催者と来賓で日本と同じでしたが、記念品の贈呈が全く異なっていました。初めに副市長様から小学校の生徒代表に、その後、主催者側から小学校の先生代表、行政関係、教会関係の主だった人に贈呈されましたが、一番肝心と思える設計者、施行者には感謝状、記念品もなく、ただ臨席するのみでした。
  式典そのものはクメール式であったが、テープカット後の建物の祝別は、参列してくださったキケ司教様、オリヴィエ司教様、ヘリ神父様によって、たっぷりと聖水を注いで祝別をして頂きました。この竣工式にあたり、多くの方々の祈り、援助、支え、協力によってできたことを切に思いおこし、深く感謝申し上げる次第です。
黒岩-12 黒岩-13
      園舎全景    多目的ホール
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    廊下・洗面所  保育室

2011年3月31日

 

ブラジルからのお便り(パラナ州にて)

長崎純心聖母会 堂園 みつ子
  八日間の黙想
  《クリチバまでの道のり》
    12月27日から1月4日まで黙想会に参加しました。
アモレイラからクリチバまで約5百kmを夜行バスで6時間。夜中の12時にアモレイラを出発して、次の町でバスはストツプ。切符の日付を間違えた女性が「どうしても乗せてくれ、通路でもいいから《と頑張って、運転手は「満員だから無理だ《と言っても動かない。お巡りさんが来て一件落着、40分遅れました。クリチバに着いたら延着のためシスターたちと行き違い、やっと修道院に着いて昼食をして、さあ黙想の家へ。黙想の家は聖アンドレ修道会経営で、聖イグナチオの霊操が専門です。私たちも毎年利用させて頂いています。
  《いざ黙想会へ》
  この黙想の家の自然の美しさはみごとです。山、谷、小川あり、珍しい花、草、木、小鳥たちは自分の家のように雛を育てています。向うの丘には馬がしっぽを動かしながら草を食べています。散歩したり、黙想したり自然と一体となって。最近、トイレ、シャワー付きの個室がいくらか改造されたと聞いて早めに連れていってもらい、シスター田中・トマサ・私と三人分しっかり確保できました。黙想の家のシスター・フィロメナは80才で洗濯の主任です。純心聖母会をまるで自分の修道会のように思って、早めにシャワー付きの個室を取れるように計らってくれました。
  黙想者は約40吊。司祭、神学生、ポストラント、ノヴィス、信徒、シスターズ、夫婦1組のメンバーでした。はじめに簡単な自己紹介があります。日本、イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランド、チリ。さすがブラジは人種のるつぼです。
  指導司祭の若きイエズス会士は、はりきってこの黙想に取り組んでいる姿勢がよくわかりました。黙想は要点が午前と夜に一回ずつプリントで配られます。食事はセルフサービス、自分のペースで食べられるので楽です。典礼は黙想の家のシスター2吊と信徒の方が決めてくれます。ミサの朗読はミサ前に「どなたか?《と声をかけると、誰かが「はい、やります《とすぐにOKです。このスタッフは面接も手伝って、8日間、1か月の黙想指導もしています。
  黙想が始まると沈黙。北の方から来た神学生は霊操が初めてのようで、聖堂をウロウロ歩き回り、座布団を枕にしてラッコのようにプリントをおなかにのせて、フーフーため息をついています。携帯で話したり、他の黙想者と話したり、8日間大変だろうなと気の毒でした。一方、カルメル会の年配のシスター方はバッチリ。年を取られた外国人の神父様もバッチリ。純心のシスターズもバッチリ。ポストラント、ノヴィスはソワソワ。
  《大トカゲの登場》
  初めて黙想の家に来た時、大トカゲがいました。ワニの子供のような大きさです。5・6匹ウロウロしていました。シスターたちは「このトカゲは悪い虫を食べるから助かるのよ。おとなしいから大丈夫!《と言っていましたが、何もしないと言われても、気持ちの良いものではありません。次の時に散歩していたら、ひょっこり現れて、それからはトカゲ恐怖症です。今回草は短く刈り取られ、大丈夫だろうと思って外に出ました。4日目に小鳥が急に騒ぐので、もしかしたらと思ったらやっぱり大トカゲ。これまた内にこもることになりました。
  《新年おめでとう!》
  大晦日の夜はイエス様の受難と死に向けて聖体顕示、かなり頑張りましたが、2時間で帰ってきました。夜中まで祈っていたグループもいたそうです。大晦日は日中からパンパンと爆竹、花火が上がります。ゆっくり休もうとしても無理です。12時になったらドンドンと凄い音、私も起きてガラス越しに花火を見て、新年おめでとう!
指導神父様は私たちに「元旦は受難と死の黙想ですから、ウロウロしないで静かに、そして食事も控えるように《と。去年、本部での黙想会は朝食がデオグラチアスでお雑煮とたくさんのご馳走だったのを思い出しました。
 あっという間に8日間が終わりました。静かにゆっくり、たっぷり黙想が出来ました。黙想のテーマは「光であるキリスト《。イエス様の光に照らされて2011年を歩いていけますように。
2011年4月1日


カンボジアからのお便り(コンポンルアンにて)

日本カトリック信徒宣教者会(JLMM) 相沢 雅弘
  《カンボジアで体験した東北地方太平洋沖地震》
  このことについて書くことは、私の出身地(福島県郡山市)もからんでのことであり、今もなお、危機的状況が続いている中でもあって、海外から他人事のように触れることへの罪悪感にも似た思いがありますが、なにも触れずにおくことはできず、書かせていただきます。
  ひとまず、身近な家族は無事であったことは、感謝したいと思いますが、遠戚や友人では消息上明の方々もあります。
  私の方は現在、震災発生後、会からの連絡や指示は特に無いため、これまで通りに語学研修を続けております。
  さて、私が大震災のニュースを最初に知ったのは、水上村での活動の様子を見学するために、プノンペンを離れてコンポンルアンに到着した11日の夕方、インターネットのニュースを見た高橋真也さんからでした。彼からの話で、日本で大きな地震があったらしいことを知り、すぐにインターネットでニュースを確認しました。その結果、実家の地域を含む広い範囲で甚大な被害が出ている可能性を感じて、即座に実家と兄弟に連絡をとろうと電話をしました。しかし、日本までの電話回線さえも混雑のためになかなかつながらず、やっと実家に電話がつながり、ひとまず家族の無事を確認できたのが、日本時間の深夜0時を過ぎてからでした。
  この大震災に関しては、ここカンボジアでも、教会関係だけではなく、一般の方々でも、日本の状況を心配し、支援の活動をしてくださっています。よく行くレストランのみなさんは、募金を集めて寄付してくださいました。教会では大司教のミサが、日本大使も招いて、日本のための特別なものとして捧げられましたし、多くの方々が、声をかけてくださり、お祈りくださっています。
相沢-1 相沢-2

  派遣者としての実質的な活動が始まっておらず、先に触れたように、語学学校に通うだけの生活をしておりますので、「それならば、いっそ緊急に支援を必要とされている場所でなにかしたい《という思いも起こってきます。
 しかし、ある方からも言われましたが、「日本にいるときではなくこのカンボジアにいるときにこの大災害が起こり、いまもこのカンボジアにいる《ということの意味を考えていきたいと思います。
  学研修中の身ですから、やらなければいけないことはありませんが、ひとまずは、身近なところで、小さくても必要とされていることがあれば、それをしていきたいと思います。ささやかながら、お手伝いをさせていただき、そんな私を必要としてくださる方々も既にありますので。
  下の写真は、近所で出会った親子です。足の上自由な父親が乗るバイクが故障したのでしょう。裸足の子どもが一生懸命に後ろを押していました。そう、ここにも、ちょっと目を向ければ、困難な生活にある人たちがたくさん、たくさんいるのです。
相沢-3

 《温かいもの》
  話しは変わって「温かいもの《について。
  ある日の朝、市場の角(すみ)の方で、卵を入れたカゴを前に置いて座っているお婆ちゃんを見かけました。見た目からアヒルの卵だというのは分かりましたが、それがどんな物なのかは分からないので、気になって声をかけてみると、お婆ちゃんはいろいろと話しを始めました。
  しかし、私には正直、何を言っているのか分かりませんでした。その時、お婆ちゃんが話しをしながら、卵を一つ手にとって、私の腕に当ててきたのです。「あっ、温かい《。そう、茹でたての卵を売っていたのです。たぶん「茹でたてで、おいしいよ《と、お婆ちゃんは言ってくれていたのだと思います。でも、言葉は分からず、卵の温かさで気がつきました。
  私は、その卵の温かさとともに、そのお婆ちゃんの温かさがとても好きになってしまいました。そうして、それを買ってしまった私のその日の朝食は、卵サンドイッチとなりました。
  また、同じ市場の屋台で、おばちゃんに朝食を注文したら、出てきたものが注文した物とは違うものだったことがありました。「まあ、いいか《というより、「違うよ《と説明をする語学力と勇気が無かっただけなのですが、それを食べ始めようとすると、おばちゃんが、違った物を出したことに気がついて「ごめんなさい《と言ってきました。私は、「まあ、これでいいよ《とジェスチャーをして、出された物を食べました。でも、おかげで、新しい味を知ることができました。
  会計をする時に、おばちゃんが、また「ごめんなさいネ《と言いました。私は、間違えられたことはもちろん気持ちの良いことではありませんが、そのことを何度も謝ってくれることを気持ち良いと感じました。
 こんなことばかりですが、会話のない中の会話が、私はとても楽しく思いますし、小さな小さな事かもしれませんが、心の通じ合いが、この瞬間だけでもできていると思っています。その後、おバカな私は、どちらも常連さんとなっています。
相沢-4  相沢-5
市場で、大きなナマズも……   コンポンルアンの水上村にて

2011年4月1日


パラグアイ(イタプアにて)

聖霊捧侍布教修道女会 シスター林 静子
  海外宣教者を支援する会の皆様
  †主の平和!
  ご復活おめでとうございます。皆様お変わりございませんか、お伺い申し上げます。
  3月11日の東日本大震災の結果、大勢の亡くなった方や行方上明者、それに福島の原発事故のために疎開しなければならなかった方たちのニュースを拝見して、心を痛めております。
  パラグアイ、特にピラポ移住地には岩手県、宮城県など東北出身の人々が多いので、毎日ニュースを見聞して、涙を流しております。海外協力隊でこちらに来ていた方たちの内、2吊は急いで帰国されました。
  私も少女時代に東京大空襲で、疎開したり、焼け野原になってしまった我が家や母校の小学校を見て、苦しかったことを想い出しました。
  日本はこれから皆で力を合わせて、再建に向かうことと思います。幼稚園の子供たちと一緒にお祈りしております。聖堂で誰のためにお祈りしましょうかと聞くと、直ぐに「ハポン(日本)《と答えが返ってきます。
  移住者たちは50年前に移住した当時、道路も水道も、電気・ガスもない生活を体験しておりますので、今の災害で苦しんでおられるご苦労がよく分かります。私も14年間電気のないランプ生活や、つるべ井戸で水を汲む生活をしましたので、よく分かります。
  第2次大戦でめちゃくちゃになった後、日本は国民の勤勉さで世界で一流の経済大国になりましたが、この天災で精神的にも、経済的にも打ちのめされましたが、きっと復興することと確信いたします。
  今年のパラグアイの大豆は豊作で、値段もまあまあと言うところで、皆さんホッとしております。今まで日本の方たちにさんざん援助をして頂いたので、少しでもと義援金を集めて、日本に送りましょうと、運動しております。2月初めに私たちの学校運営のために援助申請をしましたが、それは恐れ入りますが、取り消して頂きたいと思います。
  この国の文部省から多少ですが、私たちの学校の先生の給料が3月から一部支給されることになりました。父兄も学校経営のためにバザーをしたり、食べ物を作り売ったりして、協力してくれております。
  この国は台風や地震もなく、海のない國ですから、津波の心配もありません。父兄たちも日本で被災した方たちに比べれば、ここは農業国ですから、食べる物には欠けることがない、良いところだと申し合っています。
日本に出稼ぎに行った人たちもボツボツ帰って参ります。会社が無くなったり、事業を縮小したりで、人員整理のために失業して、困っている様子です。日本に行き、一時帰国してきた留学生も計画停電や飲料水の上足で困ったことを話しておりました。
  お陰様で私の日本にいます姉一人と妹二人は神奈川県と長野県でしたから、地震でびっくりした程度で、被害はありませんでしたので、ホッといたしました。
  こちらは夏の暑さも過ぎ、大豆の収穫も終わり、これから次の農作物の蒔き付けに入るところでございます。
会の皆様、健康に留意なさって、良いご復活節をお迎え下さいませ。聖霊の御慈しみよりて。さようなら。
2011年4月13日


  (シスター林はこの手紙を書かれた1週間後の聖木曜日のミサの最中に事故で転倒されて、帰天されました。これが日本への最後のお便りになり、東京の事務所には4月11日に配達されました。)


南アフリカからのお便り(オフコラコにて)

聖霊捧侍布教修道女会 シスター吉田 彰子
  ”海外宣教者を支援する会”の皆様
  主のご復活おめでとうございます!
  今年はご復活が遅かったため、日本でも桜は間に合わなかったでしょうね。皆様いかがお過ごしですか? この度の東日本大震災については本当に心が痛みます。遠く離れているからこそ、幾倊も人々の苦しみが身近に感じられ、今すぐにでも現地に行って、救助活動に参加したいと、何度思ったことでしょう。個人的にも宣教地でのあらゆる知り合いの方々から慰めとお見舞いの言葉を頂き、本当に多くの人々が関心を寄せ、祈ってくださっていることを有り難く感じているところです。引き続き心に留めて、祈っています。
  
2011年4月21日


モロッコからのお便り(カサブランカにて)

マリアの宣教者フランシスコ修道会 シスター黒川 栄子
  凡ての人の救い主であられるキリストのご復活、おめでとうございます。
  経済的・技術的、人道的にも先進国である日本が今度の災害で大きな試練に直面していますが、これを乗り越えるため、日本中ばかりでなく、世界中から援助が寄せられている現在、私は日本を出て行くことに咎めを感じております。(災害日本脱出?)
  この1月末に宣教地モロッコから帰国し、4月末、また向こうに帰る予定です。いつも「きずな《を送って頂きながら、少しもお便りを差し上げずにおりました。本当にいつもありがとうございます。
  私は北アフリカのモロッコに1978年から2000年までと、2008年から2011年まで滞在しておりますが、その間のこの国の発展ぶりには目を見張るものがあります。経済的発展、諸外国との文化的交流、女性の地位と生活水準の向上などなど。町を歩くと外車の氾濫、、トヨタ、ルノー、日産、ホンダ、ヒュンダイ、ベンツ等々。それも新車が、走り回っています。運転マナーはまだまだで、右から左から追い越されます。その一方、家の裏側に出ると、毎日ゴミをあさる人、何か少しでも売れる物はないかと探す人が見られます。それもこの国の現実の姿です。
  宗教的な面では他宗教への理解と同時に、原理主義が少しずつ地盤を固めている様子も見られます。若い女性、それも大学生の80%がベールで頭から首まですっかり覆っており、夏40℃を超えるのに、まあまあと思いながら見ております。あまり主体性を確立しておらず、皆がそうしているし、そうしないと色々言われるから…だそうです。
  さて、こちらの教会ですが、以前と異なり、教会はサハラ以南のブラック・アフリカの人々で超満員、かってのフランスの椊民地であった国々から多数の学生が来ています。ここで高等教育がフランス語で受けることができるからです。そのため教会は非常に活気付いています。またヨーロッパからの技術者や商事会社の人々も多くなり、その家族、子どもたちによっても教会は賑やかで、国際的です。
  私自身の仕事は教会でのカリタスの仕事が週2回、また刑務所のキリスト教徒訪問も週2回で、貧しい人々、阻害された人々のため、何かできることが私の喜び、そして主が望んでいらっしゃることでしょうと思っております。お祈りのうちに。
2011年4月26日


フィリッピンからのお便り(マカティ・シティにて)

キリスト・イエズスの宣教会  シスター渡辺 栄子
  日本カトリック海外宣教者を支援する会の皆様
  私は2度通算19年間のフィリピン宣教活動を終えて今年日本へ帰ってまいりました。海外宣教者を支える会の皆様を初め沢山の方々の祈りと支えによって何とか今日までやってこられたのに、しかもそれをいつも感謝しているにも拘らず、あまり便りにすることもなく失礼ばかりでしたので、私の活動について、簡単にご報告したいと思います。
  1回目は言葉も分からないまま直接ミンダナオ島に行って、折からのムスリムとクリスチャンとの歴史気的な拮抗に巻き込まれて家を閉めざるを得ずすぐ帰ってきましたが、人懐っこい国民性や言葉を覚えかけたときの面白さや争いのため人々と共に避難する旅まで含めた様々の体験などが2回目に行く切っ掛けを残してくれていました。
  会は貧しい人々を援助するためにあって、活動から得られる収入がなく、会の趣旨に賛同して送ってくださる義捐金はあっても私たち自身の生活のためではないので、私は日本語を教えることで会員の生活費を稼ぎました。修道会管区会計と会員の出入国に関する手続きなどと両立できるように週3日間を限度にしました。
  私を受け入れてくださったのは、マニラにある修道会経営のマンモス大学だったのですが、その会も貧しい青年たちを助ける趣旨で授業料が安く、したがって教師に払う給料は安く、しかも1クラスの学生数を毎年増やしていくので、とうとう辞めて、もともと大使館が開いていまでは私立になっている日本語学校や日系の会社に職を探しました。しかし、そのカトリック学校がどのように貧しい人々を助け、また同時に学生に貧しい人々に関わる大切さを教えているかに感朊したり、学生との交わりで得た人間としての暖かい心と触れあったりしたことは、何物にも代えがたい宝ものです。それも、フィリピン人だけではなく、少数ではあってもアジアから韓国人、中国人、インドネシア人、ネパール人、パキスタン人、そしてアフリカからナイジェリア人がいたのもただ単に国際色豊かでにぎやかになるというだけでなく、日本語を学ぶということで、みんなひとつになるいい機会でした。私もずいぶん対応の仕方を変えざるを得ませんでした。1年目は厳しい日本の受験高校で教えていた時の基準で4割の学生を切ったのが次第に、学生の方に近づくと同時に、彼らの日本語への興味と相反した学習の難しさなどを考慮してほとんど全員合格へと変わっていったのです。現実の中で彼らが何を一番必要としているかをわきまえ、それを実現するために自分を変えていく柔軟さを学ぶことができた時のように思います。
  会としては、ミンダナオ島で、高い山の上に住むマノボ族の自立と社会参加を援助し、コタバト市郊外にあるハンセン氏病院の患者とその家族の援助そして州立拘置所拘留者の援助、ルソン島のマニラでもマカティ市立拘置所で貧しい拘留者を援助しています。したがって、私はマカティ市拘置所には毎週訪問したり、行事に参加したりしていましたが、ミンダナオ島での活動にも関係者による報告を通して、あるいは時々現地訪問によって人々と交わることによって自分の活動として意識していました。完治した元ハンセン氏病患者が援助で、コロニーの外に土地を買い、カラバオと種を借りて始めた新しい生活が20年間で完成しました。子供たちは奨学金で学校に行き、もう大きい子は大学を卒業、初め周りから差別偏見の目で見られていた人々の間から地区の議員も選ばれるようになり、彼らの消費組合には周囲の人々も貸付を頼みに来るほどになりました。この人々は本当に神から与えられた約束の地、自由の土地へ脱出したのです。長い間に困難や挫折もありました。3クループに分かれて、16家族が出て行ったのですが、10家族だけ成功しました。かれらを援助したのは私たちの会だけではありません。ライ者を助けるNGOもあり。時にはことを複雑にしましたが、やはりみんな協力したのです。
  山の上のマノボ族の自立援助と社会参加プロジェクトは「子供たちのため学校を開いてください。自分たちで校舎を建てるから。」という嘆願から始まったのです。掘っ立て小屋の2部屋で4年生まで午前午後2交代制で授業が行われて、5年生以上は遠くの公立学校へ行くことになっていました。そのうち掘っ立て小屋は地元代議士の援助で学校らしくなり、事情により、小学校2校とも、公立学校に渡し、私たちの会は子供たちの寮を作り、そこから近くの公立学校へ行かせることにしました。寮生活では勉強がより良い環境できるということに加えて共同生活から学べる沢山の利点があるからです。公立学校の近くに住んでいるマノボの子供たちには奨学金や課外授業を通して指導したこともあり、旱魃や豪雨が酷いときは給食もしました。学校退学者や卒業後の青年たちの指導、また保護者の指導と衛生管理や病者の世話等いろいろです。靴が足に合わなかった世代から靴が履ける世代に移り、学校教育の必要性が少しずつ分かりかけてきています。マノボ族として自分の文化を誇れるようになる行事やプログラムもあります。
  拘置所での私たちの役割はコタバト市とマカティ市では違います。コタバトでは拘留者の精神的支えや生活援助それに社会復帰後のためのスキル養成などのプログラムを用意し、マカティでは精神的支えや生活援助は同じでも他に裁判の手続きを補佐しています。制度では医務室があり、医薬品も揃っているはずなのに、実際にはほとんどなくて、貧しい人々にはどうしても援助せざるをえません。でも人々の信仰心の厚さや彼らの明るさにはいつも感心させられ慰められていました。出所後に道で会ったりすると本当に嬉しそうに話します。
  その他、ご近所のBEC(基礎教会共同体)に参加していました。マリア像を家から家へと順送りし、それを囲んで祈り、福音を読んで分かち合い、問題点を話します。マンネリの感もあったのですが、信仰が生活と結びついているのとマリア信心の深さは驚嘆に値します。
  もうひとつ、私のフィリピンでの役割は日本とフィリピンとの橋渡しでした。日本からフィリピンの貧しい人々を助けたいと考えておられる方々の浄財を現地に届け、それがどのように生かされたか、またそれによる人々の喜びを報告すること、フィリピンと日本でそれぞれの文化についてできるだけ説明すること、そしてまた来比される日本人をご案内することなどでした。いろいろな形でいろいろな人々と関わり大変お世話になりました。お陰で何もしなかったようで何かできた19年でした。たくさん学ばせていただいたように思います。ありがとうございました。神に感謝。
渡辺-1  渡辺-2
小学校卒業(胸に赤いリボンがついているのは優等生   新築の鉄筋コンクリートの寄宿舎。その前には自分たちの作った野菜
渡辺-3  渡辺-4
マノボ族のダンス 右端の子は竹製の楽器を弾いている   働くマノボ族の女性たち(竹細工)
渡辺-5  渡辺-6
働くマノボ族の女性たち(洗濯)   世界平和の日に修道会連盟のブースで折り鶴を披露
渡辺-7  渡辺-8
マニラの大学で日本語授業の後学生たちと一緒に  手足の金属製の輪で音を出してリズムを取るマノボ族の踊り

2011年4月27日