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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声

ハイチからのお便り(ポルトープランスにて)

クリスト・ロア宣教修道女会 シスター 武島 愛子
 「支援する会」の姉妹の皆様、友人、知人の皆様
 皆様お元気ですか。S.阿部も私もとても元気です。私のいるエステルは、アリスティッド前大統領の退陣問題で警察署が12日日中反アリスティッド派により襲撃され銃声が響き渡り町中は騒然となりました。既に警察官たちは脱出しておりましたので死傷者はありませんでしたが、警察署は放火され、近くにあった自動車も被害を受けました。現在もエステルの両隣の2つの市をはじめ殆どの県が制圧され治安は混乱しています。今日ようやく電話が通じるようになりました。
 アメリカ、フランス、カナダの軍隊が派遣されています。国営テレビ局、大きなラジオ局も襲撃され、限られたラジオニュースで都内の状況、ハイチの状況を把握しています。本校も3週間前より電話で脅かしを何度も受け、学校を休校しています。
 アリスティッドの退陣により昨日からアリスティッド派も大きな製薬会社、ガソリンスタンド、店、市場を襲撃したと聞いています。又金持ちの子女を教育しているカトリックの学校も襲撃されたと聞いています。公立の学校も襲撃されています。本校は今のところ無事です。数県の刑務所も襲撃され受刑者が逃亡しています。数日前より電気、水もストップしています。都内にある本会の管区、支部も今のところ無事です。
 前大統領は一時的に中央アフリカが受け入れ、定住場所となる南アフリカの受入れの許可を待っていると聞いています。
 暫定的新政権が設立されましたが、民主化の名のもとに以前の軍事政権に戻って行くのではないかと心配しています。
 市民の生活は一層困難な状態です。エステルでも時々銃声が夜間、日中聞こえますが、少し安定しているのではと思います。しかし強盗による盗難車が後を絶ちません。私たちも修道院の自動車が襲われるのではないかと心配しています。ハイチをはじめ内戦で苦しんでいる人々の事を思うと本当に痛みを覚え祈りの中で平和を叫ばずにはおれません。同時に私の心の中にも。
 お祈り有難うございます。引き続きお祈りお願いします。
2004年03月02日
 (シスター武島からの便りの続き)
 皆様、お祈り励まし有難うございます。
 N・H・Kの国際放送でハイチだけではなく、日本でも悲しいニュースが多いので心が痛みます。オウムの裁判で麻原が死刑判決が出た後、再度控訴され再度裁判が継続とのこと、鶏のインフルエンザ、イラク、イスラエル、パレスチナ問題と人間の弱さ、傲慢さを知らされます。
 ハイチの教会は、四旬節に入り、毎金曜日に十字架の道行きが2時間近く行なわれています。教会に集まる信者たちは政情が悪化し、今まで以上に厳しい生活が強いられ、充分な食物も摂れず、毎晩今もなお銃声の中で夜を明かさなければならない緊張も重なり、後半になると殆どの信者たちは座り込んでしまい、その後に続くミサは私たちも含め疲労を感じます。でも信者たちの祈りの叫び、キリストの苦しみが重なりその中に主の深いあわれみを感じ、力づけられます。
 ハイチの現在の状況から先行きは全く不透明で何が起こっても不思議でない状態です。
 市内では貧困層のグループがアリスティッドの帰国を訴えるデモをしていますし、日曜日は現職の首相の辞任を求めるデモが予定されています。又旧軍隊のメンバーが10年間の失業中の支払請求のデモもしています。ラバラス派も武装勢力派も分裂が起こり、予定されている選挙も困難ガ予想されます。本当に悲しくなります。
 エステルは少し落ち着いてきていますが、毎晩銃声が修道院の傍で聞こえます。治安が全く悪いので、あちこちで強盗、仕返しの殺人事件が起こっています。ハイチの警察は全く当てになりません。軍隊が再び設置されるとか。
 アリスティッド大統領時代に追放された人たちが再び政権を握るのではないかと心配しています。
 国営テレビ局も襲撃され、ラジオによるニュースでハイチの情勢を把握しています。
 それらのニュースもどこまで真実なのかも疑問です。
 ポート・プランスに行きたいのですが、治安が悪くいつ行けるか解りません。
 本校も1ヶ月臨時休校を強いられ、来週から開始する予定ですが、治安が悪いので父兄たちが子供を学校に来させるかどうか心配しています。ポート・プランスを除いて各地域の学校が再会される予定です。お祈り下さいませ。
 今夜の10時ですが、近辺で何度も銃声が聞こえています。
2004年03月10日




ハイチからのお便り(インシュにて)

無原罪聖母宣教女会 シスター本郷 幸子
 主の平和
 ご無沙汰しています。
 ハイチの反乱でご心配をかけています。私の住むインシュは大統領の退陣から一日おいた2日から平常に戻っております。
 2月16日お昼頃、銃声が聞こえ愈々反政府勢力が街に侵入父兄は子供を連れ戻そうと学校に駆け込み一人二人と迎えが来て2時間後に全生徒が帰宅、泣いている低学年の子も居りました。
 其の内 情報が入り警察長、警察官が撃たれ死亡、警察署は占拠され、刑務所は破られ服役者は逃亡、午後5時ごろ警察の一部が焼けました。
 次の日から 模擬服を着た武装グループは街を巡回しながら時々発砲していました。実弾なのか、空発なのか、威嚇なのか、住民は武器の前では如何ともすることが出来ません。争いは不平等ですね!!!!!
 民間人の服装をした反勢力グループも居るので、政治には無関心を装っているようでした。日中は戸を閉めて外には誰も出ず、車の騒音も無く、喪に服すような、静まり返った街に変わりました。
 21日の日曜はパトロールしている武装グループをよそ目に、カニーバルの変装者の後について歩く物見が出て、政局に関係なく楽しんでいました。23日は電気がないのに午後8時まで外で騒いでいました。
 大使館から他国へ退避する勧告を受けたり、緊迫した日々でしたが、インシュは幸い混乱が鎮まりつつあります。時々デモ行進はあります。
 何処に居ても 身の危険はありますが神様の庇護のうちに過せる日々を皆様と感謝したいと思います。
 3月8日から学校が始まる予定です。約二ヶ月ぶりです。遅れを取り戻すため、これからが大変です。大人の権力争い、自己主張で迷惑している子供たち。この政権交代で社会の前進が見られ、子供たちが人間らしい生活を享受出来ますように…。
 今後も皆様の心温まる関心事で、ハイチ国と子供たちの成長を見守り、助けてくださいませ。
 漸く学校に2階が増築されました。完成は何時になるか??物価が毎日騰がるので、はらはらしています。写真の取り込みが出来たらメールで送リます。
2004年03月06日




ペルーからのお便り(リマにて)

礼拝会 シスター 川俣 恭子
「リマ便り」 (その2)
「会」の皆様へ
 神父様もスタッフの皆様もお元気でしょうか?
 いつもいつも私たちのためにご献身下さいまして本当にありがとうございます。神様が十分にお報いくださいますようお祈りいたします。皆様のお祈りのお陰さまで、私はリマの夏の蒸し暑さを何とか乗り切れそうです。3月一杯頑張れば涼しくなるでしょう。
 明日は、加藤神父様に頼まれて、日本人グループの四旬節の黙想会のお手伝いに参ります。このグループはお年寄りばかりで、日本語のわかる方も極く少ししかいないのですが、神父様は最後の1人まで続けるとおっしゃっています。
 今日は、「リマ便り(その2)」をお送りします。2月中にと思っていたのに、書き始めてからすぐに1月経ってしまいました。でも、今年は頑張ろうと思っています。とにかく皆様のお祈りがこの気の毒な女性たちのために本当に必要なのです。日本はもう春でしょうネ。日本の早春が私は大好きでした。
 日本の皆様お元気ですか?リマは今、真夏の気候です。昼間は蒸し暑くて、フーフー言っていますが、夜にはそよ風が吹いてきて何とか眠れます。
 私たちの小さな訓練所「マリアミカエラの家」も2月から新学期になりました。始まったばかりなのでまだ15人位しか集まっていませんが、そのうちだんだんと増えてくると思います。
 さて、今日は、もうご存知の方も多いでしょうが、ペルーのこと一般についてお話しましょう。
 ペルー共和国は南米大陸の西、太平洋岸沿いの中央部にあって、北のエクアドル、コロンビアの国境はほぼ赤道直下の位置にあります。下って、東のブラジルとの国境はアマゾンの密林地帯、更に下って、海抜3812m.のチチカカ湖でボリビアと接し、南緯18度のチリの国境まで広がっている大きな国です。面積は日本の約3.4倍。でも、アンデス山脈の東側、国土の50%はアマゾン熱帯雨林地帯です。だから人口(2500万人)の半数以上がアンデスを西側に下った海岸地方の都市に集中しています。国土ははっきりと3つの気候区に分けられ、海岸地帯コスタ、山岳地帯シエラ、密林地帯セルバです。海に沿って幅30〜50km、長さ約3,000km.の海岸砂漠地帯コスタでは一年中雨が降らないという珍しい気候です。良く分かりませんが、南極から北上するフンボルト寒流が原因だそうです。
 一年中一滴の雨も降らないのに、人間が住めるのは、万年雪で覆われたアンデス山脈から流れ下る河川のお陰だそうです。リマ市内には至る所に小公園や広場があって緑の芝生と草花やかなり大きな樹木が見られますが、それらはすべて水道の水で育てているのです。私たちの家の猫の額ほどの庭の芝生も毎日水をやらないと枯れてしまいます。だから、リマの市外地、水道の来ていない地域はまったくの砂漠でひとかけらの緑色も見られません。
 地方で住めなくなって、都会へ都会へと流れ込んできた貧しい人々はこの砂漠に筵の小屋を立てて住んでいるのですが、週一回やって来る給水車から乏しい水を買わなければなりません。
 私たちの訓練所「マリアミカエラの家」にやって来るチカス(売春娘たち)の多くがこのような砂漠地域に住んでいます。私は彼女たちの家を訪問し始めた頃、その極端な貧しさにゾッとしました。ボリビアではこんな極貧に接したことがなかったのです。想像できない貧しさ、今日食べられないのは当然、明日は食べられるか、明後日なら大丈夫だろうか、という毎日なのです。種を撒くにも、鶏を飼うにもまず水を買わなければなりません。
 こういう砂漠地帯がリマ市をぐるりと囲んでいて、見渡すかぎり、豆粒のような筵小屋が延々と続いているのです。市内には人々が溢れていて、簡単な仕事にでもありつくことは難しいのです。
 学歴もない若い女性たちにできることは身体を売って小銭を貰うこと位です。そういう素人の売春婦たちが街中至る所に立って客を待っているのが見られます。私たちはそういう娘たちを探しに街に出掛けます。危険は無いのですか?とよく聞かれますが、売春宿にしばられているような娘たちに近づくのは難しいので、ソシャルワーカーと一緒に時々行きますが、その辺の路地に立っている娘たちは、ただそれをしているというだけで、普通の娘たちと余り変わりません。それに、さすがカトリック国ペルーで、私たちの修道服姿が彼女たちに近づき易くしてくれますし、私たちを守ってくれています。
 気候区の話に戻りますが、コスタの東はすぐに標高1,000m.を越えて、2,500〜3,500m.のケチュアの山岳地帯にはインカ帝国の遺跡で名高いクスコやプーノの町があります。このシエラ地帯から沢山の人々が都会に下りて来ます。大雪や洪水、また旱魃などで食べていけなくなって故郷を捨てて来るのです。(でも、都会の貧しさは もっと悲惨なのですけど………。)ケチュアを越えて4,500m位まで不毛の山岳地帯が続きます。インディヘナの人々がジャガイモやキヌアを食べて、リャマやアルパカを飼って生活しています。その上には、「黒い山脈」、更に上ると万年雪のアンデスの「白い山脈」へと続きます。
 そして、アンデス山脈を越えて、東側に下ると、急にアマゾンのジャングル地帯セルバになるのです。
 次に、ペルーの歴史は、もちろん有史以前から文明があったのですが、今から3,000年前、北部アンデス山岳地帯にチャビン文化が発たちし、11世紀末、中部アンデス地域にインカ族が現れ、15世紀末にはコロンビアからチリにまたがる約5,000km.のインカ大帝国が首都クスコを中心に黄金の大文化を築きました。でも、1532年、新大陸を目指して来たスペイン人のピサロによって帝国は破壊され、19世紀初頭までスペインの植民地として、圧制に苦しみました。黄金や銀、銅、鉄など、すべてスペインに持って行かれました。1821年、スペインとの戦争に勝って、やっと、ペルー共和国として独立し、今日に至っています。
 産業は、工業などのハイテクのものは無く、鉱物や石油、ガス、イワシ加工の魚油や肥料、またわずかな農産物も輸出しているようです。国内に出回っている品物はほとんどがチリやブラジルアルゼンチンなどの先進国(?)からの輸入品です。国内で産業を起すより、輸入(又は密輸)する方が安くなるようです。
 政治は未だに安定していません。くるくると内閣が変わり、汚職に満ちています。フジモリ大統領以来下火になっていたテロリスタも最近また(今のところ地方でですが)動き始めているそうです。
 本当に貧しい、どうにもならない国だ、という気がします。
 人口680万人の首都リマ市には、植民地時代の旧い建物が並ぶ旧市街は住むのには余り快適ではなくなったので、少数の主に白人系の金持たちは海岸沿いの新市街に住んでいます。この地域は高層ビルやマンションが立ち並び、ステキなお店もいっぱいです。その他は、無数の貧しい人々が崩れかけた小さな家に大家族で住んでいるのが普通です。そして、市街地をぐるりと取り囲むように砂漠の丘陵地に無法侵入で住み着いた人々が、(彼らに言わせると、土地の所有者にちゃんと土地代を払って買ったそうですが、)電気も水も下水道も無い不衛したかったのです。どうぞ皆様、不毛の砂漠に住んで今日も生きていかなければならない彼女たちの悲惨な毎日を想像して、彼女たちのためにお祈り下さいませ。では、また。
Silviaの家
Silviaの家

Milagrosの家
Milagrosの家

左から母の家、鶏小屋、Milagros
左から母の家、鶏小屋、Milagros

2004年03月07日




イタリアからのお便り(帰国中の奄美修道院にて)

コンベンツアル聖フランシスコ修道会 瀧 憲志神父
 四旬飾も第3週に入ります。今年は8年ぶりに故郷で復活祭を過ごしたくて、休暇をとって、−時帰国し、今、故郷の奄美修道院から、皆さんに復活祭の挨拶を送ります。
 今日は、これまでの7年間のアシジでのガイドの仕事をとおして、いろいろ学んだものから、一つのことを皆さんと分かち合いたいと思います。
 ご存じの方もいらっしやいますが、アシジの聖フランシスコ大聖堂には中世の偉大な画家たちが、イエスさまのご生涯を描いています。聖フランシスコ大聖堂は十字型の建物です。下部大聖堂の祭盤の右側(北側)には、ジョット学派の画家たちがイエスさまの幼少年時代を描いています。 そこは、「受肉の秘義」という表現でまとめられています。左側(南側)には、ロレンチエッチイーと彼の弟子たちが、イエスさまの「受難と復活」を描いています。 イエスさまのエルザレム入場から、ご復活までが、描かれています。
 ロレンチエッチイーは、「最後の晩餐」の場面は「食事」と「洗足式」の光景に分けて2枚描いています。
 ペトロはイエスさまが自分の足を洗おうとされたとき、最初は断りました。イスラエルの国は,先ず、お客さんの足を洗う水をさしあげることからもてなしが始まる習慣があったそうですが、当時の人々によると、人の足を洗うことは卑しい労働ということで、お手伝いさんも、水は持ってきてもお客さんの足を洗うということはしなかったそうです。
 このような風潮の時代に「師」とも「主」とも仰いでいるイエスさまが、自分の足を洗おうとなさったとき、ペトロはそれこそ心臓も止まるほどの驚きだったことでしょう。
 「……洗わないで下さい。」と、言うペトロにイエスさまは、「洗ってもらわなかったら、わたしと関わりのない者になる、……」おっしやいます。ペトロはあわてて、「足だけでなく、手も頭も」、と答えています。壁画には椅子に腰掛けたペトロの前に、ひざまずいているイエスさまが描かれています。《ペトロは、左手は頭に置いて、右手は洗ってもらっている足をささえています。》「足だけでなく、手も頭も」とのペトロの願いに、イエスさまは「全身清い人は足のほかは洗う必要はない」とお答えになっています。最後の晩餐でのこの出来事は毎年、聖木曜日の「主の晩餐」を記念するミサで行われています。
 7年間日本からの観光団・巡礼団を案内しなから、いろいろなことを学んできました。今日はそのうちの−つを皆さんと分かち合いたいと思います。それは、「洗足式」のことです。
 「足を洗ってもらったのは、12使徒たちだけ」でしたのでしょうかと、ある日、疑念がわきました。今は、そのことは「聖木曜日」に記念されるだけでしょうか。私たち皆が、イエスさまに足を洗ってもらっているのではないでしょうか。
 「全身が清い人は足のほか、洗う必要はない」、とイエスさまはおっしやいました。私たちは、洗礼の時「神の子」となる「消えないしるし」を霊魂に受けています。「全身」が清くされています。イエスさまの兄弟、イエスさまと「共同の相続人」です。
 でも、私たちは罪によって、イエスさまと疎遠になっています。そのままに放っておくと、イエスさまと関わりのない者になってしまいます。そうなってしまわないように、イエスさまとの親しい関係を取り戻すためのお恵みをイエスさまは準備なさってくださいました。それが、「赦しの秘蹟」ですよね。「イエスさまと関わりない者」になってしまわないように、「赦しの秘蹟」を受けるとき、私たちもイエスさまに「足を洗ってもらっているのだ」との思いに到達しました。「洗足の場面」の壁画の絵はがきも同封したかったのですが、残念ながら、そのフレスコ画は絵はがきになっていませんでした。
 申し訳なく思いますが、上記の下線の部分でイメージして下さい。
2004年3月18日




ハイチからのお便り(ポートプランスにて)

クリスト・ロア宣教修道女会 シスター 須藤 昭子
「会」の皆様へ

 ただ今シスター徳永より「宣教者を援助する会」から、検査室のための援助金を送金していただいた旨知らせがありました。有難うございます。心からお礼を申し上げます。
 今日でちょうど、アリスチド大統領が国外に出て1ケ月になります。ポートフランスでは多国籍軍の兵士が治安にあたっていますが、まだ何かと不安を感じます。新しい政府はどのように意見の異なるグループを調整してゆけるのでしょうか?いつも騒動の代価を払うのは声を上げることの出来ない一番貧しい人と病人です。
 シヴノサナトリウムには結核とエイズ患者が入院してますが、前と比べて目立つのは若い女性のエイズ患者です。すごい貧血、高熱,肺感染のために結核と思ってきますが、多くはエイズにかかっている人です。家族はエイズと知ると病院に来なくなります。亡くなっても電話もなく、知らせもできず、病院の敷地内で粗末ながらお棺を作って埋葬しています。家族は埋葬のためのお金がないので見捨ててしまうのですが、患者はそれを知ってか知らないのかともか〈、一言も愚痴をこぼさず亡くなってゆく人が多いのです。私はいつもこの人たちをみながら、黙して屠所にひかれる子羊、キリストを感じます。国立病院であるこのサナトリウムは何ひとつ国からの支給がないところに苦しみがあります。
 実は検査室を動かすために電気のいること、発電機をそのために動かさなければならないことを考えていませんでした。それでこれからそのために何とかして、いただいた検査機械を活動させるつもりです。今までも神様は助けてくださいましたので。
 木酢を使った野菜つくりは初めてでしたが、よくできて、ちょうど騒動の大変なとき買いにでられず、患者に何とか食べさすものがあったのはこれもみ摂理と思います。すべては神様に感謝ですね。機械は買いましたら写真を送ります。
2004年03月31日




インドネシアからのお便り(メダンにて)

聖母カテキスタ会 浜谷真佐美
主の平和
 私たちの愛の学園にも春の兆しが訪れて、汗をかきかき、待降節が過ぎて行きました。学園は、広大な田んぼの真ん中に建てられていますから、かなり遠くからも見付けることができます。
 今日、学園バスが田んぼの溝に片方の車輪を落としてしまい、大変な騒ぎになりました。幸い園児は無事でしたが、一人の園児がその混乱の中で行方不明となり、大変でした。何とか途中の道で見付けましたが、少し放浪する癖のある子ですので、いつも注意していなければなりません。
 しかし、学園を訪れるお客様がある時などは、この子もみんなと一緒に楽しんでいます。学園生は、とてもダンスが上手で、テンポの速いリズムに合わせて踊る姿は、まったく健常者と変わりありません。
 保母さんがよく面倒を見てくれますが、新入生や重症のの子供たちのお世話は大変です。それでも、毎日、毎日、今日も一日この子供たちの上にもやってくると思えば、神様の御はからいが、あまりにも偉大で、美しいものに見てくるのです。
 ですから、子供たちはいつも、突然大声で笑ったり、あまりにも嬉しそうなので、ついみんながゲラゲラと笑ってしまいます。学園児はお客様が大好きです。それは、必ずプレセントがあるからで、いつも準備された踊りをもって、お迎えするのです。
 園児たちには、かなりの時間と忍耐と愛が必要です。特に、新入生をお迎えする時は、必ず、すでに訓練を受けた子供さんのお手本を示したり、実際に上達した生徒などを見てもらい、希望を持ってもらうのです。「きっと我が子もいつの日か、あの子のようになれるでしょう…」と。我が子を学園に残して行く時は、涙の希望を持って帰られます。
 学園に入所すれば、ほとんどの生徒は、少しずつであっても上達するものです。子供たち自身も自分の可能性を見付けると、しっかりして来ます。その間いつも励まし、勇気を与え、やさしい心をもって接すれば、上達することを私たちは体験しました。
 その辺をコントロールすることにかなりの問題がありますが、自信がついたと自覚するようになるまでには、お家族側からの大きな、広い受け入れの心が必要です。
 しかし、学園の休校が1週間以上も続いた後、帰校して来る子供たちは、重度であればあるほど、元の黙阿弥という感じです。何故ならば、家庭生活では常に保母さんの役割をすることができないというのが、現状ですから。
 でも、このようなことを数年も繰り返している間に、ついに何とか身の回りのこともでき、ある子はお客様の接待もできるようになります。女子であれば、何とか家庭の中で一員として、役に立つことにもなりますが、男子は、家から外に一人で出すことができません。それは、近所の悪者やマフィヤにいとも簡単に惑わされてしまうからです。そして、その子は親に金や勝手な行動をせがみ、それを拒めばこの子は乱暴をします。これは大きな問題です。学園としては必要な措置をとりますが、このようになった子供を持たれた家族は大変です。本当に社会問題がパックリ大口を開けて、呑みこもうとしています。
 それでは、本日はこれまでで失礼します。
2004年03月某日




インドネシアからのお便り(メダンにて)

聖母カテキスタ会員 浜谷 真佐美
(浜谷さんが活動されている特別学級「愛の園」から今年度の支援の申請が送られて来ました。その手紙には20名の園児・生徒の写真と共に、昨年来の同園の活動状況を紹介する写真が添えられていました。その幾つかを次の通りご紹介します。)
特別学級スポーツ大会
1. ジャカルタで開催された昨年度の特別学級スポーツ大会で、パトミントン試合(第一位)とフットボール試合で優秀な成績を挙げました。この写真は後で愛の園の中庭で記念撮影したものです。

「愛の園」でのスポーツ大会
2. 特別学級「愛の園」でのスポーツ大会で遊びに興じる子供たち。

ウサギのお世話の指導
3. 2004年学園の裏庭でウサギのお世話の指導を受ける男子生徒たち。私たち、僕たち、君たち、ウサギさんもみんなで生きている!

産まれたばかりの赤ちゃん犬と女子生徒
4. 学園の前庭で産まれたばかりの赤ちゃん犬とお母さん犬のお世話の仕方を学んでいる女子生徒たち。みんな仲良く生きているのよ!

2004年03月23日




コートジボアールからのお便り(サンフラにて)

クリスト・ロア宣教修道女会 シスター勝 ひとみ
「きずな」のスタッフの皆様

いつもお世話になりありがとうございます。
昨年9月に援助していただきましたコートジボアール、サンフラ市の「グラース・クチュール」洋裁学校のレポートを送らせていただきます。

私は再びダブー図書館に転任を命ぜられましたので、後任のカナダ人のベテラン・シスターであるSr.マリ・ポール・ブゥドゥローが洋裁学校の責任者となりました。
彼女は40年間のコンゴーでの経験を生かし、援助を無駄なく有効に使ってくれています。

コートジボアールは戦争でもなければ、平和でもない変な緊張が続いており、5月にはとうとう国連軍が「非武装化」の目的でやってきて、首都アビジャンは軍服が目立ちます。
2005年には大統領選挙が予定されており、これからますます緊張状態が高まることでしょう。10年前のルワンダのようなことになりませんように…。

では、今一度ありがとうございました。
感謝と祈りの内に

《シスター マリ・ポール・ブゥドゥローの感謝状》

2004年3月31日 サンフラにて
クリスト・ロワ修道女会
グラース・クチュール・センター(グラース洋裁学校)
サンフラ

件名: 謝意の表明

親愛なる皆様へ

大きな感謝の気持ちをもってご挨拶申し上げます。皆様が暖かい心で現在私たちが行っている活動を開始できるよう援助して頂いたサンフラ・グラース洋裁学校のママさんたちの感謝の気持ち、そして私自身の感謝の意を皆様にお伝えします。
皆様の援助によりまして、数台のミシンといろいろの物品を購入し1クラスを立ち上げることができ、また2003年11月から2004年7月まで指導する人の給与を賄うことができました。
親愛なる皆様、皆様は私たちの使徒職に深く関わっていただきました。それが皆様にとって祝福となりますよう祈っております。
今のところ7人のママさんたちがクラスで習っています。彼女たちは一生懸命で、意欲も大変なものです。その他にも学校に来て、授業のことを照会するママさんたちがおり、新学期には入学することを希望しています。
かくも貴重な支援をして頂いたことに心から感謝し、これまでの収支報告と何枚かの写真をお送りします。
親愛なる皆様に心からのご挨拶を申し上げます。

所長 マリ・ポール・ブードロー

洋裁を習うママさんたち
洋裁を習うママさんたち

新しく購入したミシンで
新しく購入したミシンで

2004年03月31日