『南米』『入植50周年の感謝と慰霊のミサ』サレジアン・シスターズ 小浜 静子
いつも私たちの宣教のためにいろいろとご配慮くださって、本当に感謝しています。筆無精の私も今回ばかりは一筆しなければならないと思いました。 サンフアンの日系人766名は全員がカトリックではありません。日系の事務所JAICAによると、会員の半数はカトリックですが、戸数でいうと半数は仏教、神道、創価学会、真光、プロテスタント、無宗教となります。だから、JAICA自体は多宗教団体ですので、平和を保つために宗教色を濃く出すの避ける傾向にあります。ですから、8月20、21日に行なわれた50周年の記念式典でも、度々会議を開き、カトリック教会としては記念碑と慰霊碑の祝別、それに慰霊祭の祈願をサンフアンの主任司祭が司式するだけとなりました。南米カトリック国のやり方で、枢機卿様にミサを司式していただきたかったのですが、無理と分かりましたので、記念式典に先立ってサンフアンの教会で50周年の感謝と慰霊のミサを行いました。他にもサンフアン・コロニアではいろいろな記念行事を企画しております。 7月31日(日曜日)午前10時よりサンタ・クルスの補佐司教エスタニスラオ師を迎え、サンフアンの教会で荘厳な感謝と慰霊のミサを捧げることができました。エスタニスラオ補佐司教は、元コンベンツアルのフランシスコ会員で、コルベ神父様の縁の日系人ということもあり、喜んでミサを捧げに来てくださいました。そして昼食会にも参加してくださり、子供の日本舞踊も観覧されて喜ばれ、和やかなひと時を過ごされました。 サンフアン・コロニアは、幸い50年の歴史が教会とともに始まっています。それは長崎県出身の信者さんたちがいたために、当初の開拓時代、司牧の面ではイエズス会の神父様方からよき教えをいただきました。その後イエズス会からサレジオ会に引き継がれ現在に至っております。シスター方も当初はメルセス会、礼拝会、そして現在はサレジアン・シスターズの担当になっております。 主任司祭ニグリス師は、多くの司牧担当地区をもっておりますので、サンカルロス司牧センターから、土曜日の夜のミサ、日曜日の9時のミサ、火曜日の夜のミサに来られるだけです。 そのため普段は教会の留守番役が必要なので、私は教会の留守をあずかって、病人見舞い、地区のロザリオ会、お通夜や葬儀ミサの準備や連絡、日系人の学校での宗教の授業など担当しております。シスター漢那はモンテソから援助マリア修道会のアスピランテを連れて、日曜日に典礼の支援のために来ます。今回の記念ミサでも奉納や聖歌で大いに貢献してくれました。 このコロニアは、日本国政府の援助と日系人の努力によって素晴らしい移住地となり、ボリビアにとっても貴重な農業モデル地区となっています。当日のミサで奉納した、米、果物、卵、などは彼らの汗の実りであり、神様の祝福のしるしです。50年の感謝と慰霊のミサを日系人だけでなく、地元のボリビア人とともに捧げ、昼食会も司教様を囲んで和やかな雰囲気で、ひと時をすごせたのは素晴らしいことでした。デイオス・グラシアス! 昨年一時帰国した折、日本の多くの友人、知人、教会の信者さんたちに励まされ、献金とお祈りをいただきました。とくにサンフアンの50周年のためにお祈りくださった皆様に心からお礼を申し上げます。皆様のお祈りで、立派な感謝と慰霊のミサができました。日系の人たちも、今度は100周年を目指してさらに一歩と前進すると思います。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。皆さんの上に主の恵みが豊かでありますように。 祭壇の前で、左からSr小浜、エスタニスラオ補佐司教、ニーノ神父 『16か国の25人が研修に参加』横浜教区 石川 裕之
司教館で職員の方に「神父さまは出征兵士みたいですね。」なんて言われながら、それはそれはあわただしかったのですが、何とか無事に出発できました。 ブラジリアは学生時代以来で23年ぶりでした。当時は首都建設のためになんとも無味乾燥な町だという印象を持ちましたが、今回また滞在してみてかなり街らしくなってきたようです。でもアジアに住み慣れたものにはなんとも人間が少ないように思います。 今回のここでのコースの参加者は全部で25人です。信徒、神学生、シスター、ブラザー、神父です。国籍は16か国にわたり、これまでの経験では一番多いです。皆故郷を離れ、宣教師として派遣されてきました。まさにキリストによって呼び集められました。私みたいに到着してすぐに始まるものは珍しく、大体数か月ブラジルで生活してからここに集まっています。ここCCMでは年に2回この集中ポルトガル語(以下ポル語)研修を3か月、宣教師のために行なっているので有名なのですが、濱尾枢機卿さまもローマでよい評判を聞かれたそうです。 皆に共通しているのは、宣教師としてブラジルに派遣されていることとポル語を習得するためにここに来ているということです。生活していて思うのは、言葉が十分でなくても皆協調性があるということ、精神的にも霊的にもとても成熟していること、相手を理解しようと一生懸命努めようとしていることなど、毎日の男女一緒の共同生活は刺激もあってとても満たされております。そのメンバーの国籍は、韓国、インド、インドネシア、エジプト、ナイジェリア、コンゴ、イタリア、フランス、イギリス、ポーランド、アメリカ、メキシコ、パラグアイ、エクアドル、ブラジル、そして日本。私の今までの共同生活で一番国際色豊かです。 8月28日にはことの共同体でなんとサンバを踊りましたよ。シスターも神父も神学生も皆一緒になって、金曜の夜を思いっきり楽しみました。みな故郷を離れている寂しさもあるでしょうけど、まさにキリストによび集められてここで一つになっていることはすごいな−と、とっても感動しました。これこそ聖霊降臨ですね。汗びっしょりになって踊りまくったわけです。 ヨーロッパ言語組の神父はもうミサをポル語で始めました。私はまだですが、もうすぐやらされるでしょう。母国語を使うものが一人もいないことばよい条件ですが、つい英語圏の神学生やシスターと英語を使ってしまうので気をつけないといけません。すべてポル語だけです。最初から難解な文法の説明などもすべてポル語で進められます。ですから皆、たどたどしく生活のすべてをこの言語でやるようがんばっています。赤ん坊と同じです。授業では辞書が欠かせませんが、今日はなんと先生からポル語−ポル語辞書を使うように勧められました。先生は二人とも若く、24歳と27歳ですが、とても大人です。教え方も上手で宣教師に慣れています。二人とも真剣で優しく、たくましく、とても魅力的です。 最近思うのですが、言葉を学ぶには二つの要因が必要かと気づきました。一つは相手の文化を理解し、へりくだって学ぼうとする謙遜な気持ちと、世界を制覇するぞ!(ちょっと危険ですね!?)という大きな野心と両面ないとだめかな−と思ったりします。 『アフリカ』『平和、でも状況は変わらず』御聖体の宣教クララ修道会 横岸 美智子
毎年夏の休暇に、イタリアから若者たちがやってきます。今年も男子3人、女子8人の学生たち、18歳から22歳ですから、ご想像くださいませ。静かな修道院もこの時はギターや歌声がかなり夜遅くまで続き、にぎやかな家になります。私も孫に囲まれたようですが、若者は若者なりに貧しい国の生活にショックを受け、自分から奉仕しようと一生懸命努力し、奉仕の喜びを見つけて行くのは端で見ていてもうれしいものです。皆、とても素直でよい若者で、信仰も深まって帰る若者も多いです。もう最近はこちらの時間割に慣れたのか、9時半の消灯時間になりますと皆、部屋に戻り、10時半には静かになります。 ここシエラレオネは平和にはなりました。しかし状況は一向によい方には向かっておらず、人々の暮らしは大変になるばかりです。一握りの人がお金をみな取ってしまい、後の人々は皆、極貧にあえいでいます。 平和になって、少しの進歩かなと思いますのは教会にやって来る人の衣装が変わったこと。3年ほど前は皆、イタリアや日本からのコンテナ支援の衣類でしたが、今はこちらで作った典型的な衣装を男性も女性も着ています。レースやビ−ズの入ったびかびかする生地が大好きで、皆それぞれきれいに着飾って、日曜日のミサにやってきます。これを見ている限りでは、もう貧困は終わりかなと誤解しそうですが、実はこちらの人は着ることが一番の趣味なのです。借金しても、子供が病気で薬が買えなくてもきれいに着飾る、そして教会やモスクに行くのです。「衣食住」のうち一番大切にするのが衣で、食・住はまだまだお粗末、特に住の方が問題です。一般の小屋には家具らしきものは何もなく土間に寝るだけで、トイレも台所もありません。 そんななか、私たちの最大の問題は教員不足です。政府はなかなか雇ってくれませんし、電気も水道もない地方には大学の先生はなかなか来てくれません。そこで、どうしても教員住宅を作らなければと苦心しています。最近ようやく教員住宅を2軒4世帯のために建設しました。トイレと台所は別に作らなければなりません。たとえ大学での教師の家庭でも、彼らの習慣で生活するわけですから、まず台所のために、家ごとにセメントの小屋を建て、石を敷きキャンプのように食事を作るのです。また、トイレと水浴のできるブロックの建物を別に各世帯ごとに作りますが、トイレは穴だけで、そこにバケツに水があるだけです。 シエラレオネには日本で忘れてしまったよい面がたくさんありますが、一方、まだまだ多くの面で改革しなければなりません。例えば、給料をもらえばすぐ全部使ってしまい、どのように家庭の経済を切り盛りしてゆくかとか、貯金しようという考えがなく、いつも借金に追いかけられているのがシエラレオネ人の多くです。そこで私は、最近職員には給料の一部を保管して、これは困った時のためにと一時預けを引き受けています。「シスター銀行に口座を開きました、これから少しずつでも貯蓄していきます」と報告に来た先生がいます。教師でさえそうですから、一般の人々にはさらに教育が必要でしょう。 昨年は発電機をありがとうございました。大助かりです。問題は燃料のガスオイルが年間約25万円かかることです。それまでもお願いしたら厚かましいですね。どうぞお祈りくださいませ。 ルンサから車で2時間ほど北に行くと、1000mくらいの山がいくつかあり、滝もあって美しい景色です。 『支援いただいているアニメーター』ショファイユの幼きイエズス修道会 有薗 順子
こちらチャドは新学期を迎えて、すべてが活気づいてまいりました。先日は『きずな』92号をありがとうございました。いつも興味深く拝見させていただいております。国内で陰ながら祈り、私たちを支えてくださる方々には感謝を申し上げ、海外で宣教しておられる方々の宣教熱、活動ぶりには励まされ、勇気づけられます。 皆様から援助していただいている「アニメーター」について、その活動などを報告させていただきます。 アニメーターのマダム・クロージンヌは、6歳の時からガール・スカウトに入隊して活動、現在主婦として二女の母として働いています。でもアフリカのことですから、子供は“小さなお母さん”に任せて、ガール・スカウト事務所で、チャド国のガール・スカウト全会員の証明書の準備や、整理、各教区から送られてくる会費の収集、その他毎日、郵便局で郵便物の有無の確認、リーダーたちの養成、集会の司会、報告書やプロジェクトの作成などを担当しています。また小教区のグループに問題があれば、バイクで出かけていって、解決を支援するのも彼女の仕事です。 チャドには約4,000名、首都ンジュメナには約1,000名の6歳〜18歳までのガール・スカウトがいて、この夏「愛知万博」にも参加品を送付しました。国内ではキャンプをしたり、2006年度の計画表作りや、生命、エイズについての研修へ参加し、染色、手芸、料理なども覚えました。ほかにも彼女のように、結婚後も子供と共に、若者たちと共にガール・スカウトを続けている女性が数人いて、頼もしい限りです。 このように子女の成長を助け、支えているアニメーターの活動を引き続きご支援くださいますよう重ねてお願い申し上げます。 6歳〜12歳の子供たち、リーダーもー緒に。 アニメーターのマダム・クロージンヌと次女サレドゥ 『オセアニア』『宣教開始10周年のお祝い』サレジオ会 飯田 徹
こちらソロモンは常夏で季節がないようなものですが、時期が来るとマンゴーは実をっけ、ある木は葉を落として丸坊主となり、ある草は枯れます。このところソロモンは天候が不安定で、雨季が近づいたことを予感させ、特に山岳部は集中豪雨などあるようで、川の水が赤土で濁ること度々です。 さて2005年10月はサレジオ会がソロモン宣教に着手して10年の節目に当たります。1995年の10月にパルカーザル神父様と、田中修道士がソロモンに来て、テテレ小教区をホニアラ大司教様からお預かりしました。2000年にはカベッリ神父様がソロモンに来て、ヘンダーソン(主都ホニアラの東10kmで、ソロモン唯一の国際空港がある)に工業学校を立上げ、満5年になります。 10月30日、年間第31主日にテテレ教会でサレジオ会ソロモン宣教開始10周年を盛大に祝いました。もちろん主賓はエイドリアン大司教で、サレジオ会日本管区が宣教着手を決定した時の管区長、現高松教区長の溝部司教様、ソロモン宣教を現在管轄するフィリピン北管区長のウォン神父様などをお招きして祝いました。 この式典のための信徒たちによる準備は28日の金曜日から始まり、私は調整役でてんてこ舞いでした。29日土曜日の夜の聖体礼拝には、普段の日の何倍もの信徒たちが集まり、また聴罪を大勢が希望し、2時間半にも及んで私は疲れ果て、とても「アルスの司祭ゲィアンネ」にはなれないことを悟らされました。 30日の日曜日はエイドリアン大司教様の主司式で、溝部司教様、ウォン神父様、カベッリ神父様、アンプローズ神父様、長崎の浜口神父様、パプアニューギニアのヴァレリアノ神父様、それに私の共同司式で感謝のミサが捧げられました。ごミサ自体は年間主日のミサですが、人望行列に始まって、随所にソロモン・カラーが散り巌められ、2時間に及ぶ賑やかで長いごミサになりました。お聖堂には入りきれないので、1996年にドンボスコ・ボランティア・グループ(DBVG)の活動で建てられた、コミュニティーホールを飾り付けて行われました。当日は晴天に恵まれたのですが、それ程蒸し暑いということもなく、無事終了することが出来ました。 ごミサの後はお祭りの食事で、それが済むと、お決まりの演芸会となり、各部落の各グループの出し物となりました。ソロモンにはラジオ、TV、新聞雑誌、娯楽施設などが極端に少ないので、これは娯楽のよい機会となり、皆楽しんでいるようでした。 『アフリカ』アフリカをもっと知ろうB 宣教者のお話を聞く会が6月7日の午後、上智大学キャンパス内のSJハウス会議室で、アフリカから帰国中の2人のシスターを迎えて行なわれました。Sr.中村寛子はコンゴ民主共和国に派遣されて19年、管区の会計係として働く一方、現地の状況、人々の生活をみながら支援を続けています。Sr.平間理子はマダガスカルに派遣されて14年、修道会の経営する病院で看護師として働いています。(お話の要旨を掲載します) 『暫定政府の憲法もでき、まもなく選挙』マリアの宣教者フランシスコ修道会 中村 寛子
コンゴ民主共和国は1997年までザイールといわれていた国で、首都はキンシャサ、赤道をまたがってちょうど中央に位置する。アフリカではアルジェリア、スーダンに次いで3番目に大きい国で、日本の6倍強の面積に5500万の人口。450以上の部族があるが、大きく分けるとパンツ一族、スーダン族、ナイール(ツチ)族となる。ベルギーの植民地時代から公用語はフランス語だが、それぞれの部族語がある。 9つの国と国境を接していて、国境紛争も長引いている。国内は政治的、社会的に崩壊状態に。地下資源が豊富―金、ダイヤモンド、銅、ウラニウム、コバルト、それに最近はタンタルという鉱物も―である上、熱帯雨林に覆われていて、水も豊富、木材も重要な輸出品となっているのに、なぜ、貧しい国なのか。GNPは83ドルで、日本の400分の1の生活である。かって「キンサシャ ラ ベル」といわれて美しい町だったが、今はごみの町と化してしまった。 独立して30年を経た1990年代になって人々は民主化を叫びだした(独裁者に治められていた)。ベルリンの壁の崩壊、ロシアの崩壊などで世界の情勢が変わり、それまでの支援国からの援助や外国資本による企業や商店もなくなった。国内はどこも苦しくなり、軍隊をはじめ給料が払えない状態に。国を挙げての略奪が始まり、市民も加わってありとあらゆるものを持っていく。外国人も大使館もほとんど引き上げた。 私も一度、略奪を経験。戦争をしていないのに遠くから銃弾の音が聞こえ、何かと思っていたら、略奪が始まったとのこと。志願院にいたが、20人くらいの若い志願者を預かっていた。兵隊は略奪の時には麻薬など使って正常な状態でなく銃を持ってくる。修道院の外をどんどん通っていく。夜を徹して8時間くらいロザリオの祈りを休みなく唱えたりして3日間皆で祈り、終結を待った。これは若い人にとって、どんなときにも祈ると必要な助けをいただけるというよい経験になった。 大統領の独裁に反乱軍が力を出し始めたが、反乱軍を制圧するために周辺の4〜5カ国の軍隊が入ってきた。反乱軍は離散し,地方へも逃げ、教会にも入り込み、ご聖体をばら撒き、祭服などめちゃめちゃにしていった。同時に難民がたくさん出たが、1997年に32年間の独裁政治が終了した。その後も3日の戦争と呼ばれる市民と反乱軍との戦いもあったが、2002年に会議をして包括和平合意し、2003年から大統領と4人の副大統領で暫定政府ができた。今年の6月30日に総選挙を予定したが、利害関係が複雑でなかなか合意ができなかった。 現在、飛行機が飛すようになり、自由に移動できるようになった。固定の電話はだめになったが、携帯電話が使えるようになった。12月ころまでには選挙ができるよう選挙人名簿など準備をしている。本当にこの国が蘇生していくかどうか。豊富な資源を有効に使って、最低の生活をしている人々の生活が上がるように、また、教育と医療の問題を優先して欲しいと期待している。 キンシャサの人口は戟争が始まる前は500万人、今は750万人に。家族を頼って都市にくるので膨らんでくる。今は子供が受難の時代である。エイズなどで両親が死んでいくと5人、7人と子供が取り残される。かつては家族が引き受けていたが、今は食べることだけでもムリ。はみ出した子は「ソシエ(神がかりとか悪魔つき)」といわれて追い出される。ストリートチルドレンが4万人いる。その上、たくさんの新興宗教が起こっている。牧師と呼ばれている人が子供を引き連れて、お祈りをしたり、暴力をふるったりする。 修道会の創立者の帰天100年にあたることから、世界中でキャンペーンを行なうことになり、コンゴでは親を亡くした子供たちを引き取って孤児院を作ることになった。戦争で兵隊が亡くなると兵舎から未亡人と子供は追い出される。その後は狭いところで糧を求めて生活しているが、エイズなどで母親も亡くなる。以前から一人のシスターが世話をしていたが、いっの問にか孤児が50人くらいになったので、本部の許可を得て引き受けることになったのである。 『独自の進化をとげた生物がいっぱい』マリアの宣教者フランシスコ修道会 平間 理子
マダガスカルはグリーンランド、ニューギニア、ボルネオに次いで世界で4番目に大きい島で、面積は日本の1.6倍。大昔、アフリカ大陸の一部だったが切り離された。そのとき猛獣が来なかったので、かわいい小さな動物やサルに似た種類の動物がたくさんいる。この島で独自の進化をとげた生物が数多く生息していおり、アイアイというここにしかいない小さなサル、ホシガメなどは国際保護動物である。背中にコブのある牛もいる。 植物では、バオバブの木が全7種類あり、ポインセチアは大きな木になり、「マダガスカルの木」となっている。桜の花に似ている美しい木や旅人の木という木もある。幹に傷をつけると水が出て来るので、その水を飲みながら旅をすることができる。 日本人シスター3人はそれぞれ別の場所で働いている。公用語はフランス語、マダガスカル語もある。宗教は40%くらいがキリスト教(カトリック、プロテスタント合わせて)、その他アニミストといって自然信仰、それにイスラム教が7%といわれている。部族は18。最初、インドネシアから人が渡ってきたためか、アジア系の人が多い。インドからも、アフリカからも渡ってきたので、マダガスカル人にはさまざまの顔がある。 政治は共和制だが、1991年には大統領交代要求の7か月のストがあった。その後、政権は不安定であったが、2002年に選挙があり大統領が変わって、少し経済状態がよくなった。金が採れ、サファイア、銅も採れる。牛は人の数より多いし、コーヒーが輸出でき、バニラも棒のまま売っているし、輸出している。 市場にはいろいろな物が売られていて、お祝い日には生きたニワトリを料理する。主食はお米で、味をつけずに炊く。買物でも何でも、物は子供のときから頭の上に載せて運ぶ。子供達は人なっこくて、とても生き生きしている。一夫一婦制だが、子供は平均9人くらい、20人なんていうこともある。 人が亡くなると、布で遺体をくるんでしばる。教会には貸し出し用のお棺があり、お墓に運び入れる。一般にお墓は立派で、お墓をつくるために一生けんめい働く。葬ったら5から7年に一度掘り起こして骨を洗って、家族のものを一緒にしてまた布に入れる。家族だけでなく一族の墓になっていて、誰のものかきちんとわかるようになっている。時々、王様の骨を洗う儀式が盛大に行なわれる。 こちらでは割礼が男の義務。7年に一度大きな割礼の儀式が行なわれる。受ける子供は赤い服を着せられお父さんに担がれてやってくる。 最近、貧しい地区の人々を助けるプロジェクトを始めた。人々は一畳くらいの広さに4人生活している。子供たちに食事を与え、識字教育をし、母親には家政教育をしようと計画している。路上生活者も多い。フランスの援助で老人ホームを作り、路上生活のお年寄りを収容。診療所もついていて病気になっても安心。 私が働いている病院は唯一のカトリックの病院で、100床の総合病院。国には医療保険の制度が一切なし。企業単位で家族の医療の面倒を見るところもだんだん増えてきている。伝染病は未だにペストがあり、コレラ、腸チフス、マラリア、結核、寄生虫が多い。これは水が悪いからだと思う。医療機器は、CTはこの国に2台しかない。1台は故障が多くて稼働率が悪い。 以前、国立病院の医療は無料だったが、今は有料に。しかし、国立病院で点滴といわれると、点滴液、点滴セットからアルコール、バンソウコウ、脱脂綿など全部買っていかなければならない。輸血は国立病院だけでしている。エイズの試薬が手に入らないので、他の病院は許可にならない。かって医療費が無料のとき、薬をもらうだけもらって売ってしまうということがあった。こちらは蚊帳が必需品だが、その生地を切ってガーゼのように使っている。また、病院には、一応車と救急車はある。大統領が教育と医療に力を入れると約束し、小学校が増えてきたので、医療のほうも少しずつよくなっていくことを期待している。 |