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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アフリカ』






『アフリカをもっと知ろう』

 6月29日、四谷のSJハウスの会議室で小さな勉強会を開きました。帰国中の二人のシスターに、アフリカのアルジェリアとカメルーンでの活動を話していただいたものをまとめました。






『宗教活動ができない国で訪問看護』

〜アルジェリア〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 佐野彌子



 私はまだ成田空港がない時代、羽田飛行場から2、3年の派遣のつもりで旅立った。英国に1年、リビアに4年、アルジェリアには1980年からで、もう24年になる。
 アルジェリアは地中海に沿った北アフリカにある。フランスの植民地だった時代には、石油産出のおかげで高い建物、学校、病院など造られ、医療費も無料、就学にも援助があり、6種類の食物など生活に必要なものは大変安かった。その後、だんだん情勢が変わり政権も交代し、すべて国有化されることになった。修道看たちもたくさんいたが、その時点で出国、中には帰化して滞在し続ける方もあったが、宗教活動は全くできなくなった。
 私たちの共同体は3人(イタリア人とフランス人と私)で、サハラ砂漠の入り口のシューシャという村に住んでいる。その昔、ライオンが出たので、村の入り口にライオン像が座っている。海抜1100〜1200mの高い山に囲まれていて零下7度になったこともあるが、日中は38〜40度くらいになる。ここは、サハラから遊牧民が集まって1977年に新しく生まれた村で、1982年に私たちの修道会は病院の事業のために入った。
 私たちは、1日5回のイスラムの祈りを聞きながら、村の人と同じような生活をしている。以前私はずっと病院に勤務していたが、いろいろな事情でできなくなり、今は開業医と一緒に訪問看護をしている。他のシスターは女の子に洋裁や手芸を教えている。
 家庭を訪問すると、まずちょっとした部屋に通される。3回、4回と訪問し、だんだん親しくなると一つ奥の部屋へ。さらに、生活の場、女性の場である台所に通されるようになり、本当のお付き合いが始まる。どこでも最初に出されるのがコーヒー。これは飲まなくてはいけない。飲むことは信頼していることの証しである。そしてパン、卵、野菜などをプレゼントしてくれる。大きなジャガイモがあると、シスターにと取って置いてくれる。
 一方、共同体の方でも朝から晩まで戸をたたき、塩や砂糖、薬(アスピリンくらいしか置いてない)をくださいと、いろんな方がやって来る。塩や砂糖はいつか返してほしい、というようにしている。私たちもときには借りに行くことがあると、喜んで貸してくれる。ここの人々には自分の持っているものをあげられる喜び、分かち合う気持ちがある。
 皆と同じ食卓を囲み、死者が出たときは一緒に泣き、水不足のときは一緒に走り回り、停電のときはロウソクを灯す、そんな毎日である。時にはいろいろな出来事もあるのが、一般の方たちが私たちを支えてくれている。
 現地の人に教わった言葉、『神様の綱をしっかり捕まえていれば、神様は決して投げ出すことはない』。






『雨季は1日一食、乾季は3日に一食』

〜カメルーン〜
シャルトル聖パウロ修道女会 田中一栄



 私はカメルーンの首都ヤウンデから車で50分ほどの、オバラという町にいる。もう一人の日本人シスターは中央アフリカとの国境近くの村で、移動民族、狩猟民族を定住させようとする国の政策があり、そのひとつ、ピグミー族の指導をしている。私たちが会えるのは年に2、3回。
 石油もダイヤモンドもない国なので、戦争や内乱に巻き込まれることはないが、しかし、一般の人々は大変貧しい生活。食事は1日一食、乾季には何も作物ができないので3日に一食というのが普通である。
 日本からは教育に多額の援助が来て、大きな町には立派な学校が建てられている。小学校は一応義務教育だが、実際には半数の子供は1、2年通うと働いてしまう。例えば、市場で買い物をした人の荷物を持つ仕事、1回に5円くらい。中学生の歳になると、丁稚奉公のように、大工や鍛冶屋の子は親方のいる所に行って食べさせてもらってただ働き。女の子は学校へいけなくなると、物売りに。高学年の年齢になると、結婚させられる。私たちの中学に来ている女の子は、親は貧しくても何とかしてフランス語を覚えさせて、将来役に立つようにと一生けんめいである。しかし、その親たちの年代は計算がきちんとできない、フランス語もできなくて部族語のみ(287の部族があり言葉もほぼ同数)。そのため、私は学校の会計を担当していて、いつも頭をいためている。
 また、他の先進国からも多くの援助を貰っている。子供たちへのワクチン、結核やエイズの薬のため、また、コンピューターなどIT関連の遅れを取り戻すために。エイズや結核に罹ったら、ひとりいくら支給となっているようだが、実際に患者の所にはいっていないようだ。学校の3人のカメルーン人シスターは、新聞に書かれているように、政府はきちんとやっていると評価している。
 また、病気になっても日本では当然治せる病気も、不幸な結果になることもあり、学校の生徒の中にもそういうケースがありたびたび悲しい思いをしている。
 かってはフランスとイギリスの植民地だったので、フランス語圏、英語圏でいろいろ異なっている。例えばフランス語圏にはゴミの山があり、首都ヤウンデでもゴミの山を子供たちがゴミをあさって売れるものを売ったりしている。畑の畝も整備されず、ごちゃごちゃの状態。英語圏のほうはきちんと畝を作り、指導された畑を耕作。そして、かつてこちらの方は独立したいという気運があった。現在、大統領はフランス語圏から、第一首相は英語圏から出ているが、今秋の大統領選挙では、どのような結果になるだろうか。

学校の畑、授業料を免除した生徒たちに働いてもらっている
学校の畑、授業料を免除した生徒たちに働いてもらっている







『南アフリカ』






『奨学金に心から感謝』

〜チャド(ギダリ)〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 入江多嘉子

 3月14日から20日まで、思い切ってカメルーンの首都ヤウンデに行ってきました。 私どものギタリ診療所から送った2人の看護師志望の青年(男女1人ずつ)の様子を見るためです。2人は昨年9月にチャドから旅立ちましたが、その後、奨学金の送金先で連絡がうまくいかず、学生の手元にすぐに届かなくて難儀に遭っていました。診療所からは予定額より2倍も送ったのに、2人からはいつも金額不足を言ってきましたので。
 私にとってもアフリカはチャドしか知らないので、他のアフリカの国を知るよい機会になりました。しかし、ヤウンデでは初日からタクシーのストに出会い大変でした。ヤウンデは長崎市のように坂道が多く、共通の交通手段はタクシーしかありませんでした。チャドは平坦ですからバイクのタクシーもありますし、自転車が増えてきているくらいですから、これには驚きました。幸いに出会った宣教師の方々の善意でカトリック看護学校に行けました。
 校長のシスターにお目にかかって問題はすぐに解決しました。2人の学生は、いろいろな困難に遭ったようですが元気でした。奨学金を受け入れた時に、困難も受け入れるように助言していましたので、不満の爆発にはなりませんでした。カトリック学校ということもあったでしょうが、忍耐強くこの2人を預かっていてくれました。すでに最初の3か月で試験の成績を満たさなかった10人の学生が放校になっていました。2人の手紙でそれは知っていましたが、10人全部がチャド人だったので、2人は偏見のようなものを感じていたようです。私はチャドの教育水準が低いと聞いていましたし、他の国へ留学しても、勉学についていけない状況を知っていましたので、驚きはしませんでした。しかし、2人にとっては民族の違いが恐かったようです。何年か前にチャドの首都ンジャメナでカメルーン人の学生の排斥運動がありました。アフリカの大きな奥の深い問題です。
 正直にいえば、奨学金を与えることには今まで躊藷していました。これまで何人かの奨学生が戻ってこなかったのを聞いていましたし、むずかしいとしか考えていませんでしたから。私にとっても勇気のいる決定でした。しかし、診療所のスタッフの平均年令が上がり、世代交代は優先課題となりました。チャド国内にも看護学校はありますが、国家免状の看護師になるには7年かかります。7年前から挑戦してきましたが、いつも失敗に終わりました。成績の問題もあったのですが、国内の情報網に困難があって、連絡不十分の面もありました。
 このような状況のもと、先日、フランスの総本部から、私の申請が通って支援する会から援助金が送金されてきたと連絡がありました。ありがとうございました。これで安心して2人の学生の将来を見守っていけます。診療所の関係者もこのニュースを聞けば大喜びすることでしょう。心から感謝申し上げます。
 昨年、2003年度の決算は赤字でした。予定額の2倍の送金をしたことが一つの原因でした。今年からは診療所の資金には関わってきませんから安心です。送金額が2倍になったのは、送金先がすぐに看護学校に転送してくれなかったことが原因でした。送金された金額は、学年度末まで十分に足りることが分かりました。
 地元だけの力ではこのような奨学金を賄って学生を送り出すことはできません。将来を考えてのこの計画が、順調に進んでくれること願っています。2人の奨学生はカトリックです。このことを通じて人間的にも信仰面においても成長するように祈っています。チャドの教会もまた、リーダーシップを持った人材を待っています。最後にもう一度お礼を申し上げます。ありがとうございました。






『野菜の収穫が楽しみ』

〜チャド(ライ)〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 大和ひろみ

 今日、『きずな87号』の座談会で事務局の皆様のお顔を拝見し、いつも私たちのためにお働きいただき、支えてくださっていることに改めて感謝申し上げます。
 こちらライは3、4、5月の猛暑が過ぎて雨季に入りました。すぐ横を流れるロゴーヌ河は日に日に水かさが増して、昨日は8頑のカバが泳いでいたそうです。今年は順調に雨が降り始め、お米の産地であるライの人々は大喜びをしています。2週間前に日本のキュウリとトウモロコシの種蒔きをしました。本葉が出て20cmくらいになり添え木をしました。Sr.三宅が残してくれた園芸の本を見ながら、実のなるのを楽しみに待っています。気温は昼間は30度を超しますが、適当に風も吹いてとても過ごしやすくなりました。
 ンジャメナのSr.有薗が休暇中で、こちらから順番に手伝いに行っています。宿泊センターは出入国するミッショネールやセッションなどでいつもたくさんの人が宿泊し、人手が足りません。私たちもこの長い夏休みには、普段できないことやたまっていることをやりながら、いろいろな体験をしてしています。雨季の旅行は天候を見ながら、途中で雨が降ると3時間の足留めに遭います。そして、溜他のような、川のように流れている水の中を、泥にタイヤを取られながら走ります。トヨタの四輪駆動と名運転のおかげで、いつも体は自動マッサージ付で快適な?旅をしています。どこに宿泊しても「さようなら」をするとき、ベッドの片付けをしないで行きます。なぜならどんなことで舞い戻ってくるかわかりませんから。秒刻みで走っている日本の乗り物、旅行では想像もっかないでしょうね。






『グラース洋裁学校』

〜コートジボアール(サンフラ)〜
クリスト・ロア宣教修道女会 勝ひとみ

 いつもお世話になっております。昨年9月に援助していただきました「サンフラ・グラース洋裁学校」についてご報告いたします。現在私はダブー図書館に移っておりますが、後任のカナダ人のベテランシスター、Sr.マリ・ポール・ブードローが責任者となって、彼女の40年間のコンゴでの経験を生かし、援助金を無駄なく有効に使ってくれています。数台のミシンといろいろな物品を購入し、1クラス立ち上げることができ、昨年11月〜今年の7月まで指導する人の給与をまかなうことができました。今のところ7人のママさんたちが通っていますが、皆一生懸命で、その意欲も大変なものです。他にも学校のことを問い合わせたり、新学期には入学を希望する人もあります。Sr.ブードローも心から感謝しております。
 コートジボアールは、戦争でもなければ平和でもない変な緊張が続いており、5月にはとうとう国連軍が「非武装化」の目的でやって来て、首都アビジャンでは軍服姿が目立ちます。2005年には大統領選挙が行なわれますので、ますます緊張状態は高まることでしょう。何事もないよう願っております。今一度、お礼申し上げます。ありがとうございました。








『もう1台発電機があったら…』

〜シエラレオネ(ルンサ)〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子

 『きずな』を楽しく読ませていただきました。こちらから出す手紙はばとんどそちらに到着しているようですが、日本からのものはかなり紛失してしまっています。それで今回、無事『きずな』が到着しましたので喜んでいます。ありがとうございました。
 昨年はかなり健康に恵まれたのですが、今年は雨季に入って調子を崩してしまいました。5月に風邪で高熱、6月にはひどい腸チフスでブラザーの修道院の病院に緊急入院しました。昼夜の点滴とブラザー・ドクターの献身的な介護の結果元気になれました。でも、言うことを聞かないこの患者、熱が下がるまでいないで退院してしまい、その夜、また少し悪くなりました。後悔はしましたがお蔭様で元気になれました。そして7月、新たに今度はマラリア、ぎゃふん!というところです。これもお蔭様で峠を越し、また「ホンダ」にまたがって学校に通っています。
 65歳を過ぎたおばあさんがホンダの三輪車にまたがるとは時代も変ったもの。ルンサの町では私の三輪車を見ますと、皆、子供も大人も笑顔で挨拶してくれますが、川底のような道ですから、うっかりしますと大きな穴に飛び込んでしまいます。そこで愛嬬も適当に振る舞わなければなりません。
 それでも鉄砲の音が聞こえなくなっただけでも本当にうれしいことです。シエラレオネには戦争の後、たくさんのNGOが入りましたが、その多くはダイヤモンドのある東南部に行ってしまい、北部はいつまでも廃嘘のまま残されています。たくさんのNGOがダイヤモンドを目的として入っていたことがわかり、最近、政府はかなり締め出しているそうです。外国から来た人々はドルで物を買うので物価がどんどん高くなり、日本の物価も顔負けの物価高という現象が起きています。
 私の働くセンターでは17歳から40歳までの女性たちが職業訓練を受けています。平均年齢は23才位です。ほとんどが極貧の家庭から来ていて、家庭や家族すら持っていない娘もかなりいます。つまり、この戦争で反乱兵士に捕われ、森の中の生活を強いられ、彼らの食事作り、そして性の奴隷となった娘たちです。子供を生まされたり、性病にかかったり、今でもこの治療のため病院に通いながら勉強にきている生徒も何人かいます。彼女たちは家族にも見放され、一人で生活しています。ある娘は自分の目の前で両親が無残に殺されました。このような苦しい過去を持っている生徒がほとんどです。何人かの生徒は結婚しています。その他、貧しくて学校に行けなかった生徒が基礎科の生徒として、中学中退した生徒が洋裁、家政科に、そして高校卒、あるいは中退の生徒が商業科で学んでいます。ほとんどの生徒が教育費を払えません。そこで私はこの生徒たち少なくとも100名を助けましょうと、いま世界中の知人・友人に里親になってくれないかとお願いしています。年間1人約8千から1万円かかりますが、これを3年間お願いしています。昨年は35名くらい里親になっていただきました。おちこぼれの生徒の里親なのでなかなかみつかりません。でも神様に信頼しながらがんばっています。お祈りくださいませ。
 一昨年いただいた発電機と印刷機は本当にすばらしい働きをしてくれています。小学校、中学校、高等学校、そしてセンターの試験などは皆これでさばいています。電気も皆が恩恵をこうむっています。しかし最近、問題が出ました。というのは、私たちの職業校は新しい敷地に移しましたので、そこまでこの発電機は届かなくなってしまったのです。これは私がいただきましたから失礼、と持って行くわけにはいきません。そうしますと、小学校、中学、高校、修道院から教員住宅まで電気なしになってしまいます。センターはいろいろと電気が必要です。どこからか発電機をいただけるよういろいろとあたりながら、神様に祈っています。






『アジア』






『プノン・タラオムでの活動報告』

〜カンボジア(シェムリアップ)〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 黒岩あつ子 樫野寿美子 園田国子

【子供たちの栄養・健康管理】
 昨年6月、援助金をいただいて始めた栄養・健康管理のプログラムの一つ、「ボボー(カンボジアのお粥)」の供給活動が始まってから1年が過ぎました。栄養・健康のことを考えて、肉や卵、野菜をたくさん入れますので、当初、子供たちにはなじみの薄いものでした。今では皆大好きで、「ボボーピセー(特別なお粥)」と呼ばれるようになり、子供たちは競争のようにしてお代わりを求めるようになりました。
 また、11月から始めたミルク(豆乳)も大変人気があります。ミルクはきれいなカラーのコップを使って飲むので飲みやすく、何度もお代わりをしています。誰が何度お代わりをしたかわからなくなるくらいです。後でわかったことですが、それぞれが大小さまざまのペットボトルを持ってきていて、お代わりの分を入れているのです。残ったものを家に持ち帰るのはかまわないのですが、不公平になるといけないので、どのように配るのがよいかと頑をひねっています。

【家庭訪問】
 私たちは2人一組になって二組で家庭訪問を始めて1年が経過しました。一組は活動の場であるセンター周辺と小学校周辺、もう一組はトンレサップ湖沿いの家々を訪問します。カンボジア人の青年が通訳と記録をしてくれます。これまで150軒くらいの家庭を訪問しました。大家族は12名前後です。家には家番号が付けられ,家庭調査票があります。
 ほとんどの家庭はどんな状態でも、私たちを喜んで迎えてくれます。とりわけ子供たちは早く来てほしいと待っているようです。先日、ある家庭の母親がボロボロと涙をこぼすので聞いたところ、母親は毎日1時に起き、トンレサップ湖で魚をとって売っており、6時に父親が出かけた後は、15歳でまだ4年生の長女が、10歳、7歳、4歳の弟たちの面倒をみてから学校に行き、休み時間には家に戻ってご飯を炊いてから、また学校に行くという毎日で、かわいそうでたまらないと、泣いていたのです。訪問によって現状を知り、どうしたらよいか考え、具体的な援助を少しずつ始めているところです。




【衛生教育】
 紙芝居のように絵に描いて、現地のスタッフに説明してもらいます。まず、手を洗うことから始めましたが、皆がわれ先に争って手を出しますので、洗うどころではありませんでした。今は列を作ること、順番を待つことが少しずつできるようになり、それに伴って子供たちが落ち着いてきています。
 乾季は暑いので、喜んでシャワーをしています。一度に100〜130人くらいの子供たちがやって来ますので、井戸水をポリバケツや水槽に水を満たすのが大変です。男の子がよく手伝ってくれます。ここではサンダルを履く余裕がないので、裸足の子が多く、生傷が絶えません。近頃は自転車(いっぺんに何人も乗りますので)に乗って挟まれて、足首の怪我が多くなりました。時には皮膚がえぐられて、ひどい子もいます。
 これまで病気を中心に衛生教育をしてきましたが、現在は子供の暴力的なところが目についてきて、スタッフと相談しながら内容も少しずつ変化させています。
 いつもいろいろな形で皆様からご支援をいただき、心から感謝申し上げます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。








『ヨーロッパ』






『夏のアシジは錬成会の季節』

〜イタリア(アシジ)〜
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 瀧憲志

 アシジのあるウンプリア平原は今、切り株の残った麦畑、トウモロコシ畑がそれぞれの色合いの自然美を競って、目を楽しませてくれています。季節の循環に伴って、自然は「神の創造のみ業」を賛美するのに、「神の似姿(イコン)」である人間だけが、どうして醜い争いをいつまでも続けるんでしょうね。
 イタリアの学校は6月末から夏期休暇に入っています。アシジの大神学校では、青少年の鎌成会を催します。7月は14歳〜16歳までの少年対象に4組、8月は17歳〜30歳までの青年を対象に4組、どちらも月曜日の午後から土曜日の朝8時のミサまでの5泊6日の日程で行なわれますが、毎回100名以上の青少年が参加しています。
 少年の錬成会には青年がアシスタントとして奉仕しています。参加者やボランティアの中から、司祭職や修道生活への召命も芽生えています。環境にはとても恵まれています。大神学校の教室や修道院のチャペルを、祈りや要理教育また食事の場にも使用していること、聖フランシスコ緑の地(ポルチウンコラ、サン・ダミアーノ、エレモ・デ・カルチェリ、サンク・キアーラなど)を徒歩で巡礼できることです。就寝前には聖堂前の広場でゲーム(主に、ゼスチア交えての歌遊び:結びに聖歌と祈り)をして1日を締めくくっています。
 また、8月31日から9月4日までは青少年司牧・召命養成委員会主催の「第7回国内青年大会in アシジ」が開催されます。このようにアシジでは、世界から訪れる巡礼者や観光客への奉仕だけでなく、修道院の施設を提供して若者たちの信仰養成のお世話もしています。ほかにも、クリスマス前や復活祭のころ、また年末年始にかけては婚約者のグループや新婚のカップルのための錬成会もあります。夏もアシジを訪れる人は絶えません。






『オセアニア』






『ソロモンの住宅』

〜ソロモン諸島(テテレ)〜
サレジオ会 飯田徹

 日本は暑い日が続いていると思います。こちらソロモンは熱帯に在りながら熱帯夜などはなく、過ごしやく助かっています。今回はソロモンの住宅についてお知らせしましょう。
 首都のホニアラには鉄筋コンクリート5階建て程度のビルディングもあり、工場などは鉄骨トタン張りの建物など見られます。市街地の住宅は木造あるいはコンクリートブロック積みトタン屋根の平屋建てがほとんどで、2階建ては少数です。村落部では、木造トタン屋根の家屋もありますが、ほとんどが丸太で骨組みをしたものにニッパ椰子の葉で屋根を葺き、竹を割ったものや郁子の葉で周囲を囲んだだけの家屋が主流です。周囲を板で囲んだ場合は窓があり、といってもガラスはなく、跳ね上げ式の戸がついているのですが、明かり取りになっています。しかし、そうでないものは出入り口だけが明かり取りで、室内は薄暗いです。
 気温が25度より下がることが稀なので、住宅は雨露がしのげればよく、防寒保温を考える必要がなく、夜寝るためと雨宿りするための家が多いです。天気のよい日は風通しのよい木陰でのんびり過ごすのが、村落部におけるソロモンスタイルのようです。
 また、湿気のせいか暑さのせいかわかりませんが、どの住宅も1〜2mくらいの高床式で、床は切り出したままカンナをかけていない板張りです。表面はぎらつき、凸凹もあり、ゴミもたまりやすくなっていますが、多くの場合椰子の葉で編んだゴザを敷いて、着の身着のままで寝ているようです。室内には家具といったものはなく、よくてベッド用の木の台とスポンジマットレスと蚊帳があるくらいです。床下は物置になっていますが、いつか何かに利用できるかもしれないゴミが置いてあるだけです。
 ソロモンの人々にとって雨漏りの心配のないトタン屋根は憧れの的のようです。しかし、テテレ小教区内のある集落では、聖堂以外はトタン屋根の住宅は見られないというのが実情です。








『南米』






『ミカエラの家の女性たち−A』

〜ペルー(リマ)〜
礼拝会 川俣恭子

 こちらリマでは例年にない寒い冬を迎えています。毎日のように霧雨が降って、地面はぐっしょりと濡れ、ジメッとした寒さが身に凍みる毎日です。夜中に寒くて眼が覚めると、ムシロ小屋に住んでいる貧しい人達が、どんな思いでこの寒い夜を過ごしているかしらと考えると眠れなくなってしまいます。本当に、本当に可哀そうです。
 先日、『きずな』をありがとうございました。いつも封を開けるのが待ちきれないくらい、とても楽しみにして待っているのです。世界の各地で働いていらっしゃる皆様のお便りを読むと、とっても慰められて力が湧いてくるのです。今号の座談会はとても良い企画でしたネ。興味深く読ませていただきました。
 また、私の拙文も載せていただきありがとうございました。ペルーの貧しい人々の現状を分かっていただき、祈っていただけたらうれしいのですが。本当に祈りが必要です。この果てしない貧困を前にして、小さな私たちの努力が何だかとっても虚しく思える時があるのですヨ。そんな時は祈りだけが私に慰めと希望を与えてくれます。
 今日も夕方6時のミサの帰りに、街角の暗がりに立っているロクサナに出会いました。口紅を真っ赤に塗って、赤いミニスカートをはいて、寒さの中に立っていました。6時まで、「ミカエラの家」で美容師の訓練を受けていたのですが、その後、何処で変身したのでしょうか?3人の子供を育てるためには、こうしてお金を得る方法しかないのです。バツが悪そうだったので、私の方から近づいて「ロクサナ働いているのネ。寒くない?」と声をかけたら、「仕方ない。これが人生だから」と悲しそうに笑いました。「可哀そうに」と言って、しっかり抱きしめてあげました。
 ロクサナは、「私の家の近くには美容院がないのよ。だから美容師の技術を習って、私の家で開業したいの。それが夢なの」と言って、熱心に通って来ています。5月の自分の誕生日にはケーキとコーラを買ってきて、皆に振る舞いました。「私は生涯で一度も誕生日を皆に祝ってもらったことがないの。一度でいいから、皆から”おめでとう”って言ってもらいたかったの」と顔を輝かせて言っていました。どうぞこのロクサナのためにもお祈りくださいませ。






『神の愛に包まれて25周年』

〜ブラジル(アモレイラ)〜
長崎純心聖母会 堂園みつこ

 冬にしては境かい6月20日(日)、司教様はじめ3人の神父様方の共同司式で、セントロ・コムニクーリオ(共同体センター)25周年の感謝のミサが行なわれました。3か月間練習してきた子供たちの聖歌隊は、オルガニストのソフトな声と共に皆さんの感心の的となりました。心配していた雨、風もなく在園生、卒園生で典礼を盛り上げて無事修了。会場を町営リゾートに移して祝賀会。セントロのビデオを鑑賞してサンドイッチとケーキでお祝いしました。
 なるべく多くの人々と喜びを分かち合いたくて、いろいろなグループに協力をお願いしました。サンドイッチ600人分は有志グループ、ケーキは日系カトリックの皆さん、ビデオは青年会、飾り付けは中高生会、ジュースはスーパーにとお願いし、それぞれ喜んで準備してくださいま、した。この式典に先立ち、日本から創立者マルゴット神父様の関係の方々が6名、お祝いにいらっしゃいました。
 ごミサの後、司教様が子供たちを祝福してくださいました。とてもうれしかったです。準備の段階で、もし雨が降ったら、もし食べ物が不足したら、もし…、もし…、と心配していましたら、ある信徒の方から「神様が一番よくご存じでしょう」と言われ、反省しました。今は天におられるマルゴット神父様がすべてを準備してくださったようでした。
 6月29日の創立記念日には、待望のユニフォームが町から届くというおまけもありました。理事長の主任神父様も交代され、また新たな歩みに入りましたが、マルゴット神父様がセントロコムニターリオと名づけられた意向を大切にして、これからも地元の方々と一緒に歩いていきたいと願っております。








『移民・入植50周年』

〜ボリビア(サンタクルス)〜
サレジアン・シスターズ 山口多香子

 皆様にはその後お変わりございませんか?日本は厳しい暑い夏とのこと、くれぐれもお身体を大切に。
 ボリビアに帰りまして、直ぐ活動開始で、あっちこっち飛び回っています。日本の恩人の方々からご支援をいただきましたことも、皆で感謝いたしました。
 ボリビアは冬休みですが、アンデス山脈系にあるポトンやラパス、コチャバンパの町は、人々は雪や氷で寒い寒いと言っていますが、サンタクルス州は亜熱帯なので、日中は200℃を超します。といっても朝晩は冷えます。
 最近は日系の方々の老齢化に伴い、色々考えなければならないことが多々あるようです。でも、今年は8月15日のコロニア・オキナワ移民50周年の祝いに向けて、皆ハッスルしています。そして、来年はサン・ファン入植50周年です。数々の苦労の上に今がございますので、単に行事がうまく行くだけでなく、過去50年の人と事柄に神の祝福といつくしみとねぎらいを、毎日祈り求めております。