『アフリカ』『“受入れ”を期待するのでなく』マリアの宣教者フランシスコ修道会 黒田 小夜子
6月30日、ブルキナ・ファソから帰国しました。今年で、「会」が創立20周年とのこと、実は、私も海外に派遣されてから20年です。
21年前、初めて日本を出発する時故梶川神父様が企画された海外宣教者のためのセッションに参加した時のことを思い出します。 このセッションは、神父様が指導や勧めをされるのではなく、“分かち合い”の方法で、インター修道会シスター15人位の参加でした。この時、「派遣された国で受入れられない場合、どうするか?」というテーマが出されました。私は「受入れ次第で行くのではありません」と言いました。神父様は「そういう答えもあります。」と言われました。長々と討論した末、「受入れられることを期待するのではなく、イエズス・キリストが、私をこの国に、この人々に派遣されたという確信が第一で、後の事は、すべて、キリストがなさる」という結論を皆で出しました。 私はその時40歳でした。「私は若く力に漲っています。誰もが、当然直面するであろう困難にたやすく打ち負けないだろうと思います。 マリ・ド・ラ・パッション(マリアの宣教者フランシスコ修道会創立者)の娘として、今、派遣されることを大変誇りに思っています。」と日記に書いていました。20年経った今、海外宣教者にとって、一番の理解者、心の支えであった梶川神父様には、もう会えません。 しかし、神父様のお陰で、私は宣教地で生かされました。また、生かされています。 海外宣教者としての、この喜びを頂いているのも、ひとえに「きずな」の皆様の20年間のお祈りとご援助の実りに支えられてのことです。これからもどうぞご活躍下さるようお願い致し、祈っています。 2002年7月5日
『Sr永瀬小夜子安らかにおやすみ下さい』同会では、チャドでの宣教事情を多くの人々に知ってもらうため、随時「チャドの兄弟たち」というニュースレターを発行していますが、その5月号で「シスター永瀬の思い出」を特集しているので、同会のご了解を得て引用、転載させて頂きます。チャドの人々を愛し、全てを与え尽くしたシスター永瀬へ感謝の思いを捧げながら・・・・・。 ショファイユの幼きイエズス修道会は、1988年1月からチャド・ンジャメナ教区立宿泊センターの運営を引き受けました。 シスター永瀬は経理面の責任者としてチャドに着任以来帰天の日まで全力を挙げてセンターの立て直しに取り組み、14年4ヶ月の日々、このセンターを通過した人々に仕えながら、主の愛の証人としての任務を果たしました。 シスター永瀬の突然の帰天は、チャドの教会全体にとって大きな衝撃でした。 チャドのローカル・ラジオがその訃報を伝え、多くの人々が、彼女との別れを悲しみました。 4月9日、教会での通夜の式には約500人の人々が集まり、タムタムを叩き、バラフォンを奏でながら、2時間半の祈りが捧げられました。 4月10日朝6時半、キリスト教教育修士会の冷凍室に安置されていたご遺体の納棺が行われ、司祭、修道者達に守られながらご遺体は、宿泊センターの真向かいにあるカトリック・カバライ教会に向かいました。 4月10日午前7時30分から、シャルル・ヴァンダム・ンジャメナ大司教司式、24名の司祭達による葬儀ミサが行われました。 大司教は「あなた達は腰に帯をしめ、灯を灯していなさい。あなた達は主人が結婚の披露宴から帰って来て、戸を叩く時直ぐに開けようと待っている人のようにしなさい。あなた達も用意していなさい。思わぬ時に人の子は来るからである。(ルカ12・35〜40)」と説教なさいました。 シスター永瀬は、外見は健康そうで、揺るぎない岩のように映って居ました。 ところが、私達が思いもかけない時に、人の子は、シスターを迎えに来られました。確かにシスターは準備が出来ていました。毎日、其処に立って旅行者を迎えていました。シスターは旅人を迎えながら、イエズス・キリストを迎えていることを知っていました。主がおん自ら、不意にやって来られ、シスターの戸を叩かれ時、シスターは主を迎える準備が出来ていました。 葬儀ミサに引き続いて行われた告別式では、1000人以上もの信徒が涙と共に、シスター永瀬に別れを惜しみ、ご遺体はカバライ教会を後にし、ンジャメナ教区墓地に着き、埋葬の祈りが捧げられ、修道会の会員達が最後のお別れをしました。そして、聖ルカ大神学校の学生と聖歌隊員達の手によって、棺は炎天下のチャドの大地に、埋葬されました。 シスター永瀬 小夜子、あなたが愛し、人々とともに生き、生涯を通して主とともに在ったチャドの大地で、安らかにおやすみ下さい。 葬儀ミサ 柩は墓地へ 埋葬前〜最後のお別れ 埋葬 墓前式〜み魂よ、永遠に〜 『追悼シスター永瀬』マリアの御心会 野間 順子
日本の梅雨、紫陽花で有名な名月院の花の美しさを想像しています。
この度、「きずな」79号により、Sr永瀬の急死を知り、驚きのうちに宣教の地でご帰天なさいました彼女の、宣教に捧げ尽くされたお姿を私の心のうちに深く刻み込み、ご冥福を心からお祈り申し上げます。 私はSr永瀬を直接存じ上げなかったのですが、こちらのイエズス会の神父様(チャド人)から度々、彼女のチャドでの愛と奉仕に尽くされているお話を伺っており、シスターを身近に感じておりました。この神父様は2年前から、私が働いている家政センター(ブルキナファソ)に黙想指導に来て下さっていますが、彼がSr永瀬の追想分を記されましたので、訳したものをお送りします。 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―― ― ― ― ― 黙想者達にキリストの復活について話そうとしている時、Sr 野間からシスター永瀬のご帰天を知らされました。ご冥福を心からお祈り申し上げます。彼女を知る人々にとって、どんな苦しみでしょう。キリストの復活を信じる私たちにとって、彼女の死は永遠の生命への門出です。 人々への奉仕と注意深い、愛と微笑みの絶えないSr 永瀬の姿はセンターを訪れた人々の心の中に深く刻み込まれています。 あなたの愛した土地、チャドでの死は、召命の実りをもたらすことでしょう。安らかに私たちのために祈って下さい。 ゲワジム・ロベール神父
『4年ぶりに見たシェラレオネの現状』御聖体の宣教クララ修道会 根岸 美智子
私は20日間の調査を終えてシェラレオネから4月24日にローマに戻りました。
4年ぶりに見たシェラレオネの様子をお伝えします。 4月4日、ローマを発ち、途中飛行機を乗り継ぎ、翌朝シェラレオネのルンギ空港に着きました。空港は破壊され、修理中でした。 ヘリコプターに乗り、約10分後、私たちは、湾の反対側にあるフリータウンに到着しました。マウリシオ神父の出迎え、久しぶりの再会で大喜びでした。私たちはヨゼフ会の修道院でミサに与ることが出来ました。フリータウンのヨゼフ会は、一度は反乱軍に入られ、全て略奪されましたが、その期間は短かったので、被害はそれほどではなく、全て、以前のようになり、職業センターなどは機械や設備なども整った美しい、職業センターになっていました。印刷工場は、国一番を誇り、近代的なものとなり、国の書類の印刷、教科書、ノートまで製作しています。ここの職業センターには既に50台のコンピュータが備えてあり、秘書科の学生が学んでいました。シェラレオネも変わったなと思いました。 街で沢山の家が焼け崩れたままになっているのも印象的でした。フリータウン自体には、沢山のNGO、国連関係者が居り、これらの人々を対象にした大きなスーパーマーケットが4つも出来、品物も豊富で、欲しい物は何でも手に入る―これが(かっての)シェラレオネか―と思う程でした。しかし、この店に入れるのは、殆ど外人とほんの少しのエリートシェラレオネ人だけで、殆どのシェラレオネ人にとっては関係のないお店なのです。彼らにとって、この日の一食をどうして得るかが問題なのです。 モーリタウンという所に難民キャンプがあります。そこにマウリシオ神父様が毎日出掛けます。人々は土の上にゴザを敷いただけで寝る、トタン屋根だけの貧しい小屋で、其処に手足を切られ、耳や目をえぐられた人たちとその家族が住んでいます。神父様が車から下りると、子供たちが「マウリシオ、マウリシオ」と叫んで集まって来ます。汚れた子供たち一人一人にキスして、抱き上げ愛撫する神父様の姿は、本当に、父親そのものでした。美しい娘が駆け寄って来ました。彼女は両手がありませんでした。 反乱軍は、両手を縛って暴行を加え、最後に両手を切ってしまったのだそうです。明るく微笑み、一緒に写真撮る時に、彼女は上手に、自分のない手を隠して写っていました。食事ひとつ自分で出来ないこれらの人々の将来を思うと、心がえぐられる思いです。 フリータウンは電気も電話もある世界ですが、車に乗って北部シェラレオネに入ると、正に、原始時代に戻ります。4年ぶりに見るルンサ。マケニは反乱軍の本拠地でもあり、沢山の叛乱兵が武器こそ捨てたが、そこに住んでいます。ルンサの街に入りますと、私たちを見た人々は、「ワアーッ」と歓声の声を上げ、踊り出し、歌い踊りの大歓迎になりました。彼らの顔は堪えて来た苦しみにひきつり、「家族は?」と聞きますと、涙ながらに「自分たちがどう生きて来たか」を話してくれました。 「シスターもう行かないで!」「一緒に居てください」と皆、口々に強調し、文部省の幹部(Education Officer) まで、私が年齢がもう定年を過ぎていると言いますと、「管理者には定年はないから」と私に薦めていました。私も心らから戻りたい。苦しんだ人々と共に、苦しみを分かち合いたいのです。 修道院と小学校は反乱軍の住まいとなっていたので、1999年、エコモ(アフリカ連合軍)の攻撃を空から受け、爆弾が幾度も落ち、聖堂や教室にも大きな傷跡を残していました。屋根も無数の弾丸の跡、穴が空き、このままでは雨が筒抜けで住めませんし、お手洗い、シャワー室、台所の流し、全てはぎ取られています。神父様が一生懸命、階下の部分だけでも修理して、今年は数人のシスターが住めるように、修理して下さることになっています。 反乱軍に手を切られたチルドレン・ホームの少年少女たち 『南米』『新しいプロジェクトに向かって』サレジアン・シスターズ 山口 多香子
まだ寒かった日本を3月14日に出発し、2日間に近い旅を終えて、南米の真ん中に位置するボリビア共和国のモンテッロの修道院に着きました。汗がポタポタの暑さでした。
到着した翌日からスケジュール一杯の視察、話し合い、検討で、10年前のプロジェクト、即ち日系の方々のために働くことから、更に教会とともに、真の意味でのボリビアの人々への信仰教育へと広く、深く新しいプロジェクトの立て直しが必要となりました。日系3人のシスターの責任が大きくなり、改めて心を引き締めています。 4カ所で働く私どもの2002年から新しいプロジェクトを報告させて頂きます。 1.コロニア沖縄ではミゲル主任神父をはじめ4人のシスターを含め6人が家庭訪問、信者の発掘、聖書、信仰教育、コロニアの聖フランシスコ学院の子供たちのための教材作り等に当たっています。 2.モンテッロ修道院をベースにした活動ではバリオ・ドンボスコ(貧しい人の仕事養成所)セントロ・メディコ(貧しい人々の診療所)寮生と日系子女の信仰教育、その教材の制作などが主な活動です。 3.サンタ・クルス市内では、日系カトリック婦人会のための家「カーサ・モニカ」をベースにシスター2人が家庭訪問、信仰講話、信仰教育、手芸、工芸などの文化教室などを指導しています。 4.サンファン移住地が一番変わりました。過去25年間の長きにわたり、ボリビアに尽くされた礼拝会がサンファンから移転され、サンタ・クルスに赴かれることになり、急遽、私どものサレジアン・シスターズに委託されました。さし当たって私共3人ででき得る限りのことをしなければなりません。到着の翌日には、サンファンの信者会の役員の方々との話し合いが行われ、礼拝会のシスター方も来られ、忌憚のない話し合いができました。これからのプランとしては、サンファン移住地から12キロの中心地のカトリック信者会館の一部屋を借用し、活動の拠点とする。ヤバカニの修道院を支部として、Sr 小浜が写る。Sr 漢那は週1回、日中は文化教室、夜はロザリオ会を開く。Sr 山口は2人のシスターのアシスタントや宗教教育、家庭訪問をする等々です。 サンファン移住地については、礼拝会の仕事をそのまま引き継いだため、かなり仕事量が増え、これから何回も信者会と修道院関係も考えて話し合い、改良、改善する必要がありと思います。 『名実ともに「自立の家」を目指して』福岡教区 信徒 野原 昭子
3月14日に日本を発ってボリビアへ帰って来ましたが、私が帰って来たと誰が教えた訳でもないのに、早速、障害者自立の家「サン・マルティン・デ・ボーレス」へ入所希望の電話が入り、今、6名の患者が入所しています。そのうちの4名は自立を目的に、この家の一室を借りる形での入所です。彼女らは部屋で炊事もし、出来ることは全て普通の人のようにしなければなりません。
この家は、障害者、とくに目の不自由な人や車椅子の人のために改装されているので、彼女たちは他者の援助を受けずに自由に行動できること、また、同じ身体的問題を抱えている人たちなので、精神的に自由な状態で生活できることが利点です。入所費(部屋代)も2人で7ドル(約1000円)と安くしていますが、彼女らの収入は殆どなく、これから身につけた技術を利用して作品を作り、売りながら生活費を稼ごうとしているので、その点で、それを売ってあげる等の協力が必要になると思います。 他の2人は、近く、骨の手術を受けるためにベニ州から来た青年達です。そのうちの1人は21歳で腰骨、膝骨、足首骨が何かの原因でこの5年間にくっついて、あたかも1つの骨のようになってしまい、曲がりません。3カ所の手術のために多額の費用がかかるようで、なんとか手術させたいと思います。「会」からも援助を頂き、3名の方(リハビリ男性、7児の母の貧困婦人(炊事係)、車椅子男性(共同管理))を雇い、新しい活動が開始されました。 今まで屋根の無かったリハビリ施設(屋根のない家など日本では考えられませんが)にも、屋根が取り付けられました。そこで、障害者達がそれぞれ習得した技術を使って作品を作り、それを売り出すことも計画されています。 このように、この「自立の家」の名前が少しずつ本当に自立を助けるために成長しようとしています。 『隣国アルゼンチンの不況の波がパラグアイに』聖霊奉侍布教修道女会 林 静子
日本のカレンダー頂きました。「わらべ」カレンダーは早速、幼稚園の廊下の黒板に貼りました。日本の情緒たっぷりの挿絵がとても懐かしく思いました。今日、エンカルナシオンに参りましたら、日白協会発行の「オリゾンテ」が届いており、パニプ通信の中に、「5月7日にマリンガの幼稚園の落成式があり、日本から田村神父様、八幡とも子様等8人の方々が出席された」と書かれていました。私も今年一杯はラパスの幼稚園で働いています。今年から聖霊幼稚園が日本人会付属幼稚園になりました。園舎は、そのまま使っており、日本人会長さんの許可を得て、朝礼の時のお祈りや聖歌はそのままです。5月は聖母月でしたので毎夕マリア様の御像を各戸に運び、ロザリオを唱え、み言葉の分かち合いをしました。
今、小麦の蒔きつけの季節です。少し早く蒔いた麦は青々としています。 パラグアイでは今、隣国アルゼンチンの不況の波がパラグアイにも押し寄せ、経済的には、苦しくなりました。此処は農村地帯ですから、自給自足出来るのでまだ良い方ですが、アルゼンチンでは栄養失調の赤ちゃんが生まれ、仕事がない家庭では、食物にも事欠く有り様です。 『新しい使徒職へ』礼拝会 川俣 恭子
私は今、ペルーのリマに引っ越して来ております。23年間にわたるサンファンでの礼拝会の仕事を終え、サレジアン・シスターズに引継ぎ、4月24日にペルーのリマに着きました。現在のリマは真冬の気候だそうで、昼間、室内の温度は18度位ですが、湿度はいつも80%以上あって、とても寒く感じます。
私の住んでいる所はリマ市のど真ん中ですが、学生の多い地域なので割合静かで、住みやすい環境です。古い事務所を買って修理し、今年2月にオープンしたばかりの「売春少女達のための職業訓練所」です。一階で「パンとお菓子」「コンピューター」「洋裁と工業用ミシン」を教えています。「聖マリア・ミカエラのパン屋」という聖女がビックリするような名前の小さなパンとお菓子の店も先日開店しました。 一階には二人の少女たちが寄宿しています。危険な仕事から立ち直り、訓練を受けてパン焼きの手伝いをしています。「リマの娘」たちは17、18歳から20代の若い娘が多く、たいていは1人か2人の幼児を抱えている「見捨てられた母親」です。子供を育てるため、仕方なく、身体を売っている例が多いのです。私は週に1、2回ソーシャルワーカーの婦人と一緒に街に出掛け、彼女たちに話しかけて、パンフレットを渡し、訓練所に誘って来る仕事をしています。他に仕事があれば止めたいと思っている彼女たちの1人、2人でも立ち直れば、大成功と思います。 『入り口10mだけの舗装の謎?』長崎純心聖母会 堂園 みつ子
「老人の家」では、天井の梁やペンキ塗りの申請を出していますが、今年は選挙の年でもあり可能性があります。3ヶ所の入り口が10mだけセメントになり、雨の日の出入りが楽になりました。どうして10mだけかと言えば、町役場が「老人の家」の周りを舗装していたので(私達には何の連絡もなしに)「救急車が直ぐに入れるように」「車椅子の人が自由に歩けるように」と走って(舗装を)頼みに行きました。その答えが「10m」なのです。
また、今年は、2組のカップルが誕生しました。1組は女性が引っ越して来て、他の1組は、妻を亡くしたおじいさんが、1カ月もしないうちに同じ「老人の家」のおばあさんと一緒になりました。 先日、ブラジルのジャーナリスト、Tim・Lopesが、取材中、麻薬関係者に捕まり、拷問、殺害されるという事件がありました。 麻薬売買と未成年売春についてのリポート中でした。かなり有名なジャーナリストだったので、外国からの反響も大きく、ブラジル政府に徹底した事件調査を要求しています。世界中で年間200〜300人のジャーナリストが殉職しています。Tim・Lopesは人間の尊厳について訴えていました。貧民街で生まれ育った彼だからこそだと思います。 託児所は年長クラスの教室を広げるため壁を取り壊すことになりましたが、お金がないので町役場に何回も足を運びました。 子供達の教育内容充実に努力しています。 医師、カウンセリング、言語障害(の子供)等は町が援助してくれます。実際問題として、家庭環境に恵まれていないので、学習意欲が、ほとんどありません。文字や数字に対する関心がありません。しかし、生きていくための力は素晴らしいです。彼らのこの素晴らしさを教育の方向に向けることが出来たら最高なのですが。 『アジア』『雨期前には工事完了、患者を新館へ』御聖体の宣教クララ修道会 服部 麗子
ここ数ヶ月間、(建築のための)会社との交渉、資金集め、会議などでジャカルタ、スラバヤ間を往ったり来たりの繰り返しでした。
ようやく現場での工事のチェックを終わり、先日、建築会社とも合意に達しました。 雨期の前までには(建物の)工事を終わらせて、患者を新館に移したいと願っております。 皆様からご支援頂いたパラマウントベッドは建物の掃除も終わり、部屋が綺麗になるまで会社に置いて貰うことになっております。 『バコロド便り』善きサマリア人修道会 バコロド共同体
私共にとり最近一番嬉しかったことは、フィリピン人の修道会会員が誕生したことです。
新会員Sr レオニー・デュエナスは6月1日、会長、会員、家族、友人の見守る中で、初誓願を宣立いたしました。式は日本語の聖歌、英語、イロン語、タガログ語(フィリピン語)と、正に多文化の交わりでした。 タリサイ・コンセプションでは、3月、4年間の学業を終えた最初の2人の大学奨学生が無事学士号を取得しました。バコロド市内の海沿い地域にあるヘンリエッタ・ビレッジも、奨学金プログラムが始まって4年となり、11名の高校生が卒業いたしました。砂糖黍農園の続くタリサイ・コンセプションへの途中、畑の真ん中に近代的な住宅群が出来ました。バコロド市内でも大きな建物が見られ、市内を走る車も、5、6年前とは比べものにならない程多くの人々の住む不法居住地が幾つも散在するバコロド市、貧しい人々はいつも貧しさの中での生活を強いられています。ボーイズ・ホームの一つのグループは日本の篤志家によって、新しいコテッジが完成し、移ることが出来ました。 体験学習では、昨年度に続き長崎教区神学生、お告げのマリア会のシスター方、ノビス(修練者)の方々の来訪を受け、7月末にはカトリックとは関わりありませんが、長野県下伊那郡喬木村青少年海外派遣団(中高生)を迎えました。 日本では遠い昔に失ってしまった風景、母鶏に連れられて餌をついばむヒヨコの群れ、井戸水を汲み上げ、洗濯板を使っての洗濯など日本では考えられない環境の中で生きている人々と接し、何を感じ、考えたのでしょうか。 最近は、狭い空き地を利用して、野菜を育てている姿を見かけるようになりました。 長年、土地を自由に使えなかった人々にとり大きな進歩だと感じます。豊かな自然に恵まれているネグロス島を再認識し、大切に守る心が育っていくよう願っています。 『アシジの巡礼、今年は少なく』コンベンツアル聖フランシスコ修道会 瀧 憲志
第3の千年紀の2年も夏半ばになりました。今年の日本の夏はいかがだったでしょうか。
こちらイタリア中部のアシジはいまのところ凌ぎやすい日々が続いています。降水量は少なく、快晴の日が続いているにもかかわらず、平原の向こう側の山は、いつも霞んでいます。 アシジを訪れる巡礼団、観光団も今年は例年より今のところ少ないです。今月から、5年前の地震で崩落した天井画の復元作業が始まっています。上部大聖堂の入り口は、作業用の足場が組まれていて、有名なジョットのフレスコ画「フランシスコの小鳥の説教」は、鉄パイプの足場に隠されています。参観者達が、「折角、この絵を見に来たのに」と残念がっています。 ところで、日本の政界は大揺れに揺れているようですね。世界の動きを見ても、政治家達は「21世紀こそ平和の世紀に」と大衆の念願とは逆の方向に進路をとっているようです。最近、また、公海での南北朝鮮の艦隊の戦争ゴッコ(?)など、不穏な動きが始まって、政治家達を益々戦争準備へと駆り立てているような情勢です。一人一人が目覚めて、祈りに支えられた平和運動に立ち上がらねばなりませんね。 |