『海外宣教者と世界性』日本カトリック移住協議会専務理事 梶川宏
この夏には、ロス・アンジェルスのオリンピックが開催されン連や東欧諸国の不参加があってもその他各国の選手たちは日ごろ鍛えたスポーツの力量を真剣に競い、人々は自国の選手に懸命な声援を送っていた。わたしも日本の選手の競技には一喜一憂していた。ふとその時、わたしは「海外の宣教者たちは、どの選手に声援を送っているかなあ。」と思った。日本の選手にか、自分が住んでいる国の選手にか。高校野球でも自分の出身地や住んでいる地方の高校のチームを一生懸命応援している。その熱狂ぶりは所属意識を強め、相手の国や地方の選手や人々との対抗意識を高めていく。たしかにこれは自己の所属意議の強まり、自己の国や地方への愛情の表現であろう。これによって自分や所属するグループのアイデンティティと主体性を確かめることができるのであろう。日本人であるわたしはアメリカ、カナダ、フランス、英国やアフリカ諸国の選手の出場する競技でほとんどが黒人選手であるとき、民族意識や国家意識がなんであるのか不思議に思うのである。他の人々との対抗意識を持つとき、人間は民族・国家・企業・学校・出身地への所属意識を強烈に燃やすようである。内部一致を強めるには外敵を持つとよいともいわれる。しかし、それは時には自己のエゴイズムやグループのエゴイズムにも導きかねない危険性を含んでいないだろうか。現実の世界で、民族意識や国家意識は必要であっても、これを決して絶対化してはならないと思う。政治・経済・文化等の分野での自国の力の誇示となり、小さな弱いものへの優位性を主張するだけになったりすると恐ろしい過去の歴史の影におびえなければならなくなる。 民族主義・国家主義の昂揚が他民族への圧迫となったことはなかったろうか。 海外の宣教者は、異なる民族・国家の現存の中で、民族・国家意識を超えた世界的視野の下に自分と人々とを見ることができる人ではないかと思う。他の国や民族の人々と共に生きると言うことは、自分が持っている国民性や民族性の豊かさや時には貧しさを見つめて、これを絶対化することなくむしろ相対的なものであることを知り、人間であることの価値を第一に見つめることに挑戦することではないかと思う。 日本の教会も自国の教会の発展の責任を感じ、まず自分の教会の活性化を計ろうとする。それは正しいし、まず自分の責任を自覚しないで他者との交流もないであろう。しかし、これが単なる自己の所属意識の昂揚の中だけで活かされるなら、それは一種の国家・民族のエゴイズムの現れだけにはならないだろうか。 日本の教会が海外に宣教者を派遣しているのは、決して自国の教会の力を強めそれを発揮することではなく、むしろ教会が持っている国や民族を超えた真の人間のきずなと愛に目覚めて共に生きることの重要さを表しているものだと思う。 海外宣教者の存在の意味は、国家・民族間の交流International Communication(国際交流)と言うよりも国家・民族を超えた世界的視野の下に神の国における神と人間、人間同志の愛のきずなを強め深めるGlobal Communication(世界交流)ではないかと思う。それは画一的な国家・民族への所属意識ではなく、個性わ成熟であり、総ての人々にとっての世界の回復にまで広がって行くものであろう。 『海外宣教者を支援する会・役員会報告』海外宣教者を支援する会の、第九回役員会が、去る八月二日内午後六時から中央協議会会議室で開かれ、次のような当面の諸問題を、検討した。
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