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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『南米』

ボリビア パラグアイ ペルー ブラジル





『死の準備のお手伝いを』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 山田 雲江
 …私も管区の仕事のかたわら、年老いた方、病人の人達、貧しい人たち、何か問題を抱えて悩み、落ち込んでいる人達を病院に見舞ったり家庭訪問してお世話しています。
 病人の人たちは、殆ど家庭で長いこと家族の手で看病さている人、手術など何かのショックで植物状態になった病人を抱えている家庭では、病人の世話というよりは、この家族の人達と共に祈ったり、話を聞いてあげたりしながら、つながりを保つよう務めています。
 病人の世話では、死に直面しているガンの末期患者の方々の死の準備のお手伝いが、ずっと続いております。
 幸い今日までお世話した家族の方々と、よいつながりを保ち、同じ状態で試練に堪えている人たちのために共に祈ったりしております。






『ザベリオ記念ミサは全員一致協力して』

愛徳カルメル修道女会 高 澄子
 …12月5日、マリンガで行われた聖フランシスコ・ザベリオ来日450年の記念ミサは、すべてのグループが一致協力して、とても素晴らしく実現しました。昨年中、田中神父様がお病気になられ、一同心配しましたが、元気になられて相変らず飛び回っておられます。今週も、お一人で車でサンパウロ市まで、来週は一週間、パラナ州の奥地巡回司牧と、ちっとも、じっとしておられないバイタリティには感心します。






『小雨で農・牧畜に大被害が』

聖霊奉侍布教修道女会 宮入 キワ子
 …こちらは、今年は、非常に雨が少く、国の大部分を占める農業や牧畜業の地域は大きな被害を受け、貧しい農民は、ますます室困に苦しんでいます。それに引換え、国の役人たちの勢力争い、労働組合のストなどで、国のいろいろな機関さえ麻痺したり、一般市民は高い税金を払いながら、必要な世話さえ受けられないでいます。
 貧しい人々の救いのために来られたイエズス様が、2000年後の今日も、同じように、ソッと人々の間にいらっしゃるのでしょうか。
 心と目を開いてそのイエズス様が私達の所へも来て下さいますようにと祈っています。
 現在、私の働いている、この「黙想の家」には、神との出会いを求め、いろいろなグループの人々が来ます。少しづっではありますが、ずっと続いて黙想会や錬成会がありますので休暇も無理です。






『貧しくても明るく暮らす人々』

マリアの宣教者フランシスコ修道会 拾雄 智子
 …こちらのクリスマスは猛暑の中。暑いクリスマスは何回迎えてもなかなか、しっくり来ません。各家庭では、大小さまざまな馬小屋を作り、スイカ、メロン、マンゴ等の季節の果物を供えます。
 人々は、たとえ経済的に貧しくとも、楽しく過ごす術を心得ています。また、ラジオを持っている家庭では、4〜5軒以上先まで聞えるように大きな音を出して、音楽を聞いています。誰が迷惑しようと関係ないようです。
12月24日と31日の夜は、8時過ぎ頃から花火などをして、子供達は道で遊んでいます。
 大人たちは零時になるのを待っています。零時になったら、我先にと爆竹を上げます。バン・バン・バーンと、とてもうるさいですが、こうして25日のクリスマス、1月の正月を迎える習慣です。
 …前回も書きましたが、パラグアイの経済状態は悪化する一方です。私が働いている診療所は貧しい患者さん方を対象としているので、当然、援助が必要になります。いつも貧しい人を援助するという精神を心に留め、出来るかぎりを尽くしていますが、総てにおいて、そう出来るとは限りません。心から日本の皆様のご援助に、感謝しています。このおかげで、一人でも多くの患者さんが治癒し、神様から愛された者として、生活できるようになります。

診療所に薬を貰いに来たインディオの人々
診療所に薬を貰いに来たインディオの人々






『心一つに折り合い』

〜ペルー〜
宮崎カリタス修道女会 一同
 …今年も、心ひとつに折り合い、神の御光栄を目ざして励んで参ります。
 毎年、暖かい励ましの賜物、有難く受け取りました。ありがとうございます。

リマ:シウダーティオスの子供たちと宮崎カリタス修道女会のシスター達−1999年クリスマスに一
リマ:シウダーティオスの子供たちと宮崎カリタス修道女会のシスター達−1999年クリスマスに一






『まがみのペルーだより』

ベリス・メルセス宣教修道女会 真神 シゲ

「大統領選に向かって勉強中」
 教会共同体では4月に行われる大統領選挙に向かって勉強中です。汚職、高失業率、地方分権、司法独立、国民の健康、教育、生活向上への投資、福祉の充実などなど、むずかしい問題、私の興味をかきたてる問題が、提案され話合い聖書をひらいて神のみ旨をさぐり、ああでもないこうでもないと続き、寝てしまう人しゃべりまくる人もいて、みんなで神の国づくりをしていこうと意欲あふれる集会が開かれています。
 りんごをリヤカーに積んで売り歩いているおじちゃんがいるのですが、休むことなく集会に参加して、電話、水道、電気の権利などを他国に売った政府のやり方に大反対、まずどのような理由で売ったのか、受け取った金額は、その金はどのように国民に還元されたのか、この3点をはっきりさせるように一人ひとり積極的に働かなければならない、黙っていてはいけないと訴えて集金を盛り上げています。

「初聖体」
 1月23日(目)、40名の子供達の初聖体。女の子は白いブラウスにグレイのスカート、男の子は白いワイシャツとグレイの長ズボン、全員小6です。要するに学校の制服です。どの学校も同じ制服です。30分遅れの11時半ミサが始
まりました。私は聖歌隊の一員として祭壇の脇にいたのですっかり見ることができました。いたずら坊主たちもとても神妙にしています。手に手に白い花と白いローソク、白いベール、白いリボンと清らかな心を表しています。信仰の神秘に与かった喜びがそれぞれの言葉で表現されて、このすばらしいミサは午後1時に終り、続いて聖堂の地下ホールで昼食がふるまわれました。参列者全員の150人分を修道院で用意しましたのでパーティーをする必要もなくなり、その費用を払えない子供達も初聖体を受けることができてパンパンザイです。
初聖体の準備はシスター・ヨランダがしました。今回はセロの中でも特に貧しい地区、マウタと呼ばれている、セロの頂上の家の子供達が対象でした。マウタはセロのてっぺんなので山登りと同じなのです。週に二回、マウタに通ったヨランダは腰が痛いといっていました。私も2、3回行きましたが、次の日は足がガクガクしていました。
 マウタに住んでいる人たちは一日何回か麓におりてくるわけです。登校、買物、仕事、水汲みなどなど。せめて各家に水道がつきますようにと私は願っています。
 ヨランダはリボンから聖堂の飾り付け、親たちとの話し合い、ゆるしの秘跡の世話、歌の準備にいたるまで勢力的にはたらきました。いろいろとハプニングもありましたが。






『善意により教室の増設へ』

宮崎カリタス修道女会・田中 三子
 大聖年は、恵みと回心の年。聖性を呼びかけられるパパ様のメッセージに励まされて、スラムのバンプローナも新しい目覚めと活気を感じます。
 長年の懸案であった私共の貧しい小教区付属サン・マルティンコート小学校3、4、5、6年用教室の増設が、善意と希望に溢れた人々によって可能になったこと。さらに、この度、「会」より生徒用デスク100と教卓4、共同学習用テーブル10のためのご援助のお知らせが届きました。
 私たちシスター、職員一同、将来バンプローナ、ペルーを担う子供たちに感謝の心、労働の喜び、神と人々を愛し、奉仕するキリスト者、社会人を育てる教育に励みたいと、新しい力を聖霊に祈り求めています。






『経済悪化で悪影響拡がる』

〜ブラジル〜
大阪聖ヨゼフ宣教修道女会・馬場 美保・姉妹一同
 “きずな”を通して、多くの宣教者の大きな困難に向かっての、ご活躍の様子を知らせて頂けるのは、励ましの力、連帯の意識となり、改めて“きずな”となっていくことの大切さを思います。
 ところで、99年度のブラジル経済の混乱は、大陸(日本の24倍)の北端に位置するこの地にも大きく影響しました。
 ここcastanhal市は、私達が到着した頃(8年前)は人口15〜18万と言われていましたが、今は25万に増えています。増えた人口の大半は東北地方の早魅地域、その他は田舎の重しい地域から移り住んで乗た人達のようです。人口の増加と共に失業者、暴力・犯罪の数が増えています。中でも11月に起きた私達の保育所に通う4歳児の父親が殺害された事件は、多くの人々を悲しみと怒りに沈めました。町では年少者の麻薬(マコーニヤ、クラッキ、シンナー)の常用者、少女売春が増え、市の対策や心ある人の努力が追いつかない状態になって来ています。
 保育所の子供達の中で、父母のどちらかが、家族を置いて家を出てしまうケースは、報告があっただけでも40名を越しました。
 嬉しいことも沢山ありました。
 ブラジル経済の混乱から、市からの給食費が削減され、一時はどうなるかと心配しましたが、関係者の努力と多くの協力で、何とか切り抜けられたこと、子供達の出席率が上がったこと、栄養失調児が減る傾向にあること等です。
 さらに、皆の要望と多くの協力者によって、ユニフォームが出来たことです。






『識字教室へ入学希望続出』

〜ハイチ〜
無原罪聖母宣教女会 本郷 幸子
 …デリア・テトロ識字教室は今学期、新しい70名の子供達を迎え在籍児と合わせて160名4学級でスタートしました。
 この仕事を始めた頃は、午前10時頃、貧しい地区に足を運び、学校に行けずに、軒下でボンヤリ何することもなく坐っている子に「勉強したい?」と聞いて集めた子やストリート・チルドレン達でした。社会性、協調性を育てたく、大いにサッカーをさせましたが最初は恐ろしいはど、強引で、食事も充分でないのに、汗だくになって体力を消耗させている姿に感心したり、怪我を心配したものでした。その子たちが、現在、正規の小学校に編入しています。
1999年は教会が管理している学校へ9名(Pridibe tasse)、公立校(Ecole Nationale)へ2名が編入しました。普通2〜3学年に入れてもらえれば良い方です。そのうち4名が小学校5年生に飛び級できました。
 子供の数が増えることは嬉しいことですが、いろいろ問題が起きて、振り回されている毎日です。借金が返せず乳、幼児を置いて母親が一カ月問刑務所へ、女の子同士のかみつき合いで、傷ついた顔の治療費をとる娘、与えた中古衣料を売って、また、ねだる女生徒、5人の子を残して死んだ母、孤児になった子供の世話等々これらはハイチの社会の一部に過ぎないのです。早く、国が彼らの生活を保障してはしい。
 それにしても、午後の教室に入りたい子が後を絶ちません。14歳、15歳になるまで勉強する機会がなく、8歳の子の中にまじってでも教室に入りたいのです。字を覚えたい、書けるようになりたい。読めるようになりたい、そして、給食にあずかりたいのです。総ての子が学べるように国も考えているようですが、財源は殆ど他国からの援助です。一日も早く、国際社会に通じる国になって欲しいと思います。

公立校に編入できた子供たち
公立校に編入できた子供たち






『アフリカ』

alt="コンゴ民主共和国" href="70_2.html#コンゴ情勢悪化、外出禁止令出る"> マダガスカル ブルキナ・ファソ チャド エチオピア





『コンゴ情勢悪化、外出禁止令出る』

〜コンゴ民主共和国〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 中村 寛子
 …アフリカ人、とくにコンゴの人々にとって、今世紀の後半は、政治の激変、混乱、戦争、荒廃…旧約の暗闇の中を歩む民のように、主の到来の象徴のような、主の恵みの年、大聖年に希望をかけ、イエス・キリストがきっと平和を、もたらされると信じています。
 今年は皆さまの御好意によって、私共コンゴ民主共和国での宣教のため、ご寄付頂いた車(Suzuki・Jimny)が到着。可愛いいけれど強力で、どんな所にも入って行けます。
 おかげで活動範囲が広がり、大助かりです。
…(しかし)道路がアスファルトですが、穴だらけの悪路は、かえって、質(たち)が悪く、四輪躯動が大都会でも必要とは、御想像いただけないと思います。
 コンゴの情勢はさらに悪化、最近夜9時から朝6時まで外出禁止令が出ました。
 公共の交通機関もないのでオンボロタクシーやタクシーバスと呼ばれる20人弱の乗物を乗り継いで足にしていますが、絶対数が足りない上に、燃料等の問題もあって、夜9時になっても車にありつけない通勤者が街に溢れ、家に辿りつけず、夜を過ごさねばならないので、禁止令は夜10時にまで引き下げられ、市民は大変な犠牲を払わされています。






『人間を考えさせられる毎日』

〜マダガスカル〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 遠藤 能子
 僻地に移ってから早くも3年経ちました。
 最近では、医療を通じて、土地の人々の考え、教育程度、衛生知識がどの程度かなど把握できるようになりました。
 無医村に働いていると、どうしても、大きな県庁のある都市の病院へ患者を輸送せざるを得ません。
 毎日、数件あるのですが、家族を納得させるのに一苦労、納得して応ずるケースの少ないこと、結局、民間療法になって自宅に戻る、治療を拒否して死を待つケース等々。経済的な理由もあるのですが、苦痛の時期を延長してまでも生きたくない、限界を受容する心の貧しい、土地の人々に、私は、いろいろ教えられ、考えさせられ、何が、人間として生まれて大切なのか、毎日、学ばせて頂いていることを感謝しながら、もう一歩前進を希望し、待っているのです。






『伝染病流行で交通止』

マリアの宣教者フランシスコ修道会 平間 理子
 …こちらは雨期と云っても今年は雨が少なく、農作物に被害が出だしましたので、1月7日から、4日間、人工雨を降らせましたら、稲の穂がみるみる緑となり、水の力の凄さを見せつけられました。
 昨年4月末に西側で発生したコレラは、未だに収まらず、1月に入り、私の居るタナナリブでも死者が出だしています。昨年暮には、私の居るすぐ間近くでペストが発生、2名死亡しましたので、皆が通る道が通行止になりました。
 経済状態は、いくら良くなって来ているとは云え、衛生状態はむしろ、悪化しているようにも思います。こんな中でも、私は、いたって元気ですので御安心下さい。





『発展するセンター』

〜ブルキナ・ファソ〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会・黒田 小夜子
 センターは着々と発展しております。
 9月には新築のセンターに引越し、活躍中です。
 今年は、お米・トウモロコシが大豊作でした。
 子供たちも、小学校でよく勉強しております。
 栄養失調児センターの医療、食費の運営自立を目指して頑張っています。

今年はトウモロコシ大豊作
今年はトウモロコシ大豊作

新築のセンター前で
新築のセンター前で






『日本から曽野綾子さんら視察団』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会・大和 ひろみ
 こちらLaiは雨期が終り、朝夕はとてもしのぎよくなりました。今は、お米や栗の収穫期です。
 一昨年は天候不順で飢饉が心配されていましたが、昨年は雨も順調に降り、まずまずの収穫のようです。
 私たちは(昨年)10月に日本から17名の訪問を受けました。曽野綾子様と日本財団の方、文部省他各省庁、新聞、出版、フリーライターなど、若い方々です。雨期が終ってなかったので、その旅行は困難なものでした。
 N'Djamena←→Lai間は小型飛行機で2往復飛行機をはじめて見る子供たち200人が大歓迎してくれました。
 2泊して頂いたLaiではN'Djamenaから同行して下さったSr有薗、GuidariからSr入江と平と大入満員。4名の女性はどうにか宿泊棟で男性13名は幼稚園のコンクリート床にゴザを敷き、簡易ベッドやマットレスを使って7名、6名は寝袋を持参して頂きました。
 Lai←→Guidari間の移動は小型トラックTOYOTA、もちろん荷台にも分乗して頂きました。
 2回の夕食は、曽野様が中心になって日本食を作って下さり、久し振りに“こしひかり”の美味しいご飯を頂きました。
 チャドでは4日間の短かい滞在でしたが、ザイール、チャド、マリと合わせての2週間のアフリカ初体験は、若い方達にとっても貴重なものの、発見と休験だったと思います。






『毎週金曜日は奥地で予防接種』

〜エチオピア〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会・片岡 圭子
 エチオピアの首都から、南へ410キロ、起伏の多いデコボコ道を下った所にゴサ村があります。私共、マリアの宣教者フランシスコ修道会は、1982年にこの村に入りました。
 1984年の大飢饉の後、ベッド数17床の診察所を開設し、現在は主に、腸チフス、肺炎、結核などの患者さんが入院しています。
 治療より予防をと、数年前から州政府と連携で、プライマリー・ヘルス・ケアーに力を入れはじめました。毎週火曜日は、妊婦検診で60名前後の妊婦さん達が、遠い人は馬に乗せられて集まって来ます。(過のうち)金曜日は朝からランド・ロバ一に乗って、さらに奥地の予防接種に出かけます。4つの小川(雨期には水嵩が増して、引返すこともあります)を渡り切った所でクラクションを鳴らし始めると、村人は予防接種の車が来たことを知り、200人位の子供達が、母親に背負われてやって来ます。何キロも歩いて来るお母さん達は、汗だくです。
 去年のご復活には、ゴサ村の教会で7名の中高生が受洗しました。受洗に先立って、主任司祭が一人々々に「教会に何が貢献出来るか」と問うと、それぞれに、「教会のために祈りイエズス様を宣べ伝える」とか「太鼓を叩けます」などと答えていましたが、その中で「ぼくは、毎日曜日、教会の窓を開け、祭壇のローソクに灯をともします」と言った少年が、毎日曜日、忠実に約束を果している姿に、心を打たれます。
 今年のご復活にも10名位の中・高生が受洗の予定です。
 今回、支援する会のおかげで、「胎児心音検索器」を購入することが出来ました。今まで耳だけに頼っていたのですが、これからは、より確実に検診をすることが出来ます。






『フィリピンだより』

〜フィリピン〜
聖母訪問会・マニラ修道院
 2000年、大聖年に心を開いて「和解」に臨みたいと思います。コンピュータのY2K問題で、人間の世界がどんなに神様抜きで動いているのかが、よく判ります。その余波は第3世界にも及んで、無理に背伸びをしている企業もありますが、一般的には大丈夫、神様が何とかして下さると言っています。
Sr芝崎 富美子
 私は今年で修道生活25年となります。…殆どフィリピンで過し(19年)今さらながら日本とフィリピンの多くの人々に支えられながら、恵みの中を歩めたのだと、感謝のうちに喜びを味わっています。就職難で、卒業した奨学生の中には海外に出ている人もいますが、幸い国内での仕事につき、教師、歯科医、]線技師、ナースになって活躍しています。
Sr山下 正子
 私は養成担当という任務を頂き、フィリピンの地での養成のあり方を学ぶため、善き牧者修道会の修練院に、一時お世話になって若い修練者と生活を共にしました。合間にザンパレスに出かけ、素朴で元気一杯の子供たちと交わりの時を持ったり、マニラの北、リザール州のライバン村で子供たちと、大自然の中でリフレッシュされました。ライバン村に行くためには、二つの大きな川を、橋がないため腰まで水につかって渡らねばなりません。
Evelin
Castaneda  …私は今、若者と積極的にかかわりながら、将来、フィリピン人のシスターが生まれることを夢みて、あちこちに出かけています。
Sr河内
 (昨年)6月にフィリピンに乗て(2度目)、固くなった頑にタガログ語の勉強をしています。
 ある日、貧しい地域支援・写真展で、3歳くらいの子供が床に坐り、大きなお皿とスプーンをヒザにしている写真、題は「Why I am here?」に出会いました。私たちの周りにも栄養の足りない子供たちを見て、気になっていましたのでこのことを、いろいろ考えてみました。
 私も、どうして日本人として生まれたのか判りません。誰も答えてくれません。答えらしきものは「その場で、あなたはどう生きるのですか?」と聞こえてくるのを感じているところです。
Sr小島 るか
 …昨年は4月からコミノテの活動に参加させて頂いています。その中でもピナツポのサンバレスの子供達とのかかわりは、とても楽しみにしているところです。今まで2回ほどnurseryでの時間で、子供たちと戸外の時間を過しました。私は3歳児を受け持ちましたが、タガログ語が出来ないので、必要な言葉を首からさげて子供たちに話しかけます。“アノカヤ・イト”(これは何ですか?)と聞いて返事が返って来た時は、とても嬉しかったです。止むことなくタガログ語で話しかけてくる子供達です。そして帰る時に、いつもこの子供達から何かエネルギーを頂いている自分を感じます。…子供たちとの関わりは、私がかかわるというより、子供たちが私によくかかわってくれているようです。
Sr梅本 玲子
 …私たちが住んでいる所は、中流以上の人たちが住んでいるとばかり思っていましたが、新しい教会が、この地区に生まれることになり、いろいろな集会に出席しましたら、なんと4ケ所の貧しい地域があったのです。まだ、土地も建物もない教会(人々の集まり)ですが、本当のクリスマス(イエスの誕生)となりそうです。






『ブラジル宣教25年を終えて』

淳心会・ビットル・マルゴット神父
 …私にとって最も重大な、25年間の日伯司牧のミッションが終わりました。
 …26年前、ブラジル・北パラナ州のアモレイラという小さな村に着き、名古屋生まれの大沼神父様に継いで、あそこの教会の主任になりました。同時に、アモレイラ・旭地方の日本人、日系人の司牧を担当しながら、度々、東北ブラジルの日本人開拓者の移住地をまわったし、たまに、サン・パウロとリオでも布教する機会が与えられました。
 賞しいアモレイラで、主に貧しい人、皆に忘れられた神の子供達のために働きました。
 まず、彼らのために、自分の家と心を開けたのです。
 行く所のない年寄のために26軒の“老人の街”と、日雇人のために託児所と幼稚園を定めて、長崎純心聖母会のシスターにまかせ、私は、住む所がなくさまよっている人のために“善きサマリア人の宿屋”を建てました。
 その間に、崩れてしまった家族の子供とストリート・チルドレンが私と一緒に神父館に住んでいました。16年経ってから教会をブラジル人の若い神父に渡して、子供達を連れて新しく出来た“子供の村”「明けの星」へ引越しました。
 これらのことは、とても、1人では出来ず、純心会のシスターをはじめ、皆様の絶えざる助けと協力がなければ失敗に終わったでしょう。
 私は年をとっても、まだ、とても元気ですが、いつ、神様に呼ばれるか分かりません。子供達の将来のことを心配して、子供の村を愛徳修道会のブラザーに任せました。
 この頃、日本に、ブラジルの出稼ぎが多いので、26年前に日本の宣教者としてブラジルに渡った私が、今後ブラジルの宣教者として、日本に帰りたくなりました。
 平成11年1月31日に日本に帰国しました。
 最初の2カ月の間、日系人のアントニオ・イサオ・山本神父様と一緒に枚岡教会に住んで、もう7年間ブラジル人の宣教者として日本で頑張っていた神父様が、どこへでも案内してくれました。それから神父様がブラジルへ帰り、私は三国教会へ引越しました。
 現在、日本には約20万人のブラジル人出稼ぎが居ます。その中の83%はカトリックの洗礼を受けています。この頃、ブラジルではいろいろな宗派が大金を使って激しく布教していますが、カトリックのブラジルの神父は10人ぐらいで、とても足りません。
 静岡県、群馬県などにブラジル人が多く、自分達の強い組織を持っていますが、大阪教区では、この広い地域に散らばった小さなグループはありますが、日曜日に働く人も少くないので非常に集め難く仕事が忙しく難しい日本語を勉強する暇もなく、言葉が不自由で、淋しさと、深いホームシックに悩んでいます。自分の言葉で、自分のスタイルでごミサに与かることが出来てその後、少しだけでも、同国人で集まることが出来ると、云うまでもなく、喜びと力になっています。
 日本から見て、ブラジルは地理的ばかりでなく、どんな面でも対称的になっています。
 国民性、気質、習慣、考え方、感じ方、なんでも日本の逆なのです。日本語もブラジル語も出来る、両国を愛する神父は彼らに本当に必要です。これが今度の私のミッションであると思っています。