トップ会報『きずな』60号目次 > 本文
KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アフリカ』

ブルキナ・ファソ シエラレオネ チャド





『栄養失調児センターに笑いが甦る』

〜ブルキナ・ファソ〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 黒田小夜子
…一九八三年、ブルキナ・ファソの国立病院外科に勤める一看護婦として出発し、早や、まる十四年が過ぎました。
…はじめは何も分らず、夢中でやっていましたが、少し慣れてくると、ブルキナ・ファソでの恵まれない母子の立場を知り、小児科病棟に変りました。そこでは、入院病児の殆どに、大なり小なり栄養不良があることを認めました。このように、栄養不良が基盤になっているので、医療は利きめがありません。医療より栄養療法が先決だと思い、病棟の片隅で、栄養コーナーを始めてみました。
 頂いた粉ミルクで作った乳児粥、サンマの油缶などを、母親が病気で、何も食べないという子供の口に、一さじ入れてやると、目の色を変え、乗り出して口をバクバクと開けました。または、手掴みで、頬張る子供たちを見て、ビックリしました。生れて以来、このような美味しい物は食べたことがなかったのです。この事があって、少しでも栄養ある物を子供達に食べさせたいという私の思いが実り、一九九二年、栄養失調児センターが、国立病院小児科内に実現しました。このセンターは、小児科医師の指示のもとにあったとは云え、すべて、私に任されていたもので、栄養失調児についての、治療、栄養法については、独自の貴重な体験をさせて頂きました。
 このセンターで、重症栄養失調児の、奇跡的な回復が多々ありました。一方、何故、屡々、ぶり返しのケースがあるのかと不審に思い、これらのケースを調べるため、車で家庭訪問しました。
 こうして、貧困家庭にあっては、家族ぐるみ、毎日が空腹との対決という事実を知るようになったのです。病院のセンターでしていた栄養教育や実習など、このような、料理の材料も道具もない家庭には、何の役にも立っていなかったことが明らかになり、これ以来、急遽、空腹対策に切り変えました。
…その頃、ヨーロッパで、アラブ系の一人の母親が、自分の子供たちに食べさせるものが無くて、食料品店で盗みをし、無罪になったというニュースを新聞で読み、私は、この母親に深く、感銘を受けました。”神は生きているすべてのものに、食物を恵まれる“親鳥も、口を開けて餌を待っている子すずめに、誠実に餌を運んで来ます。飢えている人々のために、この親鳥のような本能的母性を押えることは出来ません。この使命のために、もっと自由になりたい〜と、病院をやめました。
 それから、一九九六年早々、農業と飼育をする食料自給自足を目指した栄養失調児センターを、私の会の名によって開設しました。
 このセンターで、健康になった人達で、家に十分な生活手段のない家族は、この農場とセンターで、一緒に働きながら、料理もし、少なくとも一日一食は、皆で食事をすることが出来るようにしています。最初に、哀れ、病児を抱いて、打ち挫がれてセンターを訪れた母親は、元気ななった事と、一緒に働けることへの喜びで、おしゃべりと、笑いが絶えません。新しいセンターの職場は台所です。
 とくに、スクスク育つ子供たちの内には、神様からの能力が窺えます。貧困家族の将来を、この子供達に賭けて、学校にも行かせます。わずかな仕事ではありますが、ここまでの活動が出来るようになったのも、ひとえに、皆様のお祈りと援助のお蔭です。
 ブルキナ・ファソの皆さんと共に、深くお礼を申し上げます。
一九九七・八・一






『ルンサからの脱出行』

〜シエラ・レオーネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
…アフリカへの宣教女として二十数年、最初の十年は貧しくとも、平和のミッションでした。しかし、一九九〇年より内乱の世界となり…一九九四年以来、四年間に二度、シエラ・レオネを後に避難しなければなりませんでした。…今回、最悪な事態となり、私達は、また、シエラ・レオネを後にしなければなりませんでした。
…「ルンサからの脱出の旅」−首府フリータウンは、銃と爆弾の音が一日中、鳴り響き、神父も修道女も、一番安全と思われる修道院の二カ所に集まり…絶えず聞えて来る機関銃や爆音に神経をとがらしておりました。…私達の院長は、フト、一人の神父が未だ欠けていることに気付き、電話をしますと、受話機が外され、聞えて来たのは、軍靴と銃の音…その時、一人の神父様は、来ている服を脱がされ、お金を全部出すよう…銃で威かされ、大変な目に会っているところでした。…九日の朝のラジオ無線で、司教より「修道女は一時避難した方がよい、…カヌーに乗って、秘かに国境越えをさせたい」とのこと。…(避難に反対だった修道女たちは)残留組になりましたが…また、いつ退去命令が出るか分らないので…シスターたちで、日本から到着したばかりのコンテナの支援物資を開け、三月から給料のない困った職員や貧しい人を対象に全部、分け与えました。…十一日の朝、また、司教からお勧めが来ました。…私たちは泣く泣くルンサを後にしました。男の先生たちさえ、大きな声で泣きながら、不安と悲しみで、自動車に縋りつき「早く帰って来て下さい」と嘆願しておりました。…司教を先頭に、種々の会のシスターを乗せた車は五台…デコボコの泥道を走って、国境の町カンビアに着いたのは午後八時、途中、何度か兵隊に呼び止められ、銃を向けられます。…翌日…国境を越えました。…私達がギニー・コナクリの大司教館に到着したのは、夜中の一時でした。
…ギニーでは、三カ月、人質生活を経験したザベリオ会の四人のシスターとの共同生活でした。…総長の勧めにより、私達は十日後、イタリアに二度目の避難をすることになり…がっかりしました。
 ルンサに戻ることを希望しておりましたから−。

ルンサ脱出・ギュー国境で8時間待たされる
ルンサ脱出・ギュー国境で8時間待たされる






『食を求めて、”さまよう@ャ民』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 永瀬小夜子
…チャドの慢性的飢餓、これから始まる雨期の病人…コレラも含めて、本当に貧しい国です。それにザイール(コンゴ)、ウガンダ、ルワンダ…遠くはリビィ、エジプトと、流民の数が増し、彼らは、自分の国を証明する書類どころか用紙さえ無い人があり、そうなると公けの助けは受けられず、その日の食を求めて、さまようこととなり、喚問にかかれば国境まで追われるのです。
…昨年も、自分は働きに行きたいが、二人の子供を見てくれる人がないから預ってほしいと、小さい赤ん坊と三歳くらいの男の子でしたが…、こうして相談に来る親は良い方で、そのうち、捨てられ、置き去りされる子供たちも見ます。チャドには、施設など組織はなく、そこに親切な人があれば、食べ物を与えてくれて…「下さい」「下さい」とついて回って、生きて行く子供の多いこと…毎日は、過ぎていきます。






『中・南米』

ブラジル





『『希望の家』の女性と連帯を』

〜ニカラグア〜
「希望の家」 マリア・ホセ・ロペス
 ……シスター弘田からのFAXで、「希望の家」のプロジェクトにご協力頂けることを知りました。女性たちに代わって、感謝申し上げます。「希望の家」は、中米ニカラグアの北西部エル・ヴィエホにある障害を持つ女性のコレクティグです。一九九一年から仲間作りを始め、今、十三才から四十才までの女性たちが、毎日午後「希望の家」に集まり、小さな庭で野菜を作ったり、現金収入につながる手仕事をする傍ら、ボランティアの人々に助けられて識字教育を受けています。手仕事は、お祝いの時に使うピニャ一夕(張り子の人形の中にお菓子が入っているものを、天井から吊るし、目隠しをして叩き落とす)、母の日には造花、そしてカード作りが主な活動です。仕事を持っている人を見つけるのが難しいぼど、失業率が高いニカラグアは、最貧国と言われており、カードなどは、国内で売ることが殆ど不可能です。このカードは、絵筆など持ったことの無かった女性たちが、周りにある草、葉、花に色インクをつけ、自分の心の世界を色と形で表したものです。大量生産で粗雑になることを避けるため、一枚一枚手作りで一日六枚以上は作りません。カードの売上げの三分の二は、作った女性たちとその家族が毎日生きるための現金収入となり、三分の一は材料費として、積み立てられます。毎年、購入予約をして下さると、作っただけ確実に、労賃をその時々に渡すことが出来るので、大変助かります。
 人間らしい暮らしを、自分たちの手で、心で築き上げようとしている女性たちのために、是非、ご協力下さい。グループ、個人をとわず、お力添えをお頼いします。カードが沢山売れれば、他にも沢山居る女性の仲間たちをコレクティブに誘うことが出来るのです。
 連絡先=〒135東京都江東区潮見二丁目一〇番一〇号
 日本カトリック会館内 日本カトリック移住協議会пZ三−五六三二−四四四二 FAX‥〇三−五六三二−四四六五
 カード一セット(六枚)四百円送料=一部九〇円 二五部まで一六三円(メール便)二六部〜実費






『老人訪問も、二人で応じ切れぬほど…』

〜ブラジル〜
殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会 林七枝 佐藤肇子
 六年の歳月のうちに、移住の当初、受け入れて頂いた日本人会、日語学校等、日系の方々のお世話で、足による訪問先の年代層も、幅を少しずつ増し、今では、近隣のブラジル人家族や先住民保護地区の方々も、心を開いて近づいて下さるようになりました。
 数年この方、何かを大声で訴えながら歩くおじいさんが居ます。昔、広大な土地を持っていたのに、一夜にして奪われ、無一物になった嘆きのために、気が狂ったのだとか…、敬虔な信者で、ミサの終りには、祭壇の前で、聖イグナチオの「自己を捧げる祈り」の先導をします。この方には、立派な信者の息子さんのあることを、最近になって知りました。
…また、七十歳になられる、もとシスターのドナ・ロザリーナは、ご自分一人で、何十床もの精神障害者を収容してお世話し、その上、子供たちや母子家族の世話、生れた子供の洗礼、宗教々育もなさっています。市の外郭福祉団体「プロ・ソシアル」は、現在、十四の養護託児所を作っていますが、経済的に苦しく、最近、人件費の支給難のため、止むを得ず、三人の働いていた婦人を解雇したと、責任者の話でした。…日系家庭のお年寄りの訪問も、恵まれた家庭から恵まれない家庭、ブラジル人家庭へと、時間さえ許せば、次第に増えつつありますが、二人では応じ切れぬ現状です。唯一の変わらぬ希望は、ブラジル国内にある、私たちと同じ共同体のシスターと共に働くことなのです。(八月五日)






『行事に追われ、日本並みの忙しさ』

長崎純心聖母会 堂囲みつ子
…セントロ・コムニクーリオは日本並みの忙しさで、行事に追われています。二月にこちらに帰って来てから、雨天遊び場の落成式、学用品バザー、古着バザー、パスコア(復活祭)、母の日、母の会、新しい町長さんとの交渉etc…職員も十九名から二十六名に増えました。子供達も増え、ただ今、満員御礼で断っています。
…毎月の誕生会にビンゴをして、数字への興味を持つようにしたり、模型作りを通じて共同作業を学んだり、教室を回って宗教の話をしたり、いろいろ試みています。…タイプに続いて、編物、手芸、ギター教室も発足しました。次はコンピュータです。アモレイラでも、今は皆、コンピュータです。
…パスコア(復活祭)の前日、隣の町のスーパーで、去年までアモレイラに居た女の子アナ・パウラ(十二歳)に会いました。弟たちの面倒をよくみていた賢いお姉さんでした。父親の仕事の関係で引越しましたが、学校にも行かずにスーパーの前で物乞いをしていました。アモレイラに居たら…と残念です。「誰もセントロでは働きたくない」職員の増員をお願いする度に町長さんに言われて来ました。きつい、汚い仕事です。貧しさとは選べないことだと、ある神父様に言われました。ごはんかパンか、選べる余裕はないのです。
…差別され、疎外された経験を通して、貧しさの持っている宝を見たような体験をしました。






『アジア』







『第一回インドネシア在俗会開催』

〜インドネシア〜
聖母カテキスタ会 浜谷真佐美
 「世の真っ只中にあって、キリストのあかし人として生きている」今年は、インドネシア在俗会にとりまして、初の大会「第一回インドネシア在俗会」を六月七日、八日、ジョクジャカルタで、持つことが出来ました。聖霊によって導かれて各在俗会から集まった会員達は、それぞれ、希望に胸をふくらませ、会は、キャリアを持った”世のつわもの達“の集まりを感じさせました。
 今回、第一回大会を持つことになった始まりは、二年前にブラジルで開かれた在俗全世界大会で、次回のアジア大会はインドネシアで開催することを決定しました。さしあたり、コリー・ワルーナ(名古屋カテキスタ会の支部・インドネシアグループ長)が、世界在俗会の実行委員として、広いインドネシアの津々浦々を駆けめぐりようやく見つかったのが、六つのコミュニティでした。
 それぞれの会員たちの、現場と長年のキャリアをもって働き、何にもめげずに、黙して、ただ、ひたすらに、御国建設のために会員一人一人が「一粒の麦の種」となって大活躍をしている「生きざま」を目にしました。それが故に、大きな力と励ましを受けて大き釧な共同体のなかに、共に生きていることを自覚しました。
 大会当日には、枢機卿様から、将来に希望ある在俗会の働きと生き方についてメッセージを頂き、インドネシア総修道会長、司教様方ご出席の下に荘厳ミサが行われました。呼ばれて、星の光に導かれて集められた私たちは、神様の祝福のうちに、聖霊に満たされながら、喜びと希望のうちに、来年の再会を約し帰路につきました。