『宣教者の心』大阪教区協働大司教 池長 潤
私としては、みずから海外宣教を志したこともなければ、第三世界と呼ばれるところで、宣教者たちの労苦を見たり、宣教の有様をつぶさに体験させていただく機会を持ったわけではない。しかし、その私にも、太平洋の真中に浮かぶボナペ島で、援助マリア修道会の、シスター方の生活に触れさせていただくことが出来たのが、唯一の例外であった。 さらに、ブラジルで働く堀江節郎神父や、ネパールで、障害を持つ子供たちのために活動している大木章次郎神父から、直接、話を聞いていると、宣教者たるものの心の奥に潜んでいる、ある秘密に気付いたように思える。 それは、一言で表現すると、自分自身が「空」であるとでも言えばいいのか。もっとも、どんなに宣教魂に徹した人であっても、隅から隅まで、自分に「空」になりきることは出来ないだろう。しかし、現地で働いておられる姿をうかがうと、何か、この「空」という言葉に響き合うものを感じる。 ボナペのシスター達から伺った話だが、彼女達が宣教を開始して間もなく、ある別の島にも訪ねてほしいと依頼を受けた。あちらから舟で迎えに来るという。日時と待ち合わせの海岸を約束して、そこで待っていた。ところが、時間が過ぎて、待てども待てども舟は来ない。ついに、その日は暮れ、次の日もそこで待った。そして、なんと3日目に、突如、舟が現われた。 これを聞いて、よくぞ3日間も待ち続けたと感心した。 時間感覚が、マイクロネシアの人々と日本では、全く違うのだ。 また、ある宣教師は、広漠とした大地を、馬に乗って活動したという。また、ある人は、日本を離れて以来、毎日、2食しか摂らず、しかも至って簡単な食事で済ませているという。 結局、自分が今まで日本で慣れきって暮して来た習慣やリズムやあらゆる感覚などを、どこかに捨て去ってしまわない限り、宣教地にしっかりと根を降ろすことが出来そうにない。 自分の中に、これまで在ったものを、ここまで、放棄して生きていけるのは、やはり、「空」の心と言っていいのではないか。 海外宣教者たちにかかわる「海外宣教者を支援する会」と結ばれた、国際協力委員会の仕事をお引き受けすることになったが、分不相応な感じを持ちながら、祈りとともに努力していきたい。 『第57回役員会報告』「会」の第57回役員会が、平成8年6月27日血゚後6時から東京・江東区潮h兄の日本カトリック中央協議会会議室で開かれ、次の案件を審議、決定した。
『援助決定』(′96.6.27決定分)
『95年度援助費、一千万円余』「会」の一九九五年度の海外宣教地への援助総額は、一〇、一五三、000円(20件)に達した。「会」が発足して以来の援助総額は、一億一、六四五万円余(一九八二年〜一九九五年)に上っている。 1995年度会計報告
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