『中・南米』『小学1年から、3カ国語を』聖霊奉侍布教修道女会 林静子
…お蔭様で、パラグアイでは、私達、宣教者は皆、元気です。
…枝の主日には、多勢の信者さん達が、枝を持って集まりました。悪天候のため、行列はやめて、教会内で枝の祝別がありました。 この日の福音は、4つの言葉で読まれました。スペイン語、グァラニー語(原地語)、ドイツ語、日本語でした。私達のコロニアでは、大体、この4つの言葉が話されているからです。 この国の文部省の教育改革で、二、三年前から、小学一年生から、スペイン語の他に、必須科目として、グァラニー語も勉強させるようになりました。それで、日本人の子供たちは、一年生から、日本語・スペイン語・グァラニー語も勉強することになります。言葉が分からないため、落第する生徒も居ります。 日本政府の援助で、コロニアから主要幹線道路に向けて、アスファルトが敷かれるように、昨年3月から工事が始まりました。雨のため、しばしば中断しておりますが、5年計画で、一八〇kmが、アスファルトになる予定です。 初聖体を受けた子どもたち(左端)Sr林静子 『父兄が、教育に関心』礼拝会 斉藤クニ子
…ボリビアでは、暑い々々夏休を終えて、2月から子供達は新学期が始まりました。学用品が買えなくて、学校に行けない子も居ますが、サンファンでは、日系人の勤勉に刺激されてか、大分、教育に関心を持つ親が増えて来ました。幸いに高校が出来たので、近辺の村からも集まって、生徒数が千人近くなりました。元来、一つの学校でしたが、日系人の方が、別に独立して中学まであります。こちらは、人数が年々減少しています。また、国際協力事業団の援助もあり、設備が整って、私立学校の権威を保っています。一方、公立校は、年々人数が増え、教室も足りないし、午前は高校、中学、午後は小学校と交代で使用しています。私立校が月謝50ドル(250ボリビアノス)に対して、10ボリビアノスです。しかも一家族に対してです。いろいろ問題もありますが、公立の方は政府の援助もなく、父兄の僅かな協力で補って居ります。とくに、技術校として卒業後、すぐ助けるように、何かを導入しなければなりません。女子は、ミシン刺繍とか、男子なら大工、木工とか、今はコンピュータ時代で、卒業生が、ある程度の知識を持っているように、会社、銀行等では望んでいます。
現在、3名が師範学校在学中。今年から3名が専門学校に入りました。勉強したい生徒が増え、親たちも、自分たちの無学に目覚めて来ました。その日その日の生活に手一杯の経済状態ですから、日本の有志の方々の御援助に心より感謝申し上げます。 昨年、一人の青年が師範学校を卒業し、今年から、母校で教師をつとめております。田舎の村から先生が出るなど、夢にも思わなかったことが実現しつつあります。(2月7日) 『信徒会館、外装は、ほゞ完成』フランシスコ会 小川満
…ここブラジルも今年は雨の多い日々が続き、野菜などがダメージを受けはじめておりますが、他の農作物は、今のところ順調に育っているようです。米国のフロリダ州では霜害がひどく、オレンジ・ジュースの値段が上りそうだというので、ブラジルの果樹栽培者は大いに期待しているようです。…ところで、お送り下さった小荷物が、無事に私の手許に着いたことをお知らせします。最近、日本からの小包は、4ヵ月かかって着いています。この遅れは、ブラジル側の郵便事情によるものでしょう。経済的には、インフレは、月1・5%前後にまで下がり、物価も安定しているように見えますが、労働者の賃金が、一年以上も据置きになっており、最低給料(労働人口の65%がこの給料)の購売力が落ちているので、郵便局員や公務員、税関員のストライキが時々あり、その関係で郵便物が滞っているのでしょう。…皆様から送られたものは、全部、私の持ち地区の共同体に渡し、そこの住民の買える値段で売られたり、共同体主催のお祭りの時の屋台、夜店、釣り遊びの景品にしたりし、売上金は、共同体の活動資金となっています。商品や景品にならないものでも、要理教室に来る子供たちの教材・文房具品になっています。
信徒会館の建築も、外側が大体出来上りました。内装や備品などは、共同体の仕事として、後々、充実していくようにし、講習や集会のために、早速、使用しようと思っています。 『目を輝かせ、寺子屋学校に』無原罪聖母宣教女会 本郷幸子
…私は3ヵ月前からHineheという、ハイチ第4の都市(人口約4万人弱)に赴任いたしました。首都ポートプレンスから一三〇kmの、内陸部、山の多い所です。道路が悪く、首都に出るのに5時間以上かかります。車が故障しようものなら、野宿さえ余儀なくされる、孤島に居る思いです。
…初等教育を受けられない8歳〜14歳までの子供達が40名、デリア・テトロ(会の創立者の名)と名付けた、寺子屋教育に通いはじめました。朝9時、貧しい地区を訪れ、何もしていない子、水汲み、洗濯をしている子に声をかけ、(世話している)おばさんに「小学校に行っていない子供たちのために、午後一時〜三時、読み、書き、数の勉強を始めるが、通わす意志があるかと尋ね、「是非」と、返事が戻ると、私たちの会話をジッと聞いていた顔が、喜びの表情に変り、目が輝いているのが見えました…2時間かかって、16名の子供の親に巡り会いました。…温かい食事もあり、教科書を片手に足どりの軽やかな子供達の姿は、3年間という限られた年月でも、希望がみなぎっております。…デリア・テトロの子供達は、思いがけない勉学の機会に恵まれ、その昔びを友だちと分ち合い、友達も在籍させて欲しいと頼みに来ます。また、道でめぐり合わなかった子の親も、自分の子にも、勉強の機会を与えて下さいと頼みに来ます。今年は40名で抑え、来年の入学を待つように我慢して賞っています。2年目から、子供達が自立出来る方法を考えていきたいと思います。 『ホームは順調に』フランシスコ会 加藤マヌエル神父
…4ヵ月ぶりに見たペルーは、皮相的な観察では、余り、変化を見ませんでしたが、日が経つにつれて、それが見えて来ました。
…全体的に言えば、貧しさは、外国に発つ前よりも、ちょっと悪くなったような気がします。もちろん、以前のようなテロによる爆破事件は無く、本当に静かですが、こそ泥、ひったくり事件のほかに、組織化した泥棒が、帰宅途中の社長級の人を襲うなどの事件が、毎日のように起っています。…先日、国際通貨基金が、大蔵大臣に、ペルーの財政コストを下げろという忠告の手紙が公けにされました。その理由は、税金の65%が公務員達の給料に使われているからです。これは、今年も、この人達の首切りが続くことと、失業者が増えると同時に、貧しさも増すことを意味しています。政府も、これを自覚しているようです。今年の予算の40%は社会事業に回すと言っているからです。元々、農業国であるペルーが、日本からの援助で農業に力を入れようとしている様子を伺うと、ようやく、やるべき事を始めたという感じです。とにかく、経済情勢は、そう楽観的ではありません。 ホームは、皆様の暖かい協力、援助によって、順調に運営されており、50人の子供達も元気です。…。 『チリだより』カロンデレットの聖ヨゼフ修道会 真木栄子
…「ミシオン・へネラル」と呼ばれる、タルカ教区の大きなプロジェクトである、基礎共同体作りが、昨年、三年目を迎えました。
この共同体作りは、地区内の一区画を2人ずつがペアになって、家庭を一軒々々訪問し、信仰の分かち合いと、お互いが知り合い、神の子であることを確認、信頼を深め合うというものです。 …今年のミッションは、ポプラシオン・サンミゲル・ピッゴで、ここは、私達の地区で一番貧しいだけでなく、問題の総てを持っているポプラシオンとして、地区に住む人々でさえ、そこに近づくのを恐れています。つまり、アルコール中毒、薬物中毒の青年、子供達までも路上をぶらつき、ケンカ、泥棒、殺人などの犯罪から、家庭内暴力に至るまで、常に、何かが起っている中心です。 9月末、約50組の宣教者たちは、この地区の約五百家族を訪問し始めました。…一番最初に、私達を受け入れてくれたのは、若い主婦で、立ったまま話していた所へ、ぐでんぐでんに酔っ払った主人が帰ってくるという、このポプラシオンでは、典型的な場面から始まりました。2回目の訪問では、招かれて家の中に入ったのですが、彼らの兄弟の一人が、床に毛布を被って寝ころがっており、それを目にして、〔その)男性の邪魔をしないかと、気を使いながら、聖書のみ言葉の分かち合いをしました。彼は毛布の下で、私たちの会話に、耳を傾けていたようです。十月のミッションが始まって、3週間後、この地区で火事が起こり、3歳の女の子が焼死するという悲しい事件がありました。…ここでは、子供たちは、常に生命の危険にさらされています。 私は、このミッションを通して、ポプラシオン・サン・ミゲル・デル・ピッゴに住む人々の、生活の悲惨さにもかかわらず、そこに生きる人々の心の輝きに触れ、その光に”めまい“を覚えました。 次は、”MOA NI”(モアニ)という若者のグループの活動です。 私が、彼らと共に働き始めてから、すでに3年経ちました。 彼らは自分が住む、同じ路地に住む、子供たちの、お兄さん、お姉さんになって、子供達の相談相手、遊び相手になっています。 …若者たちは”コンパニヤンテ”(同伴者)と呼ばれる、その名のとおり、子供たちの人生の歩みに寄り添って、手助けをしていきます。シンナーに犯されていた一人の少女は、アコンパニヤに助けられて成長し、後に、自分も、アコンパニヤンテになり、昨年結婚し、私たちは、皆、その結婚式に参加して、彼女の幸せに与かりました。 彼らの、たゆまぬ奉仕へのエネルギーと責任感に、全く、頭の下がる思いです。 若者達は、子供たちの世話をしたり、教会の奉仕に参加するのは当然のように振舞い、奉仕することによって、点数を稼ぐなどという観念など全くなく、あたかも、自分の夢を、一歩々々実現しているかのように、一生懸命、暑い最中に働いているのには、全く、関心します。…時々、失敗しても、すべて、自分連で計画し、実行し、責任をとり、奉仕活動を自発的に実現して行く、それとともに、子供達を教え、自らも視野を広げ、学び、成長して行く、こんな達しい若者たちが、ここに育っていっています。 『アフリカ』『エチオピア・10年』マリアの宣教者フランシスコ修道会 片岡圭子
一九八四年から一九八五年にかけての、エチオピア大飢饉の時、私共マリアの宣教者フランシスコ修道会は、イエズス会の神父様方と共に、ここゴサ村を中心に援助活動にあたり、そのままゴサ村にとどまって、診療所をひらきました。
人々は、このゴサ村だけでなく、まわりの村や町から、なかには二日も三日もかけて、手製の担架に患者さんを乗せ、徒歩や馬でやって来ます。 その後十年、あそこへ行けば、お金がなくても、夜中でも、シスターが見てくれる、ということで、人々の希望の存在となってきたようです。毎日毎日、下痢や眼病、結核の予防など根気よく話をしているのですが、縄文式時代のような人々の生活状態はあまりかわらず、砂地に水を注いでいるように感じることもあります。教育の大切さ(96%は非識字者です。)を痛感し、子供たちへの初等教育や、小さな技術学校も始めました。 意志は不在、たった4人の共同体で、私は韓国人のシスターと診療所を担当し、また金曜日の午後には子供たちのカテケジスを受け持っています。 ある日、教会で良きサマリア人のお話をしました。聖書を読み、劇をして、祈りの分ち合いを終ろうとしていた時、男の人が呼びに来たのです。「診療所に来てください。」あともう少しで終るのに、と思った私は、「待ってもらってください」といって子供たちの方をふりむくと、30人近い子供たちが、私の顔をじっと見ているのです。私はハッとしました。子供たちに「ちょっと待っていてくれる」と聞くと、一斉に「いいよ」というのです。 急いで診療所に走って行くと、入院患者さんの点滴が終ったところでした。点滴の針をぬき、やけどの赤ちゃんの応急手当をして教会にもどってくると、子供たちがうれしそうな顔をして太鼓をたたいてむかえてくれました。 三年前にイエズス会の神父様が亡くなってから、後任がなく、ゴサは巡回教会となってしまいましたが、皆様のお祈りと御援助に支えられて、この地でこれからも神様の愛を伝える道具となりつづけたいと願っております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 『乳児院のこども達』マリアの宣教者フランシスコ修道会 玉木照子
…こちらでは、乳児院で働いております。40床ですが、今は、床に手提げベッドを三つ捕って詰め込みです。20%前後は、いつも捨子ですが、貧しい家庭の母親の出産時の出血多量死の乳児を与っています。出生時から9ヵ月まで、後は、お父さん、おばあちゃんの所へ帰って育てられるようにと…。捨児は、養子縁組が多く、三カ月間は乳児院で育て、その後は、貰われて行きます。中には、手続上、歩き始める頃までいる子も、時には居ますが……。
最後に入院して来た捨児は、夜中に、ポリスが連れて来ましたが、砂の上に捨ててあったのを、子供が見付けて…来た時は裸で、冷たく、早速、病院へ入院(フランス軍人経営の病院)、10日間入院していましたが、今は、私共の乳児院に元気にしていますが、毎日、溢乳がひどく、ベッドも頭部を高くしています。セネガルの乳児は、首のすわるのが早く、早熟?こちらの娘さんは、腕をつかんで赤ちゃんを抱き上げますので、最初の頃は、ヒヤッとしていましたが、一度も脱臼、骨折もなく、今では、私も悪い?習慣を見習って(?)います。双胎が多く、l時、6組もいました。出生時に、片方の死を入れると、もっと多いです。修道院の敷地内に若い(15歳〜18、19歳)娘さん達の寄宿舎(50名位)があり、2年間、半分に分れて、乳児院の仕事と、半分は、外人のボランティアの奥さん達が、手芸、フランス語、調理、簡単な小児学、編物、レース編、算数…を養成しています。少し言葉が出来るようになって、毎月、娘さんとケンカ…それでも、ちょっと嬉しいことがあると、腰を振って、舌を鳴らしながら、ダンスが始まります。 『ショック!2シスター殺害される』マリアの宣教者フランシスコ修道会 玉木志津
…一九九四年の5月から、私はノヴィシアのコミノテの一人として、ガーナ人の修練長と、アメリカ人シスター、それに5人のノヴィスと生活を共に始めました。…今11人です。……
1月8日に、ショッキングな事件が起りました。お隣りのホワイトシスターが一人と、プレゼンティションのシスターが、南の海岸で殺されました。ドラッグ・アデクトの2人に、鉈のようなもので頭部を打ち砕かれ、亡くなられました。お2人は、海岸で泳いだり、本を読んでいて、ちょうど休暇を始めたばかりでした。…犯人は直ぐ逮捕され、ドラッグを売っていた女性も逮挿されましたが、未だに、ショックから抜けられずに居ます。多くの若者がドラッグの犠牲になって、こういう事件は後を絶たないでしょう。最近、盗み、殺人と物騒な世の中になって来ました。それでも、ガーナは、他のアフリカ諸国に比べれば、とても穏やかな国です。…10年前に比べて、ガーナも随分、変りました。 『衝突され、車もろとも川へー』ショファイユの幼きイエズス修道会 松山浩子
…いつも、「きずな」を楽しく読ませて頂いています。
実は私、事故に遭って、車を壊してしまいました。 向う岸まで渡す、車用のいかだ(モーター付)の上で、私がスズキに乗って待っていると、後ろから大きなトラックが、ブレーキもかけずやって来て(衝突)、私は川の中へ落ちてしまいました。チャド人が、沢山泳いで、引き上げてくれ、買った物は、なんとか無事で、車だけがダメした。みんな、私が助かったので良かったと言ってくれましたが、ここでは、車なしでは仕事にならず、車以外の交通の便がなく、とても因っています。(3月18日) 週に1回、ミサの準備に集まる子供たち 『アジア』『台風ロシン・被災者への協力のお願い』キリスト・イエズスの宣教会 渡辺栄子
昨年11月初め、フィリピンを襲った超大型台風ロシンは、フィリピン12管区の中、7管区29プロビンスに爪跡を残し、死者720人、負傷者2400人、行方不明者160人を出し、農作物と道路や橋などの被害総額は、93億ペソ(372億円)に上りました。
瞬間最大風速270kmといえば新幹線並みですから、風がうなり声をあげ、私たちの住んでいるマニラを通過するときは恐ろしい思いをしました。後で、屋根が剥ぎ取られたり、電柱が倒されたり、大木の枝が折られたり、根こそぎ引き抜かれたりしているのが見られました。私たちの所で4日間の停電、ひどい所では1週間にもおよび、また水不足を生じたところもあったそうです。幸いにも私たちの家では、停電のためタンクに水を汲み上げることができず、水運びをしたのと、テレビのアンテナ取り替えなど小さな被害にとどまりました。 一番被害が大きかったところはピコールとケソン・プロビンスで、まだ復旧工事が終わっていません。私たちの属するグアダルッペ教会では、ケソン・プロビンスのアンティモナンのアンへレス教会を引き受けて援助活動を始めました。このように教会単位で援助していくという発想はいかにもカトリックの国らしいと思います。とにかく、このアンへレス教会のもとで、1つのバランガイ(行政区画の最小単位)1120家族が援助の対象になっています。クリスマス時期に、食料や衣類などの450袋を届けましたが、とても皆に行き渡る量ではありません。神父さんの話によると、被災家族は殆どが貧しい漁民か公務員で、倒壊した家を部分的に修理して住んでいます。衣類も全部流されてしまったので、新しいTシャツをもらってとても喜んでいたそうです。でも、これらのバランガイの他に、まだ小さいバランガイが海岸つたいにいくつかあって、しかも道が不通で、どんな援助の手も届いていない所があるので、できればそこまで行きたいとのことです。いずれにしても息の長い援助が必要らしいです。 現金でも食料や古着などの物資なんでもいいです。子供たちがたくさんですから、子供の服やズック、それから、学用品などもいいです。でも、船で3ヵ月かかり、しかも送料がかなり高くつくので、新しいものを買って送られることは避けてください。現金があれば、日本よりもフィリピンでずっと安く買うことができます。古着なら夏物ですが、10月から2月ごろまで朝夕かなり冷えるので、ちょっとした上着やジャンパーなども使います。背広は使いません。よろしくお願いします。 送り先は次の通りです。 Sr. Eiko Watanabe Missionaries of Christ Jesus 9431 Magallanes Street Guadaupe Muevo 1200 MAKATI CITY, M.M. Phillippines. Tel. 001-632-843-67-23 ※ご協力下さるときは、ご送付の前に、別に簡単にお知らせ下さると有難いです。郵便物でまだ紛失したものはありませんが、とても遅れたりすることがありますから。それから心づもりにもなります。 『ヨーロッパ』『”枝の主日♀エ動の教皇ミサ』愛徳カルメル修道女会 和田徳子
…「枝の主日」には、私もシスターたちと一緒に、聖ペトロ広場で、パパ様のミサに与かりました。枝の行列とミサで、3時間かかりましたが、実に美しく、感動的でした。
「世界青年の日」でもあり、また、殆ど、あらゆる国籍の人々が参加していたこともあり、平和と連帯への希望と決意を新たに感じさせられるミサでした。私の隣には若い女性が居ましたが、ミサの後で、スロバキアの方と分り、どれ程、苦しい時を経て来られたことかと、ミサの間に伝わって来た、この方の深い信仰と共に、私の心に深い思いが残されました。 聖ペトロ広場だけでなく、広場に続く”和解の通り“と呼ばれる広い道路まで、人で埋めつくされました。何万人の人だったと思います。案じられていたパパ様は、健康を回復され、精神力の大きさを見る思いでいます。(96・4・1) |