『人間とは、お前だ!!』フランシスコ会 中谷 功神父
「先生、人間ってなんですか?」
私が住んでいる日雇い労働者の街、東京の山谷でのミサの最中の出来事です。ここでの労働者とのミサは楽しい。まず来る人の多くは、最初から酔って出来上がっている。ほぼ天国にいるような状況で楽しんでいるから、ミサが明るくてたまらない。ミサで私が話す言葉を受けて、「ヨォ、待ってました。」「今日はなかなかいいぞ、先生。」「先生、やっぱりいいこと言うな!。」など、気合や冷やかしがあるし、そうかと思えば、「難しくて何言ってるのか全然分かんネーヨ。」「分かるように話せよな。」「オマエ、勉強してんのか」と率直だし、ついには「どら、オレに話させろ!」とまでになって、まさにみんなで祝う祭儀になることもあるからうれしい。ただし、いつもよい結果とは限らない。 「先生、人間ってなんですか?」説教の後すぐ、突然質問をされた。 「エッ!」と思い、答えようとする私の頭に様々のものが駆け巡った。要理、神学、専門書、最近の新聞の記事!。結局「一言で言えない、後で説明しよう」という私の頭の中の結論でモクモクしていると、彼らの別の一人が言った 「人間とは、お前だ!。」 キリスト教の活動には多分に温情主義が多い。かわいそうだから助けてあげる。初めの動機としていいのだが、それはつまり上から下へ、持っている者が持たない者への憐れみで終わる。物がなくて困っている人には、差し当たりそれが必要な事は言うに及ばない。 しかし、物をある程度持ったら人間は次に、物では幸せにならない自分を発見し、もっと精神的なものを捜し始める。人間は物なしに生きられないのだから物は大切であるが、物をあげる事は対処(症)療法でしかないことを認めざるを得ない。つまり、物が与えられたその時点から、その人が自立をはじめていかなければ、物は役に立たないばかりか害になる。それでも必要としている人がいるからある、という矛盾を抱えながらやっている自分がいるのである。 問題は、幸せとか生きがいとかいった精神的なものは、物質のように「ハイ」と手渡し出来るようなものでない所に難しさを感じる。そこで、見える物質でけでは満たされない人間を、本当に満たしてくれる見えない神を信じる我々の課題があり、存在価値があるとしたら、それではないか。では、どうすればいいのか。それは多くの宣教者が体験的に語ってくれるところである。つまり「わたしの存在そのもの」をそこに置く。共にいて関わり合うこと。それはイエ ス・キリストが生涯をかけて我々に自ら示してくれたものである。 「人間ってなんですか?」 「人間とは、お前だ!。」彼らの祈りの叫びなのであろう。しかし、そこに「共に居る」からと言って、何かが変わる保証は何もない。しかし、関わり合いなしに神の恵みは働かない。出来る事は、自分なりに関わるしかない。お互いの関わりを通して生きる喜びを与えるのは、神のみである。それを最近私は観想という言葉でまとめている。観想、つまりこの世のどんなもの(人)でも、どれだけ私はキリストの眼差しで眺められるか。祈りながら働く、働きながら祈る、そういう関わり合いの中で生きている事が即祈りであり祭りである、私には程遠いがそんな理想を宣教の中心に置ければと願っている。 『第47回役員会報告』「海外宣教者を支援する会」の第47回役員会が、93年12月14日(火)午後6時から、東京・四谷のグロリアホール地下会議室で開かれ、次の案件を審議、決定した。1.前回、子供の絵本を多数寄贈された雄鶏社(役員の紹介)より子供の本約四、三〇〇冊の寄贈があり、この利用法については事務局に一任された。発送先や発送作業等については94年1月に検討。 2.”きずな”45号について=●今回はクリスマス前で、海外からの便りは少なかったが、エコーに寄せられた、ある会員の声は、大変感銘深いものがあった。●海外の便りに、その国の政治状勢に関する現状報告などは、編集者が取捨選択することもあるので、了承して欲しいとの編集者からの問題提起があった。 3.きずな46号について=●発行日は3月1日、巻頭言は中谷功神父に依頼。〆切は2月10日●現在、”きずな”を発送している法人、個人に、意見・感想などを聞くアンケートを出す。次回までに文面を作り検討する。 4.援助審議(別項) 会議終了後、席を移して、一年の反省会を開催。 『援助決定』('93.12.14決定分)
|