『世界宣教、祈りの旅』マリアの宣教者フランシスコ修道会 大垣 淑子
「ミッション」という言葉は、私の心に特別の響きをもって、こだまする。
まだ、フィリピンのピナツボ山が静かに眠っていたころ、私は、マニラでの勉学の合間に、ピナツボのすぐ近くのパルガの山に住む部族の人々をよく訪れ、共に住むのを楽しみにしていた。 初めて山に行った時、私はタイムトンネルで、自分が歴史の教科書で習った原始時代に戻されたような、錯覚を覚えた。 電気も水道も畑もない、そして、山といっても木のない山(日本の大きな企業が入って、全部、伐採して行ったとのこと)で、村人たちは貧しいけれど、互いに、すべてを分かちあう素朴な生活をしていた。私たちが訪れるのを知ると、山の子供たちは、麓の村に下りて待っていて、頭に荷物を乗せて運びながら、言葉のわからない私に、道々、部族語を教えてくれた。彼らの間には、山から山へ、こだまさせて、互いの意思を伝える特別な声色があった。その調子 が興味深く、私は、何度も子供たちの後に続いて練習するのだが、どうしても、何処か違うらしく、子供たちは、私が真似る度に、キャッキャと飛び上って笑った。 あれから十年以上経つが、あの時、山にこだましていた音声が、今も、「ミッシオン」という言葉に重なって、私の心に響く。 長く山の人々と暮す夢は叶わず、日本に戻り、三年前から本部で仕事をするようになって、直接、外部の人々と関わって生活する使徒職から離れた時、自分なりに、いつも、広く宣教者としての意識を保っていることの必要性を実感していた。 私たちの修道会は、日本にも釧路から沖縄まで30の修道院がありそれぞれの支部では、社会福祉や教育等の使徒職に携わっている。忙しい宣教の現場で、姉妹たちは終日、宣教の前線で頑張っていて、時には充分な祈りの時間も取れないことさえある。 それで、支部修道院に奉仕する役割を持つ本部で生活する以上、まず、宣教の現場のために祈りを送ることに専念しようと思って、毎日、支部の一つづつの使徒職を取り上げて、その日の祈りを捧げることにしていた。はじめは、意気込んで続けていたが、いつの間にか、とぎれとぎれになってしまう。 ある時、修道院の集会で、本部共同体として、宣教をテーマに話し合っていた時、たまたま、この話をすると、姉妹たちが大変乗り気で、共同体としてこれを取り上げ、毎日、皆で祈ることになった。「祈りの波を支部共同体へ」と、毎日、特別なロザリオの祈で辿る、日本行脚の祈りの旅が始まった。日本の支部と使徒職の場を、全部巡るのに、一カ月かかった。 次に「日本から海外の宣教に派遣されている姉妹たち一人一人のためにも祈りたい」との提案がされた。本会では、主に、アフリカや南米、中近東など、世界の21カ国に42人の日本人姉妹たちが派遣されている。月々のニュース・レターやクリスマスカードなど、励ましの手紙は折々に出しているが、名指しで祈ると、もっと身近に思い出し、支え合える気がする。それで、翌月はミッションにいる姉妹たち一人一人を祈りで訪れた。 全員まわり終えた時、誰かが云った。「日本人が行っていない国の宣教者たちのためにも祈らないなら、不公平だ」と。 遂に、私たちは、全世界巡りの大旅行をすることになった。 本会は、世界の75カ国に派遣されていて、54の管区がある。 早速、修道院の小聖堂の前に世界地図が取り付けられ…その日祈る管区に属する国々の、簡単な情報が提供され、私たちの「世界宣教、祈りの旅」が始められた。2カ月はどの長い旅だった。 この祈りの旅は今も繰り返し続けられ、いつの間にか、共同体の日課になっている。多くの姉妹たちが、この旅を振り返って、多くの恵みを頂いたと感じた。私にとっても、使徒職の現場で働く人々、殊に、困難な宣教地で献身している兄弟姉妹たちとのきずなを強め、連帯によって宣教者である幸せと責任を実感出来る、ひと時であったし、同時に、一人では続けられなかったことが、共同体の力によって、しかも、より大きな拡がりとなって成就されていくのを体験出来た、楽しい、有意義な旅だった。 そして、度々、私の想いは、今は深い火山灰に覆われてしまったであろうパルガの山道をたどり、あの時のなつかしい子供たちの無事を聖母に願って、ロザリオをまさぐる手に力が入っていた。 アヴェ・マリアの祈りのバックに、子供たちの声色のこだまを聞きながら……。 ミッションの皆様、私たちの祈り、届いていますか”∵・。 『第44回役員会報告』「会」の第44回役員会が93年3月19日(金)午後6時から、東京・千代田区六番町「グロリアホール」会議室で開かれ、次の案件を審議・決定した。
『援助決定』('93・3・19決定分)
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