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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『南米』






『贈られた本に読みふける子供たち』

〜パラグアイ〜
聖ドミニコ女子修道会 氏家喜美子
 …日本滞在中は本当にありがとうございました。…あの節ご援助頂きましたコピー機のこと…ようやく入手いたしました。…この機械を手にしてからは、なんと便利なこと、今まで夜おそくまでかかっていた教材作りなど短時間で出来ること…本当に感謝でございます。
 あの時、お約束下さいました本類も、三個口無事届きました、…早速、子供は喜んで読みふけっております。マンガ世界名作文学全集など、引張りだこです。去る十二日(六月)は幼稚園の運動会、六月十七日には日本語学校の運動会です。一年生の担任の私は、子供と一緒になって、かけ足です。老骨に鞭打ってと言うところもありますが、まあ、元気に働いています。十三年司牧されました、神言会のドイツ人の司教様が、今度、定年引退なさいまして、パラグアイ人の司教様に代りました。…こちらは日ましに寒さが強くなって、時々、霜の降りる時もあります。庭のミカンが大分色づいて来ました。大豆畑が見渡す限りの麦畑と化し、美しい緑が波打っています。一方では、ポアンセチアの花が其赤に咲き誇っています。
 なんとも季節感が分らなくなります。
六月十六日






『出稼ぎで教会離れ』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 林静子
 …先日、エンカルナシオンの郵便局から通知がありましたので、6月8日に税関に小包を取りに行きました。二月はじめに送って下さいました毛糸が一箱、無事に届きました。…ちょうど、こちらは冬に入りましたので、毛糸は大変助かります。日本人の奥さん方も、せっせと毛糸でセーターや帽子、マフラーなど編んでおります。
 こちらは冬は三カ月ぐらいで短かいのですが、もう、二、三回、霜が降り、朝夕はかなり冷え込みます。朝2度、午後3時は17度〜23度というように、昼間と朝夕の気温の差が大きいので、子どもやお年寄は風邪をひきやすいのが、ここの特長です。
 南米のインフレが強いので、ヨーロッパ、日本へ出稼ぎに行く人が毎月居ります。小さな子ども達と奥さんを残して、若い父親達が出かけて行きます。…若い人は二年ぐらい行きますと、何か覚えて帰って来ますので、よいこともありますが、彼らの殆どが教会離れしてしまいます。パラグアイのアスンシオンでOEAの会議が開かれました。民主政治になって、この国も随分変りました。…しかし、国民が民主々義に慣れていないので、大統領も大変です。言論も自由となり、今まで発禁になっていた新聞も発行され、皆が自由に意見を表明できるようになりました。…土地の問題も、あちこちで起っています。大統領が土地のない農民に土地を与えたいと表明しますと、もう勝手に未開発の森林に入りこんで住みこみました。
 イグアスの日本人移住地の使用していない土地にも入りこんで来ましたので問題になっております。






『中村長八師と生家の娯の木』

藤沢市・会員沢地隆治
 いつも…宣教者の方々のご努力に対し、敬服しております。
 今回(註‥31号・6・1発行)中村長八神父様の五十回忌記念館のことが報じてありましたが、同神父の生家を継承しておられる、中村裕様に記事を送りましたところ、大変喜ばれた返事がありました。中村長八神父様は、渡伯に際し、二本の槙苗を名瀬より持参、生家に植えて渡航されました。一本は倒れましたが、残る一本は、背高く成長しております。中村裕様は同神父の甥にあたり、幼時、手を引かれて散歩した日のことを壊しんでおります。
 往古の時代、槙は棺材に使用されたと聞いておりますが、中村神父様は棺材を手植えされて渡伯されたのではないかと、私なりに想像しております。中村裕様の書信では、昨年、同植樹の所以を標札したとあり(資料を)ました。私は七年前、生家を訪ねましたが同行した福江市教育委員会の職員に、教育資料として、同槙のことを利用したらどうかと、すすめた経緯があります。

 中村裕氏の資料
 「記念樹イヌマキ・樹齢六十八年」
 この槙は、故中村長八神父が、一九二三年(大正十二年)三月初旬、南米ブラジルの日本移民の精神的慰安の支えとなるため、日本政府並びにローマ法皇庁、諸関係筋による要請と斡旋に応じ、その任に添い、宣教すべく決意し、奄美大島名瀬より幼苗二本を携え、生家に還り、郷党、親族と語らいの中に、訣別を惜みながら植樹したと伝えらる。
<中村神父経歴のあらまし>
一八六五(慶応元年八月二日) 当地(福江市)に生を享く
一八七七(明治十年) 福江中等小学校在学
一八八〇(明治十三年) 長崎神学校入学(15歳)
一八九七(明治三十年) 司祭叙階・名瀬教会(31歳)
一九二三(大正十二年)八月二十五日、南米サントス港上陸(五十八歳)
一九三八(昭和十三年)法皇ピオ11世により有功勲章を授与さる
一九四〇(昭和十五年)三月四日歿ブラジル国サンパウロ州アルバレス・マッシャ・1ド市・名誉市民として葬らる(七十五歳)
一九八九年(平成元年) 三月四日福江市平蔵町二八六九番地字中入
生家継承者 中村裕しるし






『アジア』






『強い絆のパプア・ニューギニア人』

〜パプア・ニューギニア〜
カトリック信徒宣教者会 吉田勉
 私がパプア・ニューギニアに派遣されたのは、一九八八年三月。
 …私の派遣先はニューギニアの北部ウイヮックというところで、ミッションストアの経営を二年間担当することでした。ミッションストアというのは、ウイワック教区が教区活動費を捻出するために持っているスーパーマーケットで、この収入は学校、小教区の活動の一部に使われて来ました。それと同時に、ニューギニア人に仕事の場を提供することにも、この店の意味があります。この店で働くニューギニア人は三十人…彼らと仕事をしてみると、簡単な仕事を半日とか一日かかったりしますし、こちらが急ぐ仕事でも明日にしよう″とか言って来たりします。朝の開店の時間も、必らず、5分から10分は遅れます。しかし私は、このことだけで怠け者だとは思いません。まず、ここの人々のもともとの生活を考えてみると、狩猟や農業が彼らの糧を得る手段でした。動物は暑い日中の行動は控えていますから、狩は早朝か夕方にします。畑仕事は購い日光の下では大変な重労働です。そういう中で、彼等には彼等なりの生活のリズム(文化)が培われて来たのです。仕事の量、早さは、日本人や西洋人が決めているだけであるような気がします。
 また、彼らは、彼ら自身のコミュニティを大切にします。ニューギニア人は七百以上の部族に分れていて、各々、独自の文化を持ち育てています。…パプア・ニューギニアで使われている言葉、ピジン語でWantok(英語でOne talk)という言葉があります。これは、同じ部族、同じ出身地を意味する言葉です。Wantokであることは互いに、全てのことに協力関係が出来上ることです。お互いの力関係というのは本当に強い絆であって、例えば、…誰かが困っている時、皆で協力し助け合っていきます。私はこの短い二年間で、今まで日本人が高度成長の蔭で失なって来たものを再発見したようでした。…さて、私の働いていたミッションストアですが、いま、正直云って経営難に陥っています。
 というのは、他に中国系やオーストラリア系の商店が出来、価格でそれに対抗していかなければならなくなったことです。
 安く人々に品物を供給するということと、ある一定の利潤をあげて、教会や、学校の活動費を得るという二つの相反することを考慮に入れなければならないことです。
 これからの宣教について、収入源や方法について、今、現地で再検討がなされています。
 私にとって「宣教」とは教えられることでした。