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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『南米』






『ツッパリ青年は純粋』

〜ブラジル〜
聖心侍女修道会 日高和子
 …私は昨日、マリア様の被界天の祝日を終え、一息ついています。
 …このお祭りの間に、私は多くの若者たちと、また、親しくなりました。以前から顔は知っていましたが、教会活動には参加しないので、ゆっくり話すことの出来なかった若者たちです。
 …話しはじめると、たちまち彼らに取り囲まれて…質問ぜめで…彼らの質問に一々答えていたところ、一人の知り合いの青年が「神父様が呼んでいる」とそこから連れ出されました。…神父様の所に行って「何の用か」と尋ねると、神父様はキヨトン…青年を見ると照れくさそうにして「神父様が私を呼んでいるというのはゥンだ」と云うのです。彼は、私が長髪や、風体のおかしい若者たちに取り囲まれているのを見て、彼らにからまれ、抜け出さずにいるのだと錯覚し、気を利かして連れ出したという訳です。彼の心配りには感謝しましたが、別にからまれて困っていたわけでなく、その反対に彼らとの会話を楽しんでいましたので、また、彼らの所に戻りました。私は、真面目できちんとした青年は好きですが、もっと好きなのは、このように、一見逸脱したように見える若者たちです。
 つっぱっている彼らの中に、若かりし日の自分の姿を見る思いがします。……自分をどのように現わしてよいか分らないブキッチョな若者たち、彼らの中にキラキラ光る純粋なものを見る思いがします。
 …そして、一人の若者が云いましたどうして他の大人はイルマン・マリアみたいじゃないんだろう〜♂スか言いたいのかと尋ねると「イルマンみたいに、自分達に気軽に話しかけてくれない」ということでした。とにかく昨夜は、マリア様のおかげで、また多くの若者たちと友達になることが出来ました。…私が住んでいるもう一つの共同体は教会がなく、自分達の手で教会を建てようと頑張っており、昨日は労働奉仕の日でした…子供達の洗礼式のあと、すぐにそこに駈けつけ、お昼まで、みんなと石運びをしました。この共同体も貧しく、お金がないので、ビンゴやセリ市をしては、僅かのお金を稼ぎ、それでセメントや石灰、石などの材料を買い、日を決めて皆で働いています。まさに手作りの教会です…こうした善意の人々の手で教会は続いていくのだと思うと、ヤミに輝く一本のローソクのように、未来に希望をよじたらしてくれます。
一九八七・八・一七






『青少年教育センター誕生』

〜ブラジル〜
聖ドミニコ女子修道会 宮内永子
 …ある日、ブラジル人シスターと一緒に貧民窟を訪問したときから自分の周りの、貧しい子供たちが、とても気になり出しました。
 日系の共同体の方々に呼びかけ…共同体の主婦や青年男女がお手伝いに来て下さり…今年からは、二人のブラジル人シスターを協力者として頂き、…そして名前も「聖ドミニコ青少年教育センター」と呼ばれることになりました。…日曜日には、宗教や学校の勉強が教えてもらえるので、四歳から十歳までの子供が、センターに早朝からやって来ます。私たちは七時のミサに与り、親切なパン屋さんから無料でパンを頂き、子供たちに…食べさせます。昼食準備にはボランティアの日系の主婦や娘さん。午後からは、貧しい娘さんたちが、洋裁、編物、手芸、絵画などを習い、別室では…子供のために精神的豊かさを培うために、よいビデオをみせたり、時々、夕方ミサも行なわれます。これは、なかなか教会になじまない日系人のために、ポルトガル語と日本語のまじった、二世の神父様によるミサで、月一回、他の日には各会が行なわれます。こうして日系人とブラジル人たちとのきずなを育てることにより、「青少年教育センター」は生れました。最近、日本に帰った機会に…幸い「ブラジル児童福祉友の会」という一グループが、教会の中に誕生して、サンパウロの私達の仕事を励まして下さることになりました。…地球の蓑と表できずな”を深めていこうというわけです。






『日本の教会の成長を実感』

〜ブラジル〜
横浜教区 佐々木治夫
 …私は来年二月で、日本を出て満謝年になります。
休暇や用事で訪日する度に、日本の教会の変化を身に泌みて感ずることが出来たことは、幸いなことでした。
「日本は布教国です。司祭、修道女が足りなくて、外国から宣教者に来てもらっているのに、どうして、海外宣教を考えることが、出来ますか……」。
…こういった考えが、いつのまにか影をひそめ、世界の教会と労苦を共にし、共に歩もうという雰囲気が出来て来たことなど、日本の教会の成長が、日に見えるようです。
 …今年はNICEの年ですね。
 このNICEが、日本のことだけを考えないで、「世界は神の、み旨に従ったもの…」という視点に立って、日本の教会、あるいは、日本を考えることが出来れば、すばらしい成果を挙げることが出来ると思います。
 …ブラジルの現在は、政府と政策不在で、経済、社会面でのコントロールはゼロに近い状態です。
 …月20パーセントを越えるインフレに、一般国民は、ますます貧しくなっています。
 私どもの病院へ通う患者さんも、一〇〇円〜一五〇円のバス代が鰍ネく、治療も乱れがちです。
 …彼らの大半は農民ですが、昨年十月から今年五月までのインフレ率が、三〇〇%というのに、農産物は昨年より安いのですから、患者さんの苦労も大変なものです。
 …貧富の差が大きいということは、ただ、個人に関したもの(だけ)でなく、国家単位での問題でもあり、これは、決して、神のみ旨にかなったものではないと思います。
 「主の祈り」をとなえながら、その実現に努力しなければ、空念仏になります。
 この意味でも、日本の教会が、世界に目を向けて、大きく変って来ているということは、本当に簸しいことです。
一九八七・七・八






『必需品の自動車』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 林静子
 …ローシャイタ神父様が…パラグアイの私の居ります、ラパス移住地に、九月九日に…いらっしゃいました。……その時に、この前、援助する会 から頂いたお金で購入出来ました、トヨタの中古トラックを見ていかれました…お蔭様で、本当に助かります。…ローシャイタ神父様も「パラグアイでは、日動車は必需品ですね」と視察の時に云っておられました。
 …来年五月十六日〜十八日、パラグアイにパパ様がお出でになります。今まで一度もお見えになりませんでしたので、私達も、今から楽しみにお待ちして居ります。ただ今、政府と教会がお互いに歩み寄って、対話をしようという動きがあります。この、パパ様の来パをきっかけに、教会の事情がよくなるように期待いたしております。
 私の住んでいる所は、移民者が多いので、政治とは直接関係なしに暮しております。それぞれ農業に従事して、小麦と大豆を作って居ります。平和なコロニアです。ここの、小さなラパス市(ボリビアでなく)は昨年誕生し、今年十月三日に市役所の落成式があります。
 LAPAZ″は、スペイン語で、「平和」という意味ですが、その名にふさわしく、人々は、のどかに暮しております。

贈られたトラックとSr林(パラグアイ・ラパス)
贈られたトラックとSr林(パラグアイ・ラパス)






『エマヌエルの家』

〜ペルー〜
フランシスコ会 マヌエル加藤
 …日本での宣教活動を終えて、ペルーへ戻ってから丁度12年になります。…ペルーの現状、そして、問題点の原因などを簡単にご紹介いたします。一言で云うと、ペルーを含め、ラテン・アメリカの全ての国は、今は経済的に破産寸前の状態にあります。イタリアの学者ライモンディ博士は、次のようにペルー人とペルーについて描写しています。…「ペルー人は、金のベンチに坐った乞食である」と。
 金のベンチは、ペルーの国土を意味します。
 …ありとあらゆる漁…アンデス山脈の金、銀、銅などの鉱脈…果物、天然ガスや油田…ペルーは豊かな資源を持った国であり(ながら)、なぜ、それを開拓しないのでしょうか。それは、ペルーには、まだ、それを開拓する技術と資本がないからです。…今のペルーの破産的な状態…そんな中で、犠牲になるのはいつも貧しい人々であり、そのあおりを受け、子供達は人間以下の生活を強いられています。それを見た一部の二世の人々が、これまで日本人が世話になり、今は貧しくなった人々を助けようと、日系人が始めて、ペルー人のための事業をはじめました。それが、「エマヌエルの家」なのです。最初は反対もありましたが…今は皆が協力し…外部からの援助としては、とくに日本、カナダ、スイスからの援助を頂き、これまでに施設の半分まで建設することが出来ました……

エマヌエルの家の子供たち
エマヌエルの家の子供たち






『石や岩を拾って聖堂建設中』

〜ペルー〜
信徒宣教者 大橋美智子
 …私は、こちらに帰って来て以来、二足のヮラジの生活をしています。それは、前にカラバイヨに住んでいたのですが、スペイン語の勉強という目的で、リマ市内の友人宅に住んでいます。…今、カラバイヨでは、三年がかりで、教会を建築中で、外側は、殆ど出来ました。これは、毎日曜、御ミサの後、信者のボランティアが、近くの岩や石を拾って来て、コツコツ、今日まで建てて来たものです。
……最近のニュースといっても物騒なことばかりで、新聞をみても気が重くなります。警官殺しやテロはひんぱんで治安は悪いです。
インフレの物価高で、ふだんでも仕事がないのに、無職の人が溢れています。婦人たちは、給麗な刺繍をして、テーブルクロスや、神父様達のストールを作って売ったりしています。「今まで家で何もすることなく、文句ばかり、ケンカが絶えなかったのが、私達にもこんな綺麗な物が作れるんだ、と云って、夫も一緒になってやっている」……なんて聞かされると、私も勇気づけられます。
仕事もスローで、結果なんて簡単に見えないのですが、共に居て喜んだり、悲しい時は慰め合ったり、話したり…全く待つことに慣れないとやって行けない世界です。…ここに居る人々には(国や家を)選択はありません…この地でいかなる状況の中でも生きていかねばなりません。その生きる強さ、信仰には教えられます。






『中米』






『空腹・薬もなく若者は職もなく…』

〜ハイチ〜
無原罪聖母宣教女会 本郷幸子
 私のハイチの生活も、七月で一年生を終了、二年目に入りました。
 …今年は雨が多かったようで、木々も息づき、緑が印象的です。
 昨年、枯草で覆われた土地には、綿がみのっていました。
 …十一月には大統領選を控え……政治不安は続いています。…こちらの国民は、依然、耐乏を強いられていますが、自立への道を歩もう餌と、教会が光となっております。ここでまず、手助けをするなら、食べる≠アとが先決のようです。空腹を訴えているのです。大人も子供達も…。食べさせて貰うために、毎日、私達を頼っているのです。恵まれることになれたのか…知りませんが、現実に空腹なので冬められません。与えたくても与えられない貧しさ”を経験しているところです。私の働いているところは、一五、〇〇〇人の人口で、農村ですが、日雇い農民(労働者)です。自分の土地がないので、食糧に欠いています。若者は働く場がなく、何もすることなく、通りの人々をみつめています。若者のエネルギーを出させる仕事を、教会は苦しみながら探しています。それにしても、資本が必要になるのでしょうから、日本の技術者達が、井戸掘りでも、揮漑づくり、土構など、お手伝い下さるとよいのにと思っています。
私は会が持っている小さい病院の薬局で働き、薬の供給をしています。流行期の病気の薬を欠く時があり、心痛む思いです。薬の総てが輸入に頼っているため、船が着かない時は、どこを探しても、手にすることが出来ません。在庫をいつも確保しなくてはなりませんが、そういう余裕もなく、薬の高いことが、人々を苦しめています。薬代が高いと、病人は医療になかなか親しめず、ブドウ教などの占い、まじないなどで治療しようとしています。…保険制産もないので、家に病人が出ることは、家庭破壊にもつながる状態で…家族の重荷は大変です。病院では、そういう家庭に無料で奉仕していますが、やはり限りがあります。
10月2日






『北米』






『『WHO』

ARE YOU? カトリックって何?』
〜カナダ〜
師イエズス修道女会 原田昌子
 …カナダはアジア・アフリカより、物質的には豊かですが、難民の流入が非常に多いです。政府の政策がその点に寛大ですから、彼らはやって来ますが、仕事や住居を見つけるのに苦労しています。
 私達は、直接、それらの仕事に携わることはありませんが、私達の修道会で経営する典礼セン々′―に訪れた時は、出来る範囲で援助をしています。また、多様な国籍人とでよじ云うのでしょうか、日本  から、はじめてこちらに来た私には、ありとあらゆる国の人種が集まった国というような印象を受けました。ある時、街を歩いていましたら、員ぎO are y空と聞かれたので「私はローマ・カトリックのシスターです」と答えると、真面目な顔でカトリックって何ですか≠ニ聞き返され、ギョッとしてしまいました。カナダはカトリック国と言われますが、最近は人々の変動や時代の流れと共に、どんどん変って来ています。そして、こちらは、第三世界と違った意味での布教が必要なのではないかと思います。
 トロント日系人会では、月一回、スカボロ宣教会で、ボルジャー神父様とともに、日本語ミサと団欒の一時を過しますが、いま、稲川神父様がローマの勉学を終えられて、私達の共同体に霊的桂を与えて下さっています。今年中、カナダにいらっしゃる予定で、その間、日本語の黙想会などを計画して、与えられたお恵みの機会を、圏L効に利用したいと思います。






『アフリカ』






『アフリカの真珠、今や荒土に』

〜ウガンダ〜
聖パウロ女子修道会 鈴木寛子
 …私は一九八五年、初めてウガンダの首都カンパラに着きました。
 …十数年前までは「アフリカの楽園」「アフリカの真珠」と呼ばれていたこのウガンダも、内乱に次ぐ内乱で、昔を偲ぶよしもありません。私がウガンダに到着し、まだ、右も左もよく分らないでいる時、クーデターが起りました。一九八五年七月のことでした。外国人には、それぞれの国の大使館や公使館、また出先機関から、本国に帰るようにとの勧めがありました。命の保証は出来ないということでした。私たちは、帰国しようか、どうしようかと話し合いました。しかし、祈りのうちに皆で出した結論は「危険だからといっても、外国にも逃げられないこの国の信者さんと共に居て、何か助けになれたら」ということでした。そうしている間にも、激しい戦斗は続き、私達は修道院を一歩も出ることが出来ません。連日、聞えて来るのは、たゞ、いろいろな銃声や大砲の炸裂する音、飛行蹄の爆音だけでした。…私たちは何も出来ず、たゞ祈りながら、四人で一番安全そうに思える部屋の隅で懐えているだけでした。
クーデターも収まり、外出も出来るようになりました…が、ゲリラ戦は毎日のようにあります。ある時、私は書院から帰って、夜、休もうと寝室に入ると、ベッドに銃弾が撃ちこまれていました。
 この二年間、情勢が不安定なため、あまり広範田な活動は出来ませんでした。主に私たちはカンパラ市にあるセントポール・ブックセンターで働くことと、カトリブタ学校にミニ・ライブラリーを作ってゆく働きをすることが出来ました。しかし、紙もないので、本はすべて外国からの輸入です。イギリスやインドから本を輸入し、他のものはイタリアで印刷しています。本があっても読んで頂けないのではなんにもなりません。それで、出来るかぎり安い定価をつけています。
 …宣教地では、どこも同じでしょうが、ここウガンダも車なしには動きがとれません…私たちウガンダの宣教者たちは教区、修道会、宣教会の垣根を越え、皆、一致協力して助け合っています。ですから、ある会に援助が届いたら、それをみんなで分け合い、現地の一番必要としている所に届くようにするなどの工夫をしています。
 また、毎週金曜日はチャリティ・ディで、食べ物のない人にサンドゥィッチなどを差し上げています。
 内乱つづきで、国土も荒れ果て、子供たちも教育が受けられない有様です。とくに、それは、農村や地方に行けば行くほどひどくなります。北部のカトリック学校や病院はいくつも閉鎖させられています。…ウガンダの子供たちのことを考えると、そして、教会が閉鎖させられた地方の人々のことを思うとき、「牧者のいない羊のように…」のみ言葉が、今日も、私の頭から離れません…。