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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アフリカ』






『対岸のアンゴラを眺め感無量』

〜ザイール〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 中村寛子
 …日本を出発して、もうそろそろ二年になろうとしています。
 …管区長から「今アフリカに生きる」(が)発行されたと知らせを受取り、とても喜んでいます。…七月七日にようやくザイールに着きました。気候、風土、人々等々、とてもアンゴラに似ていて、我家に帰ったような気分で…アンゴラでいつも感じていた緊張感がなくて、平和であることの有難さを感じました。…七月は主都キンシャサ周辺の六つのコミュニテを次々と訪問し、そのうちノビシアでは、激福永と久々の対面をしました。…八月にはザイールの西、ザイール河が大西洋に注ぐ港町に、六百キロ近くあるのですが長距離バスで行きました。…旅も終りに近づいたところでザイール河を渡りました…修院のある町は河沿いで…向う側はアンゴラです。向う岸をどんな思いで眺めたか、お察し下さい。
 九月には、キンシャサから六七五キロ南の別の方角、アンゴラ国境近くにある修院を訪問し、そこに一カ月滞在。……ここに来るのに朝三時にキンシャサをジープで出発して、夜七時にようやく着きました。はじめの二七〇キロはアスフ丁ルトの道路でしたが、残りは砂地、……泥とひどい道で、一カ月過ぎても、車があまり跳ねるのでついた黒いアザはとれません。…ここのミアシオンは私どもの会の優先選択の条件を全部叶えています。貧しく…疎外され…辺都で、もし宣教師たちが引き揚げたら生活出来そうにもない所です。イエズス会士と協力して、学校、診療所、産院を開いています。なかなか働きがいのある所と感じました。……ここでマラリアにかかり一週間ひどい目にあいました。点滴までされて、これからはザイール人のように腰に布を巻いて、蚊に刺されないようにしようと決心しました。……(※係から…Sr中村は、「会」発行の「今アフリカに生きる」の中で記されているように、内戦のアンゴラで反政府軍の描虜となり、抑留生活を匹カ月間送られました)






『月蝕の夜の宴』

〜シエラレオーネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
 …ルンサはいよいよ乾期に入り、毎日、フクーという暑さです。もう少したちますとハマターンがやって来ますパマターンとは北見が吹き、サハラ砂漠の砂を運んで来ますので、太陽もほこりで見えなくなるようです。…砂が降り、どこもかしこもホコリでいっぱい。
 骨までカサコンするような乾燥状態になりますパマメーンは気温が低く、最低気温(は)ルサンでは昨年22度Cを記録しました。…今年はこれがやって来ませんのでとても暑く、太陽はキラキラと輝いています。先日は美しい月蝕が見られました。月蝕のことを、チムイ族はヤンクーへー″と云って、その夜は町中がおどり歌い、タンホールを叩いて大騒ぎします。月が食べられて≠オまうので…静かにしていないで物音をたてて月を食べる奴を追い出そう≠ニいう訳だそうです。中学生(など)は、理由を知っていますが、やはり、習慣として一緒になって騒いでいます。
 悲しいニュースとして、OLGの生徒が一人亡くなりました。原因は盲腸の手遅れでした。…今年は、小・中学生七人が神様に召されていきました。…死因はマラリア、脳膜炎、結核、栄養失調、チフス、その他の伝染病です。学校には時々コブラやヴアイパー等の毒蛇が出没して吃驚させますが、幸い、蛇は音を聞くと逃げて行く…ので被害は受けていません。しかし、村や家に帰って噛まれる人もよくあるので、私どもの所には黒い石″が準備してあります。
 神様は素晴らしいです。この自然の黒い石は、噛まれた傷口にピタリとつけますと、毒をどんどん吸いこみ、その人の命を救います。もう何人もこの石で救われました。
 …久しぶりに日本人の青年がルンサにやって来ました。彼は12歳の時、両親とともにアメリカに渡り、今回、アメリカ人として平和部隊に加わり……シエラレオーネにやって・来たそうです。ここから車で一時間のマケニ(という所)に住(み)、カトリック男子中学で物理の先生をしています。「日本人に会いたくてやって来ました」という青年は「四カ月ぶり…」と、ごちそうしたとっておきのラーメンに舌うちをして、大喜びでした…。
 一九八六・一二・一一






『25フラン残して現金全部盗られた』

〜ベニン〜
マリアの御心会 道下美和子
 …先日はお手紙、カレンダーありがとうございました。今日は顕微鏡が無事に着いたことをお知らせします。いろいろと…ありがとうございました。……こちらは今、ちょうど乾期の真最中です。乾期中に一雨来るのが常なので、この雨を今か、今かと待っています。
 木々やそこら中がホコリだらけです。診療所の方は、今、ペナン人のシスターの看護婦さん一人、日本人の看護婦一人、そして私の三人で働いています。今年はハシカが流行しています。二〜三年毎に流行があります。また、去年の終りごろには、マラリアも流行りました。今年はとても蚊が多いです。こちらの政治、経済も平穏を装っていますが、学生の動きや給料の遅配等で、あまり好ましくないニーースが流れています。また泥棒なども多くなりつつあります。
先日はこちらのベネディクト男子修道院が、武装した五人組に襲われ、25フランを残して現金すべて盗られてしまいました。でも、修道士の方は無事でした。一九八七年が明るい平和な年であるように祈っています……。
 一九八七・一・二四






『やっと豊作が……』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 有薗順子
 …私は十月一日、ライに帰院し、ホグとしています。道中いろいろなことがありました。とくにライ近辺餌キロぐらいの所で、軽トラックが一時間も泥の中に立往生し、善良な村人達は、鍬やスコップを持って救援に駆けつけて下さいました。それからは三〜五メートル毎にある、三〜十メートル余もある大きな水溜りの深さを計りながら進まなければならず、普通なら四時間余の道のりを八時間もかかって、やっとライに帰ったことでした。…今年は二年前と違い、雨量も多く、粟をはじめ各国からの協力隊によって組織された稲づくりも大成功で、日本の田園を思わせる見事な出来栄えを神に感謝しました。豊作に影響されて学校は二週間余も遅れてやっと十月六日から、私の技芸センターは、さらに一週間遅れて始まり、幼稚園、衛生指導、公教要理等、すべての活動が一斉に始まります。
 平和の兆しの見えはじめたチャドに住む人々が其の幸せを知る日が、一日も早く訪れますように……。
 一九八六・一〇・一五






『洋裁、編物の作品展示会を』

〜アルジェリア〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 中村節子
 祈り、支援、「きずな」よりのニュース等によって支れられつつおかげ様で、元気でおります。十月の平和祈願の集い(アシジに於て)には、信徒、日本の仏教徒代表も参加されたとか、希望のあるりユースが伝わって来ました。私たちのこの小さな地方教会でも、この世界中の祈りの申に、ささやかな集いを通して参加しました。
 お願いした「洋裁、編物の本」は、十月中旬、全部無事に着きました。首都アルジェより、さらに親切な人々の手で少しづつ運ばれて来ました。
 十月末、私たちのアトリエでは、この本によって学んだ作品も交えて、展示会をし、見学者に日本からの「美しい本」を公開しました。生徒は約三十名、身障者だけでなく、一般の人もまじえて、さまざまです。中・高生、幼稚園の保母さん、中高の先生、お勤めの娘さん、家事、主婦、主婦の中には未亡人が数人です。
 この市内には養成施設(家政科)が未だ無いので、人々の必要に出来るだけ応えていきたいと蘇っています。






『南米』






『管区本部落成』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 宮入キワ子
 …今日(*一九八六年十二月八日)は、私どもの会の97周年の創立記念日であり、また、教会の大祝日。パラグアイでは、殊に盛大に祝います。この佳き日、私達は管区本部の落成式を祝うことが出来、感謝しています。神言会の司教様、司祭方、神学生達も来られ、ミサの歌も一段と大きく、すばらしい一目でした。来年(*一九八七年)二月からは修練期も開始されます。まだ生れて七年にしかならないパラグアイの私達の管区ですが、若い人々の中から、召命も多く、希望を持って、これからの道を歩んで参りたいと思います。…一九八六・一二・八






『母国語で語れる喜び』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 林静子
 …私どもの住んでおりますラパスの教会も、一回は突風で、もう一回は建築中に壁が崩れて大変でしたが、お蔭様で九月二十九日(一九八六年)に落成式、献堂式を行なう事が出来ました。また、先日、電気工事も済みましたので、今年のクリスマスは明るい聖堂でお祝いが出来ます。もちろん、まだ、電気がコロニアに導入されておりませんから、手回しの発電機をその晩だけ使用することになります。
 教会の横に、木造の信者会館が建築される予定で…今、土台が出来、屋根の棟木が出来つつあります。…本部建物の落成式…で、日本人のシスター五名とフィリピンのシスター一名が久しぶりに集まることが出来ました。皆、各地に散らばって宣教いたしておりますので、たまにしかお会い出来ません。母国語で語り合うことが出来るのも楽しうございます。……今日(十二月八日)は、パラグアイの守護聖人カアクベの聖母のお祝い日にも当りますので、朝から、爆竹がボンボン鳴らされ賑やかで…巡礼者が多勢バスまたは徒歩で巡礼いたします。テレビ、ラジオでは九日間のごミサも放映されました。
 マリア様に対する信心は、南米では非常に盛んで…民間信仰の美しい面を見ることが出来ます…。
 一二・八…






『移住地を去り、修院へ』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 山田雲江
 私の方、おかげさまでこの一年、大病の後とは誰も信じられない…と言われるくらい、寝こむこともなく無事に終えることが出来ました。あしかけ二十年、イグアス移住地に於いて宣教に従事させていただいて来ましたが、私の健康と、また、日系人宣教者の不足から、この移住地の宣教を離れ、修道院へ帰ることになりました。……日系人宣教者の不足…これは、私が修道会の…特別の宣教への配慮、理解のもとに、移住地のためにと共同体を離れ…修道院外で…一人で修道生活をして来たからです。この度、総視察があって、これ以上、この、一人の状態で続けることは難しいことから、宣教を離れ、他の修道会に依頼することになりました。
 …イグアス移住地での宣教は、幸いにも仙台ドミニコ修道女会から同会員を派遣して下さることになり、継続していただくことに決まり、移住地の方々、また、移住地に住んでおられるパラグァイ人の方々も大喜びで、一日も早く、ドミニコ会のシスター方がおいで下さることを待っています。これからはドミニコ会のシスター方を通して、この移住地での宣教のことがきずな″を通して、皆様に届けられますでしょう。……これからは、今までと違って、全くの、現地の社会の中で、修道会の仕事と祈りを通し、また現地の人々の中で、教会の宣教に従事し参与していきます。有難うございました。

イグアスの幼稚園の運動場で
イグアスの幼稚園の運動場で






『ひどくなるインフレの中で』

〜ボリビア〜
礼拝会 斎藤クニ子
 ボリビア・サンファン村の貧しい児童のため、学費、その他の援助金を頂きまして、まことに有難うございました。子供達もどんなにか感謝することでございましょう。…日本人移住地に職を求めて集まって来る現地の人が年々増加し、その子弟も、それに応じて増えて来ました。日系人二世の二倍、三倍にまでなりました。
 日本人の方々は生活も安定して来ましたが、現地の人は、このインフレにひどく貧乏をしております。私どもの仕事は、これらの人人にキリストを通して食を得る方法を教え、病を防ぐことに協力し、たゞ、物を与えるだけでなく、共に生き、分ち合うことです。
一九八七・一・一四






『養護施設ようやく完成へ』

〜ペルー〜
フランシスコ会 マヌエル加藤神父
 …私が三年前に日本に伺いました時以来、皆様の御協力のおかげで日系の人々が中心となって、養護施設を建築しておりますが、お蔭様でその半分以上を完成することが出来ましたので、十一月の終り頃に、その祝別をしたいと思っております。ペルー人に対して日系のはじめての事業となりますので、大統領夫人を御招待することになっております。まだ未完成ではありますが、捨て子の多いペルーのことですので、完成を待たずに三十名だけ収容することになりました。収容能力は五十名なのですが、当地は福祉も遅れており、政府の援助はありませんので、児童の生活費はもとより、教育費や、世話をして頂くシスター方、使用人の生活、その他建物の維持費など、全額我々が負担していかなくてはなりませんので、三十名に止めている次第です。
 …この毎月の維持費は、日本円に換算しますと十三万円程ですが、現在のペルーでは、千二百万ンーレスに当り、ペルーに生きる者にとっては大変な金額になるわけです。…最近、ペルーはIMF(国際通貨基金)より、被融資非適国と宣言され、その援助も切られてしまいましたので、私たちの立場も、ますます厳しくなることが予想されております。現在、日系コロニアも、三世、四世の時代となり、明治より大正、昭和初年にわたって移住して来ました一世も老齢となり、大多数が七十歳を越し、寝たきり老人″の数が増えておりますので、その方々の訪問にも追われております。…一九八六・一〇






『ジョジーニョのこと』

〜ブラジル〜
聖心侍女修道会 日高和子
 挨拶もなしに他所に移って行った仲良しの貧しい家族のことが気にかかっていたところ、年金の手続とお別れの挨拶のために、主人のジョジーニョが急に戻って来て私たちを驚かせました。この年寄のジョジーニュは、年老いた妻と知恵の遅れた息子と娘の四人で、修院からほど遠くない所に住んでいました。そこはベゴーニヤの担当地区だったのですが、数年前、私がベゴーニヤに頼まれて、クリスマスの九日間の祈をその家で行なって以来、家族とすっかり仲良しになりました。貧しく、時々、食べるものもなくなり、その上、子供たちをかかえているのに、いつも神様を信頼して生きているこの人達は、私にとって大きな慰めのもとで、私は疲れたり、行き詰ったりすると彼らを訪問し、また、元気を回復したものでした。
 …ゴイアニアに住んでいる(もう一人の)息子さんが、今回、自分たちの傍に両親を住まわせるために呼び寄せたというわけです…。
 新しい生活は、一つのことを除けばうまくいっているようです。その一つのことは息子さんの奥さんのことです。彼女は善い人だそうですが、クレンチ(カトリック外のキリスト教徒のこと、ものみの塔、エホバの証人のようなもの)で、ジョジーニョの家族をクレンチにしようとして、うるさいのだそうです。それでもジョジーニョは、頑として「自分は死ぬまでカトリックに忠実にとゞまる」と誘いをはね返しているわけですが…。この読み書きも出来ず、カトリックについても、殆ど無知に近い老人の何処に自分の宗教に対する愛と忠実さがあるのかー私は尋ねてみました「誰があなたにカトリックについて教えたの?」との答は「母」ということでした。
 彼のお母さんは、自分の子供たちに、まだ物が言えない暗から、手を合わせること、十字架の印など、手をとって教えていたそうです。そして口伝えに、自分の知っているお祈りを教え、脆いて祈る時は、どんなに足が痛くても、終るまでは、椅子に腰かけることを許してくれなかったそうです。…お別れの時、(子供)二人には、.瀬戸物の動物の置物、バイアの民芸品、奥さんにはアパレシーダの聖母の像がはまった置物、そしてジョジーニョには金ピカの…大きな十字架をあげました。まあ、その喜びようは想像を絶するものでアパレシーダの置物と十字架をかわるがわる眺めて、今にも泣き出さんばかりの感激…遅れて帰って来たベゴーニャ(も)…教皇様のご絵もあげました。私が「ジョジーニョ、これでもう、あなたが口を開かなくても、あなたの家に入っただけで十字架はある、アパレシーダの聖母の置物はある、教皇様のご絵もあるで一目瞭然」と言うと、また「自分たちは、死ぬまでカトリックにとどまる、誰がなんと言おうと」と繰り返していました。…一九八六・一〇・二






『アジア』






『育ったソーインググループ』

〜フィリピン・イサベラ〜
聖母訪問会 諏訪清子
 昨年(一九八五年)の夏から約一年、フィリピンを留守していました。帰って来て第一番に、ギバン村のソーインググループの仕事場をのぞいてみてホッとしました。人々は、出掛ける前と同じょうに仕事を続けていたからです。…久し振りに見るグループの中に、私が見逃すことのできなかった一つの変化は、メンバー達の顔に落着きと平和が窺えたことです。十月のある日、グループの人々と話合いをしました。その時の人々の声をお伝えしましょう。
 毎日の仕事にありつける喜び、月に二度正確に、正当な給料が入ることの安心感。子供を学校に行かせることの出来るようになった感謝。毎日、お米が現金で買える生活の落着き、自分の家族のことしか考えられなかった過去の苦境から少しづつ他人に関心が向けられるようになった進歩等々…。
 人々の言葉にもあるように、このグループから数名のヘルスワーカー達が育ちつつあり、村人の健康管理に奉仕することが出来つつあります…この暮のボーナスは、一人当りブランケット一枚とファミリーサイズの蚊張一張でした。






『体力向上のため、園児におやつ』

ギバン保育園 小田美恵子
 今年(一九八六年)二月に開園したギバン保育園は、四月に24人の子供を送り出し、再び九月より新しい24人を迎えてスタートしました。新しく園庭を整備し、砂場やタイヤの固定遊具も出来、トイレ、水道も増設し、少しづつ保育園らしくなって来ました。…子供の体力向上を目指して十月から、週一回のおやつを始めました。
 当初は、毎日ミルクを出す予定でいましたがミ、ルクの殆どを輸入に頼っているフィリピンでは、ヨーロッパ産のものが多く、折しも、放射能汚染のニュースが伝わって来て中止することにし…ココナツ、バナナ、もち米、さつま芋などを使った…独特のおやつに切り替えましたが…一カ月5ペソ(日本円で50円)の月謝では、毎日出すのは無理ということになり、金曜日だけになってしまいました。
 それと同時に母親をグループ分けし、交代でおやつの料理と掃除当番をすることにしました。子供の栄養面だけでなく、母親の組織作り、社会参加にも繋げていければと思っています。子供たちは、毎回、嬉しそうに「アテ(おねえさん)おいしいネ」と喜んでいます。
 …おかしなイロカノ語を話す変な外人の私を「アテ・アテ」と慕ってくれる子供たちに支えられて、毎日、試行錯誤の中で生活しています。






『聖堂はぎながら大きな馬小屋』

〜インドネシア〜
聖母カテキスタ会 浜谷真佐美
 …今日はメダン市にある北スマトラでも一番大きいと云われているカテドラルの聖夜の様子、郊外の巡回教会…パンチュルバトウ聖ペトロ教会の25日のミサを…お知らせします。
 …カテドラルの聖夜ミサは、大司教様司式で、0時から、教会堂のアンジュラスの聖夜の告げから始まります。お聖堂の聖祭壇全体を聖馬小屋に仕立て…お聖堂に入ったとたん、私たちは聖なる、大きな鳥小屋を訪問しているような感じが致します。…三回のミサは、聖堂に入りきれないで、庭で足を蚊にやられるのもものともせず、マイクから流れ出る内部の様子を、信者達は熱心に聞きながら、外でごミサに与かっています。昼は、はみ出た人は汗をふきふきごミサにあづかるのです。…パンチュルバトウ聖ペトロ教会(で)は、聖母の騎士会のイタリア人宣教師が3回のミサのうち、2回来て下さいました。私は25日の朝八時〜九時まで続いて、会食を信者一同と共にしました。……私達お客や神父様等には、お皿にご飯を山盛りにして、ブタ肉に野菜を…つけて長い時間かけて手で食べます。
 …信者たちはバナナの葉を二枚重ねてご飯と肉(を)みな手で食べます。おいしいです。メダン市のフェスティパルは、丁度、日本の学園祭の催し(もの)に似ています。レトルギーと云って、クリスマスには絶対に欠かせない行事の一つで(す)、創世紀の一章の始めの方と、新約のルカ、キリストご降誕までの各l節を大人の部と幼児(3歳〜6歳まで)、小学、中学、高校(生)まで順々に唱えていきます……。






『異教徒でも受容れられて』

〜タイ・タートンマイ〜
聖母被昇天修道会 長美紀
 …七年前に聖母被昇天修道会フィリピン管区のシスター達が、はじめてタイに派遣され、支部が誕生しました。その後三年経って日本から私がそのコミさニティに参加し、現在、フィリピン人のシスター達四名と一緒に生活しております。私は今年で四年目を迎えます。私の住んでいる所は、バンコクから汽車で13時間南へ下ったスラータニ県タートン郡、その中の小さな貧しい鼻村、タートンマイです。村民はモスレム教徒、仏教徒です。ここで三名のシスターは、スラタニ司教管区社会行動センターで働き、私ともう一人は修道院の周りに住む人々を訪問したり、日曜子供集会を手伝って、近所の子供たちと接しています。
 タイの南部は北部タイに比べると緑も多く土地は豊かだと云われています。しかし、近所の子供達は一日に二食しかとっておらず、いつもお腹を空かしている状態です。
…私たちは雨水をためて生活しています。飲み水には、それを沸かし、布でこして使用します。それでもいつの間にかポーフラが泳いでいるということが度々です。乾期を迎えると二つあるタンクの水も底をつき…空を仰いで雨乞いしたことも度々でした。
…修道院は民家を少し改造したマッチ箱のような家、私たちはこれを「ナザレトの家」と呼びます。周りは田んぼ、遠く原始林が続いています。…日曜日になると、四十名の子供たち、それに大人五、六人(見物と食べ物売り)が集まって賑わいます。ここでは子供達の集まる所には必ず食べ物を売る人が来て店を開きます。
……朝四時になると、モスレム教の人たちが歌う美しい祈りが聞えて来ます。…宗教はなかなか受け入れませんが、お互いにあいさつを交わし、少しづつ私達を受け入れてくれるようになったことは、私たちの一番の喜びであり、慰めです。近所の家族はタイの食事(目が飛び出しそうに辛い)を作って持って来てくれたり、…「熱が出た」「子供が病気になった」と云って、修道院に薬をもらいに来ます。……日本の物質的な豊かさに比べると、こちらは非常に貧しく、子供たちは何一つ、満足なおもちゃなど持っていませんが、自然の中で伸び伸びと遊べる子供たちは、ある意味で幸せだと思います。
 たとえ、どんな服を着ていても、どんな格好をしていても、それを見て笑ったり、からかったりしません。年上の子が弟や妹の世話、お守りをし、食べ物を箕うと、どんなものでも一人で口にせず、お互いに分け合っています。貧しくても、子供たちの心は豊かで、思いやりのある子供達に心を打たれます。
今では、私達が村を歩いていると、小さな子ども達が「シスター」「シスター」と声をかけてくれたり、大人たちは「どこへ行きますか」と云って微笑んでくれます。……

一九八六年クリスマス会カレット司教を迎えダイダンスを踊る子供たち(タイ・Sr長)
一九八六年クリスマス会カレット司教を迎えダイダンスを踊る子供たち(タイ・Sr長)






『金祝を迎えたあるシスター』

〜台湾〜
メリノール女子修道会 小合悦子
 …12月8日には、私と一緒のSrアグネスが、メリノール入会50周年のお祝いをしました。17歳で入会し20歳の時は、もう中国の広西に派遣され、日本軍の空襲を経験しました。戦争のため止むを得ず、アメリカに帰り、各地のチャイナタウンで奉仕し…昭和34年に台湾に来ました。……金祝のお祝いに鹿港(台湾彰化県)では7日、日曜日にミサと宴会があり、二盲人を越える友達が、再会に…喜びを見せて、私たちの小さな教会を充たしました。…次の日は台中の修院で、メリノールのシスターたちのお祝いがありました。81歳で山奥のミッシーンに隠者のように籠っていられるスプリンクル神父が、わざわざ出て来て下さいました。神父様はシスターが最初のミッションで、日本軍の爆撃に遭った時の主任司祭だったのです。
 …教会も、今年は二度の台風に出会い、まだ、その修理が終っていません。でも、一度は冬のように枯れた庭も、また、緑が戻り、バラの花も満開です。……現在私は、三つの違ったグループ(台中の社会服務研究院、彰化教会、鹿港教会)を通して福音を伝えています。
 参加者が、だんだんと自分を知り…神を知るのが体験されます。
 でも、私達にもいろいろ障碍があります。わるい天気、流感、仕事時間の増加など、参加者の出席を妨げます。……






『もっと手を貸して″』

手を貸す運動代表 佐藤正明
 …今年度は多くの方々のご協力のおかげで、(手を貸す運動に)かってない程の援助資金が集まりました。…世界には貧窮ゆえに学校へ行くことの出来ない子供たちがまだ一杯居ます。そういう子供の中で、本人に学ぶ意欲と能力があり、親も学ばせたいのに学ぶことの出来ない子を…既に5年余り援助して来ました。…私達が手を貸し″てあげているのは、まだ、シエラ・レオネのほんの僅かな子供達だけですが、もしも、多くの人々が同じようにしてくれるなら…「愛の小さき業すらも地をば神の国となさん」(讃美歌聖ということの実現も信じられると思います。…現在シエラ・レオネは、ものすごいインフレ、…郵便車情はずっと良くありませんでしたが最近は特にひどくなっているようで、―何物はおろか、手紙も確出天には着いていません。…今日のような情報化社会の時代に、シエラ・レオネのような国があることは信じ難い佗どですが、そんな中で、飛び切り現代的だなあと感じたことが一つあります。今年度は多くの方が手を貸す運動″に参加して下さいましたが、殆どは、Sr板岸の仲介による方々でした。私はそこに、宇宙衛星との相似を見たのです。同じ日本に居て、同じ志を持ちながら、お互いの存在を知る術もなかったのに、アフリカのSr根岸経由でお互いが知り合えるとは、まさに、宇宙衛星経由の通信通話そっくりではありませんか!。私達は日本に居て、この程度のお手伝いしか出来ませんが、物も不足、通信交通は不便、病気の危険は多く、慣習や異なった気候自然の中で努力しておられるシスター方には、本当に頭が下がります…。