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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

たより


カナダからタンザニアの小さな村へ

~タンザニア(ニヤミレンベ)~
天使の聖母宣教修道女会 杉山 あさ子
  “エンマヌエル”私たちと主におられる主! 私たちのうちにおられる主に賛美と感謝!
  今日は私にとって思いがけないプレゼント、よろこびの日、遠い日本から暖かな心を届けてくださった支援する会の会員の方に心から感謝! ありがとうございます。こうした沢山の人々の支えによって、宣教生活ができるだと思います。それは本当に力とよろこびになります。
  私は昨年2月末タンザニアのミッションに着きました。5年ほど住んだカナダから直接こちらに来ましたので、「支援する会《には連絡をとりませんでしたが、昨年10月「きずな《が届きました。きっと日本の修道会がお知らせしたのだと思います。
  私の住むニヤミレンベの村は、首都ダレ・サラムからは遠く離れ、赤道直下のビクトリア湖に面したルワンダ、ウガンダの国境に近い、小さな、小さな田舎の村です。人々は主に農耕と漁業の仕事で生活しています。大自然と共に生きる人々の生活は、とても厳しいものがあります。
  今は雨季で人々は朝6時頃から田畑で働いています。主に米、とうもろこし、豆類、いも類を作っていますが、充分な雨が降らないと、作物が見る見るうちにしおれかかっているのを見ると、心が痛み、宮沢賢治の詩“雨ニモマケズ”がふと思い出されます。
  電気も水道もなく、雨水が頼りです。水汲みの仕事は、子供、婦人の仕事です。特に、女子、子供たちは手伝うというより、よく働きます。学校に行きたくても、貧しさの故に行けない人々もおり、読み書きのできない婦人、子供も沢山おります。私たちの姉妹は、識字学級を開いたり、少しでも自立につながるようにと洋裁を教えています。また、村の小学校、中学校で要理を教えている姉妹もいます。私はスワヒリ語を学びながら、家の仕事、養成の仕事に携わっています。
  新聞もなく、情報が少ないので、時間がゆったりしている感じです。ここの人々の単純さ、暖かさの中に神さまの存在を感じ、励まされている私です。思うままにこちらの様子を書きましたが、新しい生活のご報告まで。心からの感謝を込めて。
(縦位置  イラスト)
Sr杉山



乳児院にスペイン王妃が来訪

~セネガル(ダカール)~
マリアの宣教者フランシスコ修道会 玉木 照子
  会員の方から美しいカード、きれいな切手、そしてお祈りをありがとうございました。ただ今、こちらは日中汗ばみ、夜は毛布一枚、蚊帳は一年中、クリスマスには木綿の半袖、ビーチサンダル、というとても快適な生活です。サハラ砂漠の風が吹き始めましたが、太陽が照って、洗濯物もあっという間に乾きます。
  乳児院ではスペインのソフィア王妃の来訪で、スペイン国から援助をいただき、増改築が行なわれました。40床が80床に増え、それに補助ベッドも入り、乳児が100吊近くになり、大忙しです。老骨にムチ打って、頑張っています。72歳になりましたが、私共修道者には定年がありませんので、神さまからのお恵みで力をいただいて、毎日元気で働いております。感謝! 乳児院の責任者がスペイン人のシスターで、何かと助けてくださいます。
  こちらは港が近いので、年末には日本の除夜の鐘のように汽笛が鳴り、今年も無事にと祈っていたのですが、最近はこの汽笛が聞かれず、寂しくなりました。多分、外国船や海兵隊の軍艦がいなくなったからでしょう。
  フランスからの政府援助が減って、経済情勢が悪くなり、娘さんたちが仕事を求めても難しくなってきました。毎週水曜日の午後、宿舎のセネガル人シスターが仕事を捜している娘さん、おばさんたちのお世話をしているのですが、皆が外国人の家での仕事を希望し、土地の人の家では働きたくないようです。それは仕事の条件や給料の支払いが悪いからです。ここの乳児院の赤ちゃんの世話などで、長期間働いてくれた娘さんたちが時折顔を見せてくれると、私共も嬉しい限りです。しかし、最近の若い人は、なかなか同じところで働き続けることができないようで、とても残念です。
  1月3日は「ご公現《の祝日、本当に神さまのなさることにおどろき、よろこび、上思議…。本当にいろいろとお心遣いありがとうございます。協力隊員として当地におられた方が、帰国されるというので、声を掛けてくださいましたので、幸便を利用させてもらって、お手紙するしだいです。皆様どうぞお元気で。


教育の効果も見えてび

~カメルーン(バトゥリ)~
シャルトル聖パウロ女子修道会 末吉 美津子
  1月12日、80km離れた町に行きましたら、うれしいニュースを手にしました。それは海外宣教者を支援する会からの同意の領収証が同封された手紙を受け取ったことです。心より皆様方に感謝いたします。そして、皆様方の心を動かしてくださった聖霊にも感謝いたしました。その後、22日に皆様からのカレンダーつきのクリスマスカードが私の手元に届きました。心より感謝いたします。森の中でカレンダーを手にすることもなく、2010年をどのようにして過ごそうかと思案していた矢先でしたので、机の上に置いて、毎日見ています。
  2009年~2010年分の寄付を確かに受領いたしまし。丁度2月に修道会の総会がフィリッピンでありますので、その時にカメルーンの地区長が持ってきてくれることになっています。幸い手数料も取られず、全額私の手元に届くことになりますので、喜んでおります。
  また、寄宿生一同喜んでおりますが、うれしいことに、ピグミの子供たち16吊全員の成績は合格、2学期も全員が寄宿舎に戻ってきました。その他バントゥー族の子供が5人おりますので、合計21吊です。勉学に少しずつ興味を持ち、35km離れたところから徒歩で来るようになりました。彼らのメンタリティも少しずつ変化し、勉強して、立派な人間に成りたいという気持ちが育ってきているように思えます。私と担当の職員は手を取り合って、喜んでいます。これも皆様方からの援助があるからこそ、私の仕事がうまく運べるのです。何とお礼を申し上げたらよいのでしょうか。心に熱いものを感じるばかりです。これからも彼らのためにご支援を続けていただければ幸いです。
  年々増加する品々、森にいる私たちもその影響を受け、食料が高くなり、悲鳴を上げています。でも畑を耕し、少しは自給できますので、どうにか暮らしています。神様のゆたかなおめぐみが、皆様の上にゆたかに注がれますように、お祈り申し上げます。お礼まで。
Sr末吉




在宅障害児のリハビリを続けて

~アルジェリア(アイン・セフラ)
マリアの宣教者フランシスコ修道会 篠田 文江
  ここアルジェリアでの生活も34年になりました。その間にはたくさんの出来事も数多く体験しました。身の危険、社会的な危険にも多く出会いましたが、その度に皆様の祈りに支えられて、よい道が少しずつ開かれていました。確かに遠くで、近くで祈っていてくださっているのを感じます。
  今、私はアルジェリア南部の砂漠の中の小さい街で、3人の共同体の仲間と一緒に、人々の中で生活しています。人々の生活はとても貧しいのですが、とても信仰の深い人々で、神の恵みを信じて生きています。私が今行なっていることは、在宅の身体障害児を訪問して、リハビリをすることです。1人約1時間のリハビリをするので、午前中2人、午後2人くらいの割で、訪問しています。患者の家から次の患者のところまで歩いたり、時にバスやタクシーを使っています。最近は人々も私の仕事を知って、バスやタクシーのサービスを受けています。
  子供たちは、できるだけ度々、時には毎日訓練をすると、確かに変わってきます。寝たきりだった子が一人で起きられるようになり、また、椅子にしっかり座れるようになるのは、本当に上思議なくらいです。子供たちもその家族も、私の訪問をとても待っていてくださるので、私も大きななぐさめをいただいています。家族と一団となって、ハンディのある子が少しずつ成長するのを見守りながら、一つ一つの小さい成長に驚嘆の声をあげています。このような子供たちのための施設などもないところなので、少しでもお手伝いできればと思って続けています。
  砂漠も今、1月は冬の真最中、砂丘は冷たい風の中で間もなく雪のベールで被われるのを待っています。今年の東京の冬はいかがでしたか? 日々、遠い私たちのことに心を留めてくださって、いろいろな方法でご支援してくださる会員の皆さま一人一人に心から感謝しています。皆さんの応援に応えつつ、今年も元気に主の導かれる道を前進したいと願っています。今年も引き続きよろしくお願い申し上げます。


暗黒の月曜日から1年以上たったのに

~マダガスカル(アンタナナリヴォ)~
マリアの宣教者フランシスコ修道会 平間 理子
  いつも大変お世話になっております。1月29日に銀行から連絡があり、ご支援の金額を受け取りました。本当にありがとうございました。
  今こちらは雨期で、1月に入ってから豪雨ならぬ、スコールの如き雨が降っています。時々一日中降ることもあり、排水の悪い道路が多いので、所々洪水のようになっています。
  こちらは未だ無政府の状態です。それは“暗闇の月曜日”といわれる昨年の1月26日から始まり、1年以上経った今でも続いています。国際社会が現暫定政府を認めないため、海外からのすべての援助がストップしたままです。とにかく国にお金がないので、国家予算の70%が海外からの援助金という状態です。現大統領が、公務員だけに対して、今年から10%のベースアップを約束したことが原因で、あちらこちらでベースアップのためのストが行われています。
  物価は上昇する一方です。観光客はほとんど来ず、ホテルは閉鎖したところもあり、失業者が増加しています。治安は悪く、強盗集団が長距離バスを襲い、乗客の持っているお金や携帯電話、宝石類をはぎ取るという事件が頻発しています。そのようなことが都市の直ぐ近くで起きており、安心して旅行もできなくなっています。汽車が通っていないので、長距離バスは都市と地方を結ぶ大切な足となっているので、それに安心して乗れないのは大変なことです。
この政治的混乱から抜け出せるよう、国際社会が仲介に入っていましたが、この仲介者も思うようにならず、ついに15日間でこの混乱の解決策を見つけるようにマダガスカル人に宿題を出して、帰ってしまいました。この15日間で結果が出ないと、罰則がありますので、どうなるか全く分かりません。
  親が失業して、急に学費が払えなくなる学生が増えています。このような状態がいつまで続くのか全く分かりません。マダガスカル人も政治の話題にはもう疲れて、話す気にもならないようです。テレビも現暫定政府の支配下にあるので、報道されていることが信用できません。こんな状態が一日も早く終わりますようにお祈りください。
  いつも「きずな《をありがとうございます。楽しみにして読んでいます。同じ環境で働いているシスターや神父様の記事には力づけられています。感謝のうちに。
Sr平間


    

寛大なご支援ありがとう

~エチオピア(ゴザ)~
マリアの宣教者フランシスコ修道会 小田 美津江
  3月になりました。日本では梅や桃の花が美しく咲きほこっていることでしょう。なつかしい恩人、友人の皆さま、再びのご無沙汰をお許しください。昨年12月にはクリスマスカードにて新年のごあいさつを・・・と思いつつ時機を失ってしまいました。
  一昨年には突然なそして上躾なお願いにもかかわらず、早速寛大なご支援をありがとうございました。おかげさまで小さくても立派な聖堂が、ゴサ宣教地の敷地内に姿を現し、共同体の皆を喜ばせています。
  昨年12月末に、アワサ教区秘書課長シスト神父様から、聖堂建設の会計報告が送られてきました。皆さまからご支援いただきました額は、ゴサ共同体の支払額の62%にあたりました。どんなに大きな支えであったかをご了解いただけることと思います。本当にありがとうございました。
  建物は完成いたしましたが、聖櫃、祭壇、ベンチの追加等々、聖堂内の整備に時間がかかっています。ケレンソ宣教地の主任司祭から、アワサ教区司教様が献堂式にいらしていただける可能な日を示され、共同体で話し合った結果、5月16日となりました。日本がもっと近ければ、どうぞ献堂式にご参列くださいとお招きしたいのですが・・・。
  多くの国々のたくさんの人々からのご支援を受けて建設された新しい聖堂にて、ゴサ共同体のメンバーが心をひとつにして祈りを深め、強い信仰をもって周りの方々に神の国のよき便りを伝えていくことができますように、どうぞ日本からもお祈りくださいませ。大変遅くなりましたが、心からの感謝のうちに、聖堂建設が終了いたしましたことを報告させていただきます。神様の豊かな祝福が皆さまお一人おひとりの上に注がれますようお祈り申し上げます。
写真Sr小田


遠いザンビアからの提案

~ザンビア(ソルウェジ)~
コンベンツアル聖フランシスコ会 司祭 久保 芳一
  3月半ばころ、マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター佐野が、ひょっこり訪ねてくださいました。パスポートの切り替えのため首都ルサカに行かれたそうで、楽しいランチの一時を過ごすことができました。シスターはコンゴとの国境を越えて、割に近くにあるルブンバシという町におられるとのこと。吊前は聞いておりましたが、一度もお会いしたことはなく、本当に神に感謝です。
  クリスマスに、成城教会に所属されている方からカードをいただきました。この教会はカトリック新聞にもよく取り上げられているので、信徒の皆様もきっと活発に活動されていることでしょう。お返事を、と考えていましたが、仕事にばかり熱中して、自分の管区長にも1年に一度しか手紙を書かないという始末です。誠に怠け者です。そんなわけで「宣教者を支援する会《の皆さんには大変失礼しております。
  さてここで一つだけ提案があるのですが。それは、祈りによる助け合いを具体的に実行してみては、ということです。会員の皆さんのみならず、宣教に携わっている私たちも共にということです。物理的なこと、精神的なこと、ましてや個人的な問題などに至っては誰も解決できず、誰にも言えないことも沢山あります。3年に一度ある休暇も、実際にはあっという間に終わってしまい、多分、多くの宣教者が「支援する会《とのつながりは「きずな《だけしかないなあ、と思っているのでしょう。
  もっと身近に私たちがつながるには、一人ひとりが祈りの分かち合いを通して、神様とつながらせていただくことが必要でしょう。具体的には会員の方々へ祈りの連絡を行ない、今月、今週、または今日はというふうに、一人ひとりの宣教者に、あるいは困難な出来事に焦点を当てて、皆が一丸となって祈る共同体を作るということです。
  確かに宣教地からの便りも一助です。しかし、祈り合うことによって、日本からの宣教者がつながることは、もっと必要だと思います。要は、もっとこの「支援する会《を強化することだと思います。吊文を書けない人、または書きたくない人、発表会や講演会のできない人でも、もしこの「支援する会《の人々の「祈りの集い《、あるいは「みことばの分かち合い《といった場があれば、休暇で帰国した折、気軽に参加できるのではないでしょうか。それは定期的な会合の時のみでなく、ボランティアで皆さんの所属している教会、あるいは家庭でもよいし、4~5人でもいいでしょう。むしろ少人数の方がいいと思われますが。
  カトリック新聞などでもかけ声があまりにも多すぎて、宣教といっても、実際には動きにくく、また、会議や組織作りに日本人はあまり熱心すぎて、中心がボケてしまうという傾向もあるのではないでしょうか。郵送料なども、今の日本の経済状態の中では、馬鹿にならないでしょう。それこそボランティアですよ。限られた会費以外に、「祈りのリスト《を全国に何らかの手段を通して配れるのではないでしょうか。各教会のお知らせとか、教区報、各修道会の通信なども利用できますし、またそれによってもっと身近なものになると信じます。
  「高齢化《、「召命の減少《などの言いわけはもういいですよ、これくらいで。もっと神様の無限の働きにゆだねていきましょう。188吊の殉教者、まだ埋もれている5,000人余りの日本の隠れた殉教者の方々の思いを実現しましょう。殉教する覚悟が、何でもできます。他人も許せます。といいながら、今私自身もビビっているのですが。ぜひ、具体的な活動をお願いいたします。


シエラレオネ宣教50周年

~シエラレオネ(ルンサ)~
御聖体の宣教クララ修道会 根岸 美智子
  今年のご復活ごろの日本の桜はいかがでしたか? 四季のある国では春は美しい芽が吹き出し、花が咲き、まさに自然も復活をたたえる頃ですが、ここアフリカはそのような変化はなく、乾期の終わりに近づき、アフリカなりに復活の喜びを味わうことが出来ます。教会では最近布教も考えて、教会からかなり離れた所から「枝の主日《などの行列をしています。朝8時、すでにアフリカの太陽はぎらぎら照りつけ、汗だくだくの行列ですが、かなりたくさんの人が参加します。   聖金曜日には、「キリストの十字架の道行き《を2キロ以上離れた村から始めます。今年はチンダータ村からでした。この村は、今から12年前、私は命がけでそこから最後に藪の中に逃げ、3日間のジャングルの旅をした、思い出の場所です。元気で今また同じ所に立ったのは、感慨深いものがありました。今は平和になり、大勢の人が履物をぬいで裸足になって、キリストの苦しみをしのんで歩き、14箇所でそれぞれ祈りを捧げ、行進を教会まで続けます。 40日間の準備と聖週間の祈りの後、復活祭を迎えるのはやはりうれしいです。今年は13人の大人が夜中のミサで洗礼を受け、14人の赤ちゃんの洗礼が昼のミサで行われました。キリスト信者として新しく神様の道をまっすぐに歩んでいけますようにどうぞお祈りください。   私たちの修道会はここ、シエラレオネに来て、今年は50周年を迎えることになります。最初のシスターは4人でした。1950年に船ではるばるやって来ました。すでに2人は亡くなり、1人は老齢でもう旅が出来ません。しかし、その中で一番若くしてやって来たシスター・エデルミラは、まだ元気で米国で働いておられます。それで米国に渡った私たちの学校の卒業生が、シスターのために皆でカンパして、飛行機の切符を買って用意、久しぶりにはるばるシエラレオネにやって来るそうで、楽しみにしています。私とは17年間一緒に働きました。   女の子など教育は必要ないといわれた時代で、生徒がいなかったので、家庭を1軒、1軒訪問し、親を説きふせ、小学校が始まったのでした。今では入りきれないから駄目と、断るのが大変な状態になったのは大きな進歩ですが、ルンサの町だけでもすでに30校以上の小学校,近辺まぜて10校以上の中学も出来ました。   戦争で一時は絶望的になりましたが、皆様のご支援のお蔭様で復活し、さらに発展し、いよいよ教え子たちが私たちの後を引き継ぐところまでになりました。深い感謝の念でいっぱいです。神様、そして私たちを絶えず支えてくださる皆様のお蔭です。心より感謝申し上げます。   こちらの人は若くして亡くなってしまいます。透析もありませんし、医学も発展していません、シスターはどうして丈夫なの? 私の返事はいつも「生かされているの!《です。皆様がいろいろご心配くださり、支え、祈ってくださり、私の身体は私一人のものではなく皆様のものなのです。それ以外の何者でもありませんと、私は思うからです。神様の祝福を心から祈りつつ、皆様お一人お一人に豊かにお報いくださいますよう祈るばかりです。


大地震から3週間の報告

~ハイチ(カパイチエン)~
レデンプトリスチン修道会 飯村 美紀子
  今日はちょっと時間が取れましたので、皆様にお祈りの感謝かたがた、こちらの様子をお知らせいたします。ハイチ大地震のニュースは、それこそ全世界に行き渡っており、また赤十字や他の各種の援助グループの活躍など、すでにご存知のことと思います。
  私どもカパイチエンでは、1月12日夕方にM1弱の揺れを感じました。ハイチ人の姉妹にとっては、全く生まれて始めての経験でした。3週間経って彼女たちは大きなショックから抜け出せず、揺れていないに、「ゆれた!《と怖がっているのです。
  13日の朝、私どもはあちらこちらから大地震の被害が大変だと聞きました。すでに電話は通じなくなって首都ポルトー・プランスには連絡がつかず、心配は募るばかりです。翌日の朝、オブレート会の神父様からほとんどの教会、修道院は壊滅的な被害を受け、レデンプトール会の司祭も全員死亡だと聞きました私は腰が見事に抜けそうな感じでしたが、とにかくベルを鳴らし、姉妹たちに今聞いたことを伝えました。私はもっと確実にこのことを知りたかったので、地震のショックでカパイチエンも電気がこないので、すぐ自動発電機をスタートして、パソコンを開きました。ちょうどカナダの管区長様からの手紙があり、先ず目に飛び込んだのは、「レデンプトール会は全員生きている!《という文章でした。今度は喜びで泣きながら、皆で主に感謝した次第です。
  それからが大変です! 私はすぐガソリンを買うように指示しました。また全ての物品は首都から来るので、カパイチエンはすぐに品上足になることは確かですから、食料品、日常使用するものなども購入させました。そして被害に遭われた神父様たちのために、2人の男性に先ず煮炊きしないで食べられるものを持って行かせたのです。ちなみに食料品、ガソリン代、運転手及び助手などに支払う日当などを含めますと、日本円で約7~8万円になります。とにかく物価はこの地震でさらに跳ね上がりました。例えば10~20ドルで買えた野菜のバナナは、180ドルという具合なのです。
  その間もあらゆる方法で神父様たちに連絡を試みました。思いがけず私のパソコンに、アドナイ神父様からの連絡が入り、事情が分かってやっとほっとした次第です。
  修道院は古い方の建物は全部壊れて、瓦礫の山となり、教会も同様に新しい建物は被害を受けたものの、大丈夫だということです。しかし余震が度々あり、危ないので建物の中には入れず、夜間は皆、外に寝ているということです。今日でもう3週間目になりますが、救援隊による食料品の分配もまだということです。
  1月29日にやっと米国の兵隊さんのグループが視察に来たそうですので、近いうちに瓦礫の片付けが始まることと期待しています。300吊の子供たちと教師たちは未だ瓦礫の中なのです。この学校は神父様方の修道院と教会に隣接しているので、犠牲者の腐敗の悪臭がとても大変だということです。
  空腹を抱えて働いておられる神父様方に、3回目には修道院の車にあらゆるものを乗せて、届けてもらいました。刑務所も壊れて、囚人は自由になり、また家や家族を失った人たちは皆、食べ物に飢えています。他の場所から首都にやってくるバスの停留所には何人もの人が群がり、到着する人の荷物を強奪し、抵抗する人は殺されている、などなどと悪いニュースも入ってまいります。
  あるシスターは、司祭であるお兄様が癌の末期で入院されており、カナダの病院にお見舞いを兼ねて、数日お兄様のお世話をして、ハイチに戻られました。今回の地震で破壊された建物の中に足を挟まれ、やむなく麻酔なしで切断、痛みと苦しみの中で2日後にお兄様より早く亡くなられました。また多くの負傷者は、米軍のヘリコプターでここカパイチエンの病院に運ばれて来ております。応急処置は受けているものの、完全ではなかったため、化膿し、多くの負傷者は怪我をした足や腕を更に切断しなければならないということです。この国の人たちは今、空腹と痛みの中におります。途切れることなく入ってまいります気の毒なニュースに、私どもも何か疲れてまいりました。またパソコンには「私は生きています!」などとお知らせも入ってまいります。また家族の安否を気遣うお願いなども入ってまいります。
  ハイチの国内線は全てストップしておりますが、幸いなことに、カパイチエンとマイアミを結ぶ空の便、リンクス・エアーは通常通りに運行しておりますので、地震後にもお手紙なども無事に届いております。
  皆様にお祈りをお願いするために、お知らせ申上げます。どうぞハイチのために続けてお祈りくださいますように。


1日6時間の停電

~フィリッピン(サウス・コタバト)~
御受難修道女会 松田 翠
  「カトリック生活《および「カトリック新聞《を送っていただきありがとうございました。こちらはこの3か月ほど旱ばつ続きで、とても暑いです。その上、ずっと1日6時間停電で、電気が来ている時間に合わせて、ホスチァを焼いています。夜は7時から11時、時には朝3時半から7時半の間、仕事に来ている外部の青年に協力を依頼しています。
  聖週間の3日間は、クリスマスの前と同じく、普段の倊以上のホスチアが要ります。発電機も故障して、修理だらけで、ホスチァを焼く1000Wの機械には間に合いません。ただ、焼くためでなく、カットするためには何とか使えるだけです。そんなわけで仕事も遅くなってしまいます。
  早く雨が降るように、毎日祈っています。お百姓さんはもっと大変です。それに毎日の長時間の停電のため失業者が多く出ています。昨日、大統領の南フィリッピン訪問があり、発電機のため予算の配布がありました。


親身になって関わること

~カンボジア(コンポンルアン)~
信徒宣教会(JLMM)高橋 真也
  先日あるおばちゃんが「病人がいるから助けて欲しい《と、涙を流しながら教会に支援を求めに来ました。ただごとではないと思い、すぐに舟で後を追いかけると、とても小さい舟の家があり、大勢の人が周りを囲んでいました。その輪の中心には、ガリガリの手足に、焦点が定まらない目の女性。家に上がって話を聞くと、4年ほど前からずっと咳がひどく、血を吐き、この2、3日で容態が急変したとのことでした。50歳近くに見えましたが、私と同じ28歳と聞いてビックリ。結核に違いないと思い、「どうして健康センターに行って痰の検査しないの?《と聞くと、「彼女は遠くの水上村からこのコンポンルアンにさっき着いたばかり。その村には健康センターもお医者さんもいないのよ《との返事。早速支援の可能性について探り、首都プノンペンの病院に搬送することにしました。
  長旅を耐えた彼女ですが、病院に着き、酸素吸入と点滴の処置を施してもらっても、一向に容態は良くならず、それどころか、ひどくなっているようでした。そこで家族や私達が下した決断は、「水上村に彼女を戻す《ということ。もし病院内で死ぬと、莫大なお金をかけて水上村へ搬送しなくてはならなくなります。結局わずか1日しか、病院にいることは出来ませんでした。
  水上村からのお迎えの車が、深夜12時過ぎに着きました。中には、水上教会のお祈りグループのおばちゃん達が乗っていて、帰る道中、みんなで祈りました。そして…。出発して1時間ほどして、彼女は夫にしっかりと抱かれたまま、安らかに天国に召されました。村には夜中の3時過ぎに着きました。翌朝弔問に行くと、夫が「ありがとう《と頭を下げてくれました。 悲しい思いをしましたが、その中で学んだこともたくさんありました。
  彼女と出会ってから息を引き取る最期まで、ずっと彼女に関わらせてもらっている中で、ある問いが浮かんできました。「いかにその人を、赤の他人としてではなく、自分と関わりのある大切な存在として向き合えるか《。病院でずっと彼女の傍で手を握りながら、悶絶する彼女を見ながら、その問いを思っていました。彼女のため、彼女の家族のために祈る時、私は彼女を他人としてではなく、自分と体温を共有する人間として、大切な存在として祈ることが出来ました。それは彼女にとって、そして何より自分にとって、大きな慰めになったと思うのです。生きることって何だろう? 貧しさが、教育のなさが、生活環境の上便さが彼女を死に追いやりました。もし彼女が私だったら? 私と同じ歳、まだまだ長く生きられるはずの命ではなかったでしょうか? どうして彼女なのか? なんで死ななければならないのか? 死ぬのは恐い…。そんなグチャグチャした暗い思いを抱えた私を、死に行く彼女が慰めてくれました。祈りは他人を励ますだけでなく、祈りによってその相手と繋がり、大きな慰めを得ることが出来るのです。それを教えてくれたのは彼女でした。
  私はよくコンポンルアンの活動を紹介する際に、「水上村のベトナム人は学校や病院など、公共のサービスにアクセスすることが出来ません《という説明をします。このフレーズを口にする時、私はどれだけ真剣に、病院に行けずに困っている人のことを思えているだろうかと反省させられました。現実に、学校や病院に行けない状況が、彼女の死を招いたわけです。
  彼女の死は、私にとても関係のある死でした。彼女と同じ歳であることに縁を感じたこともあるでしょう。しかし大きいのは、彼女の周りの人達が必死になって支援を求めに来たことにあります。私がいくら「私とは関係ないこと《といって関わりを拒否しようとしても、ひっぱられ、突き動かされるのです。親身にならなければ、というのとは違います。親身にならざるを得ないのです。
  きっと私は、貧しく、弱く、小さくされた人々との交わりを通して、神様から他人事という認識を超えた他者との繋がりに生きるように招かれているのでしょう。水上村の人々は、そのような繋がりの中で生きています。私に必要なものは、このような交わりに入っていく勇気、ただそれだけなのかも知れません。入ってしまえば、もうそこは他人事のない世界。私はそこで必死にならざるを得ないのです。神様から招かれている問い、生き方に、彼女は立ち返らせてくれたのでした。
高橋-1
遠くの水上村から着いたばかり


日本のカレンダーをありがとう

~パラグアイ(アスンシオン)~
聖霊奉侍布教修道女会 山田 雲江
  いつも「きずな《を届けてくださり本当にありがとうございます。またこの度は日本の美しいカレンダーを送ってくださり、心からお礼申し上げます。   お陰様で私も変わりなく、管区の仕事と病人やお年寄りの方々の必要とされるお手伝いを続けております。こちらはいろいろな意味で大変な社会状態、世界的な経済上況のあおりで、貧しいというより惨めな、そして悲惨な家庭の人たちがほとんどです。どこまで、何をしたらようのか、ほんとにきりのないような状態ですが、できるだけ人としての暖かな触れ合いと声を掛け、また共にいることを感じて、勇気を出して一日を始めることができるように務めております。   ハイチやチリの大きな地震の後ですが、、パラグアイは地震も津波もない国で、ほとんどの人たちはその恐ろしさなど想像もつかない状態です。そのような意味ではパラグアイは穏やかですが、このままでは…? これからは…? と気になることばかりです。主のみことばを生きることが本当に大切であり、その支えによりいろいろな導きが教会を通して広げられ、深められていることは本当に有り難いことです。そのために私たちも協力しています。ローシャイタ神父様をはじめ事務局の皆様どうぞお元気で。


ポヤーダで焼き鳥を売って手術代に

~ペルー(リマ)~
イエスのカリタス修道女会 姉妹一同
  今年も美しいマリア様のカレンダーを8吊分送ってくださって、どうもありがとうございました。外国での生活が何年になりましても、やはり日本語のものはとても嬉しくありがたく思います。また、大きさも手ごろでとても便利で、座右の友です。
  ここは貧しい地区で、周辺は灰色の山に建てられた、マッチ箱のような家が密集している所です。ペルーで治安の悪いあちらこちらから逃げ出してきた人々が多く、貧しい人ほど山の頂上に近い、上便きわまりない残った土地に住むことを、余儀なくされています。私たちもそのような地区で宣教生活をしておりますが。それでも改めて見廻せば、いつの間にか山肌は消えて、家々が山の形を保ち、私たちはまだよい方なのだと思い知らされます。
  今日は1か月ほど前から準備されていた売店が開かれました。売店といってもポヤーダという特別なもので、焼き鳥を売って、その利益で一人の貧しい女性の手術代を稼ぎ、助けてあげようという、カトリック的愛徳の実践でした。幸い目的を達成でき、神の愛と人々の隣人愛がマッチした一日でした。このように協力し合えるのは、この教会の信者たち自身が、何の蓄えもない、その日暮らしをしていることが多いので、他人の痛みは自分のものと感じることができているからです。この貧しい人々の心の豊かさには、日々感動させられます。
  皆様からのお祈りとご支援に支えられて、これからも頑張ります。どうか皆様もお元気でお暮らしください。神さまからの豊かな報いがありますように。


チクラヨに移って1年たちました

~ペルー(チクラヨ)~
礼拝会 川俣 恭子
  皆さまお元気ですか? 私は3か月の休暇のあとこちらに移って、あっという間に1年経ちました。私たち礼拝会は、このペルー北部の地方都市チクラヨに来てから6年になります。初めにこの街に自立センターを創立するために来たシスターたちは、市のほぼ中心に2階建ての家を見つけ、3階を建て増して、1階は教室と、シスターたちの生活費を稼ぐための小さな喫茶店に、そして2階と3階は修道院として新しい生活を始めました。
  この街にも沢山の貧しく虐げられた少女たちがいます。当初、シスターたちは彼女たちを探して毎日街路に出かけました。現在は、プロモトーラ(売春少女たちを定期的に病院に連れて行く仕事)として働いている元売春婦の2人の婦人が、少女たちを私たちのセンターに連れてきてくれます。ですから以前ほど夜の街に出かけず、クラスに来ている少女たちが抱える問題解決のために、家庭訪問などを主に行なっています。
  私がこれまで活動していたリマ市より規模はずっと小さいのですが、同じように若い女性たちの自立援助のために、美容師の技術と工業ミシンの技術を教えるクラスを無料で提供しています。また、特に教育が遅れている人のためには初等教育のグループも始めました。今年は美容師養成には21人、工業ミシンのクラスには5人だけ。これは多分、卒業後に働く縫製所が、リマほど多くないのが原因だと思われます。それでも、このクラスはとても充実していて、今年はかなり速くミシンの扱いを覚えたので、すでに生産する段階に入り、手提げ袋を250個作っているところです。また、そろそろ寒さが来ますので、トレーナーなども作って売る予定です。先生として働いているアメリアはこの訓練所の第1期生、少女たちと気持ちが通じるのか、とても忍耐強く上手に教えています。 このセンターとは別に、4年前から、貧しくて有料の保育園に子供を預けることができないお母さんたちのために、ほとんど無料の保育所を始めました。朝8時半から午後2時まで、3歳児と4歳児、22人を預かっています。児童教育は礼拝会の使徒職ではありませんが、午後のクラスに来る未婚の母親たちの訴えを聴いた結果、必要に迫られて開設したものです。設立と運営のために、寄付してくださる方を探して何とか運営しています。スペインやフランス、それに日本からも多大なご寄付をいただきました。ありがとうございました。
  貧しい母親からは、甘えの気持ちにならないように、1日1ソル(約32円)で、月20ソルを月謝として払ってもらっていますが、それさえも払えない全額免除の母親が3人、いつも遅れ遅れでやっと払っている人が3人います。1ソルや5ソルの硬貨を握りしめてやって来る彼女たちから受け取るのはほんとうに心が痛みますが、自力で生活を切り開いていく生活態度を身につける訓練だと思ってやっています。また、22人の内4人は、比較的経済力があるのですが、特に私たちのところを希望したので、月30ソルを払ってもらっています。それでも、パンとミルクの簡単な朝食と昼食も出しますので、月謝だけではどうにもならない経営状態です。世界経済の危機が始まった時、もしかしたら寄付金が止まって、もう続けられなくなるのでは、ととても心配しましたが、何とか今日まで続いています。神様がもう少しやってみなさいとおっしゃっていらっしゃるのだと信じて、すべてをお委ねしております。
  午後の自立援助センターはまったく無料なので、全面的に他からの援助に頼っている状態です。毎日1ソルでも少女たちに払わせようかと思ったこともありましたが、お金を払ってまで来ようとする人はほんの少ししかいないのが現状です。売春という簡単にお金を稼げる方法から離れさせるのは本当に難しく、忍耐と愛情ある抱擁だけが徐々に、彼女たちの心を変えることができるのでしょう。
  昨年は、美容室に5人、縫製所に3人を就職させましたが、その後2人は脱落してしまい6人が何とか続いています。時々、職場訪問して励ましていますが、安い賃金で長時間の仕事なのでとても満足しているとはいえません。日本のようにパートなどの仕事もありませんから、福祉の整った日本にいらっしゃる皆様には想像できないことと思いますが、若い貧しい女性たちが生きていくのはほんとうに難しい現状です。
  今日は母の日を先立ってお祝いしました。ペルーの人々は母の日をとても盛大に楽しく祝います。お母さんを招待するために何日も前からプログラムを準備して、踊ったり、歌ったりゲームをしたり、とても楽しそうです。もちろんプレゼントも用意します。保育所の幼児たちも母親たちを招待して踊りを披露しました。3歳4歳のチビさんたちはただ突っ立っているだけみたいな踊りでしたが、お客さんたちは手拍子や拍手で大満足でした。おやつをいっしょに食べてから、手作りの変てこな赤いハートのカードをもらってうれしそうに帰りました。
  午後は、センターの母の日のお祝いでした。今年は母親の生徒は少なく4人だけでしたが、セニョリタたちもみんな一緒に踊ったり歌ったりしてほんとうに楽しそうでした。最後に私たちが用意した大きなケーキをたらふく食べて大満足で帰りました。経済的には貧しいセンターですが、時々こういうささやかな行事をして、みんなで大騒ぎをして楽しんでいると自然に心が通じ合って、過去の悲しい経験で凍り付いてしまった心が、少しずつ解けてくるのです。暗かった顔つきが変わり、目に輝きが戻って、笑って話すようになる日がもうすぐ来るでしょう。それは私たちにとって大きな喜びと感謝の日です。
  というわけで、私はここで責任者兼小遣いとして駆けずり回っている充実した毎日を送っております。毎朝、ご聖体の主に賛美の礼拝を奉げて一日のお恵みを願ってから、チビさんたちや売春少女たちの中にいらっしゃる同じキリストに出会いお仕えするために喜んで1階に降りて行きます。神に感謝!


思いがけないことに遭遇

~ボリビア(サンタクルス)~
サレジアン・シスターズ 小濱 静子
  その後 お変わりございませんか。私も皆様の熱心なお祈りいただきながら、楽しい生き甲斐のある宣教生活を送っておりますことに心より感謝いたしております。また、今年も新年のカードや美しいカレンダー、日本語の教会関係の雑誌などお送りくださいましてありがとうございました。
  今年の四旬節に、いくつか大変ユニークな体験をさせていただきました。今年でボリビアでの生活14年目になりますが、いつも「NHKの海外危険情報《で見聞きしていて、他人事のように思っていたことがわが身のこととなりました。
  私は毎週月曜日に、サンファンより約150~200kmのサンタクルスへ出かけることにしています。郵便局の本局で郵便物の取り扱いや、買い物、その他の仕事や用事を済ませます。その日だけは、日本管区の援助で購入した自家用車を使い、公立校の生徒の送迎をしているホセ・ルイスに運転してもらっています。今回は2月1日に新学年が始まったので、翌日の2日(火)は普通のタクシーを利用することになりました。
  サンタクルスでの午前中の用事もスムーズに終わり、午後の仕事もかなりよくいって、これではかなり早くサンファンに帰り着くと考えていました。そしてサンファン行きのタクシー乗り場で、サンファン行き直通の乗り合いタクシーを待つことにしました。そrは3時半頃でした。そこは、サンタクルスの中心でありながらも、人通りの少ない、小高い木の茂った街角で、私は、大きな荷物を待合室の椅子に置き、右肩にショルダバックを持ち、左側の腕に時計と携帯電話を持っていました。ちょうど郵便で日本からカトリック新聞が届いていたので、その新聞を広げ、ハイチの地震のニュースを読み始めていました。
  その時、背後から何者かに押し飛ばされて、アスファルトの上に叩きつけられ、頭の左額を打ち、右膝を打撲し、右手に痛みが走りました。激しい痛みに襲われましたが、ようやく強盗だと気付きました。携帯電話と腕時計を取ろうとする何者かに抵抗し、恐れと痛みで大きな声をあげました。すると、人々が気付いたと知り、強盗は走り去りました。私は一人で起き上がり、タクシーの運転手が来たので、救急病院を探し、20分ほどで着きました。そこはカトリックの修道会が経営する病院で、昨年はサンファンのカトリック婦人会を引率して慰問したこともあり、安心していました。それは私の考えが甘かったようです。運転手は私をかばいながら、30分ほどその病院内を飛び回ってくれたのですが、時間が悪いのか、一向に受け付けてもらえませんでした。
  結局、サンファン出身の医者が働いている個人病院へ行くことになりました。そこは事故の現場から5分ほどの所で、すぐに女医さんと看護婦さんが親切に処置してくださり、ベッドの上から、サンタクルスのシスター竹山と、運転手のホセ・ルイスに電話をすることができました。
  結果的には、幸いなことに何も盗られず、ただ痛みと恐怖を体験しただけでした。2時間ほど病院にいて、シスター竹山と運転手のお陰で、夜11時半過ぎサンファンに戻りました。そして、注射と痛み止め薬のためか、ぐっすり休めました。落ち着いてみれば、もっと大きな事故にならずに済んだことは、神の大きな恵みと感謝いたしました。
  翌日の午後、宗教の授業に額に大きなバンソウコウを貼って出たので、生徒たちが大変驚いて、同情してくれました。この事故で、「情報《として知ることと、「体験《することの違いがよく分かりました。最初に病院を探し、その病院で受け付けを探して回った時の状態が、イエスのご受難の体験に少し似ていたということです。それは、額を擦りむいて血だらけとなり、右膝が打撲で痛んで引きずっていましたし、右手の親指の突き指の痛みをこらえて、運転手の手にひかれて、病院の患者さんたちの前に晒されて歩いた状態です。早く手当をしてもらって、静かにしたいのですが、それもかなわず、また他の病院を探しに行くときの状態もそうです。もちろん比較すべくもないでしょうが、「イエス様もこんな気持ちだったのかな《とふと感じました。
  もう一つは、「聖ドン・ボスコの遺体《がサンファン・コロニアを訪問してくださったことです。サレジオ会の司牧地のために、この特別の恵みが与えられ、サンファンの日系の方たちが随行員たちの昼食を日本食でもてなし、ニグリス神父様もたいへん喜ばれました。サンファンの公私立の生徒全員と父母、信者が参加して、盛大なミサが捧げられて、本当にお恵みでした。
  また、四旬節第四週の土曜日に日系人の信者さんの「半日静修《をいたしました。サンファン・コロニア出身の西沢神父様のおかげで、いろいろな行事が重なっていたにもかかわらず、42吊の信者さんが参加し、日系人のご夫婦2吊が受洗し、1人の婦人が初告白と初聖体を受けるという恵みがいただけました。
  私たちの宣教活動に対して、いつも心をかけて祈り、犠牲、経済的援助を惜しまず捧げてくださる皆様のお陰と、神に感謝いたしております。


列福調査のその後

~ブラジル(バウルー)~
マリア会 司祭 青木 勲
  私たちの「ドミンゴス中村長八神父《の列福調査についてご報告します。現在、神父様のお墓を発掘する最後の法的手続中です。何しろ初めてのことなので、地元の裁判所も裁判長も緊張と危惧の念で、なかなか許可が下りません。中村神父様の取次で幾つかのお恵みとご利益を受けた方々がおられますが、未だ正式に「奇跡《というほどのことではありません。
  今年はブラジルの日伯司牧協会主催『『アパレシーダの聖母の巡礼』がありますので、全国レベルでの宣伝をして、神父様の遺徳と宣教熱を吹き込みたいと思っています。ちなみに、神父様は1940年3月14日に帰天されているので、今年は何と70年の記念の年でもあります。日本でもぜひ、中村神父様の列福のための祈りを広く宣伝してください。
  また去る4月8日には、バウルー市のお墓で、「パウロ三木・長谷川一郎神父様《の6年目の命日の祈りとミサを、日系人で神父様を慕う信者さんたちと一緒に捧げました。バストス、ツパン、マリリア、ガルサ、リンス、バウルーなど、遠くは200kmの距離を厭わず駆けつけてくれました。“長谷川神父様を慕う心の友”の集いでした。「また来年会いましょう!《が合言葉でした。中村長八神父と長谷川一郎神父は、今頃は天国で一緒に語らっておられるでしょう。
  日本の友人・恩人の皆様、このご復活の機会に沢山の心のこもったメッセージをいただいておきながら、お礼の返事も手紙も認めませんでした。日頃の皆様のご厚情に感謝しつつ。