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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

創立25周年記念講演会

日時: 2007年11月10日(土)13;00〜16;00

会場: 東京・四谷 幼きイエス会ニコラバレ修道院 9階ホール

講演会参加者
あいにくの雨天にもかかわらず、80人以上の方々がこの講演会に参加された

1.《信徒は神から派遣された宣教の責任がある》

イエズス会 ヨゼフ・ピタウ大司教

 第ニヴァチカン公会議までの信徒は、まず教皇、枢機卿、司教、司祭そして最後に“平信者”と呼ばれる何の役割も責任もない信者という存在だった。しかし今は大きく変わり、教会のために働くのはもちろんだが、信徒には自分の周りの社会を“聖化”する責任があるといわれるようになった。例えば、ニューヨークの大きな教会の早いミサでは、銀行の責任者とか大学の先生が、侍者でぱなく助祭として福音書を読んで、説教をしてご聖体を与えている。自分の仕事を持ちながら、直接教会のために働いている。助祭として働く伝統は日本ではまだ余りないかもしれないが。そして銀行で働くならば、銀行マンとして責任を持って働く、金の取り扱い方、儲けるだけではなく、儲けて、その金を使徒職のために、貧しい人のためにどう使ったらいいか、銀行が聖なるものになるように考え、行動するのが、信徒の使徒職だと考えるようになった。
 ヴァチカンの全てが書かれている厚い字引のようなものがあるが、教皇様のタイトル(肩書き)を見ると1ページくらいある。一番上の名称から並んでいて、最後に本当のタイトルがある。“セルヴス・セルヴォルム・デイ”、神の召使いの一番低い召使い。私たち信仰を持つ者は神の召使いであるから。
 私たちは聖職者でないから、何もできないと思っていないか。そんなことはない。まず、家庭があるならば、父あるいは母として将来のしっかりした信者を育てる。それは偉大な仕事。初等教育の先生の務めも大切である。最初に始まるこの勉強の道、どのような考えを、どのような希望を与えるか。本当にその先生の仕事はすごいことである。  この私たちの集まりは、どういう風にして日本にいて、海外のミッションをどう手伝ったらいいかということに関心があると思う。具体的な例をあげると…。
 私の家族は7人兄弟、姉はフランシスコ会のシスターで、弟はイタリア・サルディニア島にある教会の主任司祭。その教会の宣教の援助について話したい。彼の教会は1万人の信徒がいるが、現在、世界の4つの小教区の援助をしている。ユーゴスラビアとベトナムの2000人くらいの小教区、アフリカの5万人ぐらいの、もう1つは中南米の教会。毎年彼は、クリスマスの休みにこの4つの教会へ1年間の教会の経費や必要な援助を届ける。夏休みに若者や大工さんは現地に行って、仕事をしながら交流をする。それによって本当に必要なものがわかり、手紙のやり取りをしたりして、信徒で1年間の計画をたてて、責任を持って援助する。受ける方の4つの教会は、教会のためだけでなく、貧しい人々を助けることもでき、学校への援助や新しい教会を造ることにも使われる。これはお互いの信仰の道を歩むための大きな刺激になる。
ピタウ大司教
ヨゼフ・ピタウ大司教
 もはや教会は1つの国のものだけではない。そして信者になると、私たちは世界とつながるのである。信徒はもちろん、日本の教会のために働:かなければならないが、しかし、具体的に物を送るとか、経済的なことで外に向けては援助することができる。神の国の発展、神の国の助けが出来るならば、本当にすばらしい。貧しい入、弱い立場の入、苦しんでいる人を助けたい……皆様の仕事はこのような教会のユニバーサリティの心ですね。
  もう1つの例は、ハンセン病はだんだんアフリカでもなくなりつつあるが、日本の財団が大きな貢献をしでいる。ハンセン病を撲滅したら、自動車や機械を造って売るのと違い、日本に金が入るということではない。彼らを助けるために日本から宣教者も行っている。それによってアフリカ、おもに南アフリカあたりで、日本の評判は完全に変わってきた。
 皆様は、これまでこの宣教師たち、あるいはその教会を助けてくださって、心から感謝いたします。どんなに小さなごとでも、一緒になると大きくなるんです。これからも神の国の発展めために、皆様からのお祈り、ご協力、ご支援をお願いいたします。

2.《一粒の麦が地に落ちて……》

ショファイユの幼きイエズス修道会 脇山 ミキ子

 チャドはアフリカ大陸の中央よりも、ちょっと北の方にある海のない国。東は大きな国スーダンで、国境のダルフールという所ではいつも問題があって、難民がたくさんいる。一番犠牲になっていレるのは、女たち、子供たちである。
 チャドの教会への要請を受けたのは1980年。さまざまな経緯があったが、フランスとカナダ、日本の3管区で何とか人材を出し合うことになって始まった。かつてフランスの植民地であったため、公用語はプランス語、最近はアラブ語も、それに現地語が200以上ある。まず事前に3か月間体験学習をしたが、ミッショネールからは人々のために何かすること、ことばが出来ることも大切だが、人々と一緒に生ること]こが大事といわれた。国際コミノテとして、国籍の異なる者が共同生活をしている、その姿が大きなミッションの活動なのだといわれた。
 日本とは気候、風土が違い、確かに困難はある。しかし人間って本当に強いなと、たびたび感じている。その1つ、井戸を掘って水をポンプで上に汲み上げて、使っているが、乾季になったあるとき、水が臭くなった。井戸のフタを取ったら、中に蛙がいっぱいで、もう死んでいるのもいた。またあるときは、蛇口をひねっても水が出ない。おかしいと思ったら小さな蛙が出てきたことも。そんな水を毎日使いながら、だれも病気にならず、人は強いんだと自信を持った。
シスター脇山 キミ子
シスター脇山 キミ子
 チャドの教会は1929年に始まって78周年、私の歳と同じなので思い入れがあり、何とかしてチャドの教会を少しでも前進する教会にしたいと願っている。 20年前に比べると、4教区から6教区になり、準教区もでき、大神学校もできた。若い教会なので、収穫は多いのに働き手が少ないという状態である。私の修道会はキリスト教的教育が使命なので、幼稚園を経営しながら、小学校での宗教教育を手伝い、また白本人シスターは当初から手芸、工作、裁縫などで協力して来た。そのときは初めと終わりにお祈をして、神に近づく道を探している。
 現在私は、遅れている女子の学校教育に力を注いでいる。女子は家庭での水汲み、粉つき、子守りなど家庭の労働力となって、学校に行っていないことも多い。その上、田舎では学校教育のレベルも低いため、女子寮を開き、子供たちを預かっている。これもなかなか忍耐の要る仕事だが、女性の地位向上のための一方法だと思っている。また保健の面で、診療所やその下にある何十という村々の保健衛生に関する意識を高める活動もしている。
 しかし、チャドの中にも本当に自分の国の復興に命をかけている人もいる。最近受けた研修会で、ある男性が、自分はチャド人だが、未だチャド国はないのも同然。大統領は自分の部族のためにしか利益をもたらさないから、倒すために次の争いが起こる。なんとか部族の狭い意識を乗り越えて、互いに話し合わなければならない。その道を作るために働いている人もいるが、そのために命を奪われる人も出るのではないか。キリストの教えに命をかけて自分たちの国の人々の本当の幸せのために働こうとする人が現れるように、やるべき仕事を続けなければならないと、希望ある発言をした。
 遠くはフランシスコ・ザビエルをはじめとして、本当に数知れない宣教師、宣教女の方々が日本の土になっている。命をかけて日本を愛してくださった。その後を歩くひとりとして、農家の娘だった私は、肥料の大切さを知っている。「その国の教会のための肥料となること、 それがミッショネールルの姿である」、これは私が一番納得できることばである。

3.《驚き、喜び、当たり前でないことの数々》

善きサマリア人修道会 鈴川 良

 管区長から人が足りないので、1・2年でよいからフィリピンヘといわれ、海外宣教など大それた考えもなく行って、結局9年間も滞在。ネグロス島バコロド。サトウキビ栽培の島であったが、砂糖の価格の下落で打撃を受け、飢えている島だった。
 1989年、シスターが一人、翌年もう一人が派遣され、その後、共同体をオーストラリアとのジョイント・ミッションで造ることになり、日本からの派遣者が私だった。ちょうど教職から離れる年齢になっていたためで、6か月研修を受けてからこ派遣された。
シスター鈴川 良
シスター鈴川 良
 最初に驚いたのはことばの問題。英語が通じなかった。このとき、ことばが通じないことがどんなに大変なことかを実感し、日本に来てくださった宣教者の方々にあらためて感謝した。ネグロス島の半分はイロンゴ語、半分はビサイヤ語、7500くらい島のある国だが、島があれば半分ずつがことばが違う。タガログ語はマニラの現地語。ことばに苦心すると同時に日本語に飢えた。日本から送られてくるカトリック新聞はすみからすみまで目を通し、次に『きずな』を読む。そこには世:界各国からの宣教者の記事がいっぱい。私よりもっともっと大変なところで働いている人がいると知り、ずいぶん励まされた。
 次の驚きは四季がないということ。 9月に行って、いくら経っても秋の気配はない。12月になっても暑い。クリスマスに黙想のため日本に帰り、冬の日本に降り立ったとき、ようやく私はフィリピンに派遣されたんだと体が感じてくれた。また、ブーゲンビリアがとてもきれい。ところがいつもいつもきれいで息が詰.まりそうになる。
 次に驚いたのは時計、いろんなところにかかっている時計が一つとして同じでない。5分から20分進ませてあるのが一般的。さらに、ジプニーやトライシカルという乗り物にも驚いた。しかし、だんだんジプニーを乗り継いで、一人で山を越えた村でも、どこでも行けるようになったときは大きな喜びになった。
 一番驚いたのは貧富の差。聞いてはいたが、こんなに差があるとは思いもよらなかった。特に川や海岸線には貧しい人が多くて、スコーターと呼ばれる不法占拠地がある。余りの汚さと貧しい生活で、初めて訪ねたときは、どこを見てよいかわからなかった。しかし、彼らはそこで助け合い、強い信仰を持って笑顔を忘れないで生活している。対照的な高い塀をめぐらせた立派な家は、たくさんの使用人を使っている。通学のとき学用品さえ使用人に運ばせる子供たち。
 日本のある教会の援助で長年、デイケアーと呼ばれる保育園と女性と子供のためのセンターがあった。閉園されたあと、私はせっかくお母さんたちと仲良くなったので、定期的に訪問することになった。どこにいたのかと思うほど大勢の子供が集まる。紙芝居を作ってイロンゴで読む。日本語の歌を教える。引き算、足し算を教える。そうしているうちに皆が私を受け入れてくれているのを感じ、とてもうれしかった。
 9年間、たくさんの驚きがあり、またそれ以上の喜びもあった。昨年日本に帰ったが、何ごとも整然とスピーディーに行なわれる生活を、なんとなく窮屈に感じている自分に気がついた。未だにバコロドの子供たちのことが気にかかる日々である。
 海外宣教 ― それは現他の人に、私たちが隣人としで受け入れてもらえるような謙虚さが必要であり、お互いが尊敬し合い、その中で自分のアイデンティティーをしっかり持って、共に生活することではないだろうか。