2011年3月号 No.451 2011.3.19
1 | 地は震えても、天は揺るがない |
晴佐久 昌英 神父 |
2 | 鈴木眞一さんを懐かしんで | 松原 睦 |
地は震えても、天は揺るがない
主任司祭 晴佐久 昌英神父
大地震から一週間が過ぎ、行政は被災者救助から避難者救援へと舵を切りました。依然として行方の分からない家族のいる人たちは、割り切らなければならない現実と割り切れない感情との間で引き裂かれるような思いをしていることでしょう。かろうじて助かった避難者にしても25万人と言われており、道路は寸断、停電と燃料不足に放射能漏れが重なって、助ける側も出来ることと出来ないことの間で苦悶しています。立て続けに報じられるネガティヴな情報のせいで社会不安は高まり、いまだ余震が続く中、人々は平常心を失ってどこか浮き足立っているように見えます。
そんな今こそ、まさにわたしたちキリスト者の出番なのではないでしょうか。神の愛を信じる限り「不幸でも幸い」であるキリスト者こそが、まず気を取り直し、共に信仰を奮い立たせ、不滅の希望を語り、具体的に愛し合い、身を起こして頭を上げ、目を覚まして祈るべきではないでしょうか。それこそが試練の時代におけるキリスト者の存在意義であり、主イエスから託された尊い使命だからです。
「身を起こして頭を上げ」、「目を覚まして祈りなさい」は、イエスの言葉です。
「大きな地震があり、海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民はなすすべを知らず不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ。神の国が近づいていると悟りなさい。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。いつも目を覚まして祈りなさい」。(ルカ21章より抜粋して構成)
「解放の時」とは、神の愛を知らずに不信や恐れ、欲望や争いに捕らわれている罪の状態からの解放の時のことで、「神の国の完成の日」のことです。イエスが言いたいのは、すべての苦難は真の解放である神の国に向かう途上の出来事なのだから、人々が皆恐れている時にこそ、キリスト者は恐れずに立ち上がり、苦難に耐える信仰によってまことの命をかち取りなさいということです。
ですから、たとえ家族を亡くし、家を失い、放射能が降り注いでいる中でも、キリスト者は決して滅びないイエスの言葉に希望を置きます。泣きながら苦しみながら、ひとときは虚無感や絶望感に襲われながら、なおも身を起こして頭を上げます。イエス・キリストの十字架において、わたしたちはすでに悪と罪から解放され、死さえも超克しているからです。そのイエスと共に背負うすべての十字架は、神の愛によって復活の栄光に変えられると信じているからです。そうして、あらゆる産みの苦しみの先にある永遠の喜びの世界への誕生を待ち望んでいるからです。その喜びの世界でわたしたちは知ることでしょう。何ひとつ失っていなかった、と。
希望をなくしてはいけません。恐ろしい災害があっても、この世界が悪い世界に変わってしまったわけではありません。このたびの地震を「天罰」だと言った知事がいましたが、知事にはぜひ神学の基礎を学ぶことをお勧めしたい。地震は天罰でも神罰でもありません。神はどこまでも善であり、愛であり、あらゆる希望の根拠です。問題は天にあるのではなく、天を知らずにおびえる我々の心にあるのです。
マスコミは初めのころ「東日本大地震」とか、「東北関東大地震」と表記していましたが、いつの間にか「大地震」が「大震災」に変わりました。たぶん報道の焦点が地震そのものから災害の方に移ったからでしょう。些細な変化のようでいて、実はここには大きな違いがあります。地震は神のわざですが、震災は人のわざだからです。大災害が起こると、人はこうつぶやきます。「罪もない人たちがこんな災害に巻き込まれて命を落とすなんて、神も仏もあるものか。神が愛ならなぜこんなことをなさるのか。仏の慈悲でも救うことができないのか」。しかし、これは誤った見識です。
確かに地球を造ったのが神である以上、地震も津波も神のわざであると言えなくはありませんが、それは人類誕生のはるか昔から延々と続いている尊い創造のわざの一部であり、それ自体には何の責任もありません。いつだって地は震え、海は荒れ狂ってきました。事実、直近のわずか百数十年の間に、東北地方はすでに二度の壊滅的な大津波を体験しています。その海辺になおも家を建て、「万全の」防災計画を練り、堤防を作ったのは神ではありません。人間です。使いたいだけ電気を使うために「絶対安全」な原発を建てたのも神ではありません。人間です。「観測史上初」で「想定外」の波が来たと言うのも人間なら、「神よ何故」と問うのも人間、「天罰だ」と言い出すのもすべて人間なのです。足りないのは神の愛ではなく人間の愛であり、むしろ問うべきは我々の傲慢と我欲、神への無知と弱者への無関心ではないでしょうか。
神は人間には決して極めつくせない摂理と、限りない愛の親心によって、この揺れる大地の上にわたしたちを置きました。それは、神の子たちの成長のために他なりません。神は、わたしたちがそこに起こるすべての現実に尊い意味を見出しながら、試練の中で知恵を出し合い、助け合い、愛し合って、ご自分の親心に目覚め、ご自分にいっそう似たものとなることを望んでおられるのです。
怖いのは地が震えることではありません。地と共に私たちの心が震えて神を見失うことです。今こそ、神の愛に立ち帰るとき。地は震えても、天は決して揺るぎません。
鈴木眞一さんを懐かしんで
松原 睦
昨年、12月12日私が手術で入院していたとき、鈴木さんの訃報をうけました。
鈴木さんを知ったのは、桜ケ丘のマンション教会のごミサで先唱をされるお姿を見たときからです。先唱でミスされてもあわてることなく、悠揚迫らずといったお姿を見て、肝の据わった方だなあというのが第一印象でした。
その後、先唱は各地区で担当するようになっても、長い間、葬儀ミサの先唱は鈴木さんの担当でした。また、広報も担当されましたが、多摩カトリックニューズの発行日に皆が大騒ぎしていても、ご自分の出場がくるまで、悠然と英語の本を読んでおられました。総務を担当されて「お知らせ」を作るにあたっても、ご自分が担当される聖歌の照合と印刷の順番がくるまでは「他人の領域は侵さない」と固く思っておられるように椅子に座っておられました。
教会委員長も典礼委員も担当されました。ほとんどの教会活動に参加されたのではないでしょうか。お体の都合で、広報を辞められても、手が足りないからとお声をかけると気軽にお手伝いをいただきました。総務はつい昨年まで「お知らせ」の作成を担当されていました。
口数は決して多い人ではなく、司牧評議会での発言も辛口な発言が多かったように感じます。しかし、人との接触はお好きのようで、いつも軽食ではいろんな方と談笑されているのを拝見したものです。ニコニコして挨拶されると、こちらも気をゆるしてべらべらしゃべり始めるのですが、ご本人はいつも聞き役であることが多かったようです。お宅にも何度かお訪ねしたことがありましたが、しゃべっているのはこちらで、またしゃべりすぎたと反省することが多かったようです。
共同通信の記者として韓国の動乱の中で弾丸の中にお祈りをしたお話など、悲壮感もなく、ユーモラスななかにしっかりした信仰の姿を感じさせられるものでした。また教会の皆さんと一緒に、お宅で食事をご馳走になりながら、夜おそくまで談笑したこともすばらしい想い出となっています。
私にとって教会で一番年齢の近い人が鈴木さんであり、なにかにつけて相通じるものがありましたが、いろんなところでは実力の差を感じ、コンプレックスを感じてもいました。特に語学力は抜群で、教会でもメモもとらず通訳されたり、ご自宅で教室も持たれたりして活動されていました。桜ケ丘の一等地にあるお宅に伺うことさえ光栄と感じるほど、生まれ育ちは隔絶していて、本来なら近寄り難い人ですが、鈴木さんからは全くそれを感じませんでした。
軽食でも誰となく懇談されていた好人物が私の描く人物像です。読書人とは彼のような人を云うのでしょう、一人静かに読んでおられる後ろ姿に愉しさと落着きが感じられました。また絵を好み、クラシックは特にお好きのようでしたが、しかも気取った様子は全然感じませんでした。
鈴木さんは闘病生活中も病気の苦しさを人前に出さない方でした。緊急に入院されたかと思うと、自宅で療養され、とうとうお見舞いに行きはぐれたというのが実情です。私が退院したらお見舞いに行くつもりで、お祈りしていただけに今でも残念に思っています。
葬儀の時にかざられた写真は、生前の鈴木さんのしぐさ・物腰がそのままのすばらしい写真でした。いつもニコニコと接していただいたことを感謝しています。昨年は桜ケ丘のイタリヤ料理をご一緒しようと約束しながら、お互いの体の都合で実現しなかったことも残念です。しかし教会を通してご一緒した日々を思い出しながら、また会う日までを楽しみにしています。これからも鈴木さんの少し醒めた目で多摩教会の将来を眺めて、多摩教会のためにお祈りください。私には、「やあしばらく」と顔をみせてくださるような気がしているこの頃です。