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2010年12月号 No.448  2010.12.18

アヴェ・マリアの祈り
晴佐久 昌英 神父
チャンスはゼロ・パーセントでも! 井上 信一

アヴェ・マリアの祈り

                                         主任司祭 晴佐久 昌英

 わたしは子どものころ、歌うことの大好きなボーイソプラノで、東京少年少女合唱団のメンバーでした。春に入団して一通りの発声練習を終え、最初に練習したのがアルカデルトのアヴェマリアだったことをよく覚えています。ほかのみんなは初めて聞く曲なので一から練習を始めたわけですが、わたしは心の中で叫んでいたからです。「そんなの、いつも教会で歌ってるよ。カトリック聖歌集に載ってるじゃん!」
 おかげで、発音がいいとほめられたものです。アヴェマリアの「ヴェ」とか、グラツィアの「ツィ」とか。当たり前と言えば当たり前。こっちは小学校一年の時からラテン語で侍者をしていたのですから。ともかく、いつもの教会の歌が一般の世の中でも大切に歌われていることがうれしかったし、誇らしくも感じたものです。

 このたび、日本司教協議会の決定により、いわゆる「聖母マリアへの祈り」の改定案として「アヴェ・マリアの祈り」が作成され、公表されました。これはまだ案ですが、半年の試用を経て、2011年6月には正式に決定されることになります。内容について何かご意見があれば申し出てください。
「えーっ、また変わるの?」と思われる方も多いと思いますが、よりよいものにしていくために忍耐強く微調整を続けていくのはカトリックの美しい伝統です。全文は以下の通りです。ぜひ早めに親しむことにいたしましょう。

  アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、
  主はあなたとともにおられます。
  あなたは女のうちで祝福され、
  ご胎内の御子イエスも祝福されています。
  神の母聖マリア、
  罪深いわたしたちのために
  今も、死を迎える時も祈ってください。
  アーメン。

 ちなみにわたしはこの改定案に、大満足です。
 今までの「恵みあふれる」では、神からのみ溢れ来るはずの恩寵がマリアからも溢れているかのようにもとれる点や、「あなたの胎の実」という詩的なことばが「あなたの子」という敬意に欠けた乱暴な表現だったことなどが気になっていたからです。
 しかし、なんと言っても大きな特徴は「アヴェ・マリア」というラテン語がそのまま使われている点でしょう。「アヴェ」とは、天使ガブリエルが聖母マリアに挨拶した時の「おめでとう」のことで、かつての文語体では「めでたし」と翻訳されていました。大切なこの祝詞が口語訳の「恵みあふれる聖マリア」では抜け落ちてしまっていたことは、早くから大きな欠陥として指摘されてきました。だからと言って「おめでとうマリア」を祈りの冒頭に置くのは、繰り返し唱える日本語の祈りとして違和感があります。通夜の席などで「おめでとう」では一般の参列者がギョッとするでしょう。だったら、何も無理に翻訳しなくとも「アヴェ・マリア」でいいじゃん、というのがわたしの持論でありました。「アーメン」だって、「アレルヤ」だってそのまま使っているわけですし。
 なにしろ、外来語を母国語にしてしまうのは日本人のお家芸です。というか、すでにアヴェ・マリアは知らない日本人はいないと言っていいほどに認知されたことばです。もちろんそれはグノーやシューベルトのおかげでもありますが、今回「アヴェ・マリアの祈り」となったことで、これがいっそう広く「カトリック教会の祈り」として認知されるようになることでしょう。
 火葬場で献花するとき、いつもロザリオの祈りを唱えています。隣の一団ではお坊さんがお経を唱えていたりするわけですが、そちらの参列者は「あら、めずらしい。キリスト教のお経だわ」という顔でこちらを見てたりします。そんなとき、大きな声で「アヴェ・マリア」と唱えていれば、「まあ、アヴェ・マリアって、キリスト教のお祈りだったのね」となります。これは大きな印象を残すのではないでしょうか。それに、そもそもカトリックはラテン語を共通語としていたという比類のない財産を持っているのですから、それを生かさない理由は何ひとつないでしょう。海外でひとこと「アヴェ・マリア」と唱えれば、見知らぬ国の人が声をかけてくるに違いありません。「カトリックですか?」。
 後半部分は以前のままとはいえ、17年間唱え続けてやっと口になじんだと思っていた祈りを覚え直すのは少々面倒ではありますが、これから170年も1700年も唱え続けるのですから、さっそく覚えることといたしましょう。新しい年をアヴェ・マリア元年として、これからは今までにもまして、いつでもどこでもアヴェ・マリアを唱えるならば、聖母はどれほどお喜びになるでしょう。
「今から後、いつの世の人もわたしを幸いなものというでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1・48)
 アヴェ・マリア!

連載コラム「スローガンの実現に向かって」第9回
《チャンスはゼロ・パーセントでも》

                                              井上 信一

 自分自身の救いのためにキュウキュウとしている私ですが、何か宣教者のためにならないかと思い、当教会の先輩・故八巻信生さんから誘われて、始めたのが“海外宣教者を支援する会”のボランティア活動です。現在日本から派遣されて海外で宣教活動をしている司祭、修道士、修道女の数は350人ほどです。中には皆さんが聞いたこともない国に1人で派遣されて、想像に絶するような環境でただただ「悩む人々、苦しむ人々、悲しむ人々」に寄り添って、生活を共にし、その中でキリストの愛を証しされています。
“支援する会”の「きずな」という四季報(信徒館の入り口に置いてあります)で、これらの宣教者のお便りを読んで下さっている多摩教会の方もたくさんおられることに感謝しています。
 この宣教者たちが一番感激するのは、やはり現地の人たちが福音の恵みに心を開き、洗礼を受けることになる時とのことです。カトリックがメジャーな宗教として認められている国々でも、社会の歪みの中で苦しんでいる人たちに手を差し伸べることは大変なことです。さらにカトリックがマイナーな国での宣教はそれ以上に大変でしょう。
 さらにカトリックの宣教が拒否されている国にも宣教者は出掛けています。イスラムの国、仏教徒しかいない国、反宗教的な国などにも宣教者はいます。何故でしょうか。宣教活動はできないのですが、そこにいて苦しむ人々と一緒にいるだけで、その人たちと心からの連帯感を深め、お互いに尊敬し合うようになれるそうです。たとえ神様の呼び名は連っていても、そのような環境の中で神様の愛とその業の偉大さを一緒に賛美できるのです。
 100匹の羊の中で迷った1匹を神様がどれほど大切にされているのか、何時かの福音朗読で聞きましたが、これらの国にいる宣教者たちはその1匹を見つけても、連れ戻せないのです。チャンスはゼロ・パーセントなのです。でも宣教者たちは絶望することもなく、現地の人たちと明るく付き合い、その人たちから大切にされています。そのような宣教生活を何十年もの間、遠い異国で続けられるのは、神のみ旨を行っているという確信に満ちているからでしょう。
 海外宣教者の話ばかりで、コラムの趣旨からは大分離れてしまいましたが、この宣教者たちの業から何か学ばなければと思っているからです。考えてみれば、自分も迷いながら、迷える羊とすれ違っていたはずです。そうです、あの時、あの場で確かに迷っている羊がいたと思います。しかし、その羊の悲しそうな目を見ただけで、なかなかそばに近づいて、声を掛けられなかったのが現実です。何故でしょうか。自分も迷っていたので、声を掛ける自信がなかったこともあります。急いでいる自分の歩みを乱したくないという打算的な思いが優先したこともあります。
 年老いた今、自分の弱さを反省すると共に、できるだけでよいから、あの宣教者たちの明るい顔と声を少しは見習え、と自分に言い聞かせています。そうしていれば、いつかは迷っている羊同志で慰め合うチャンスがあるでしょう。そんな相手の羊を見つけたら、ショボショボする目をこすって、その羊の目を優し<見てやらなくては。「目を覚ましていなさい、主はいつ来られるか分からないのです」と書いてありますからね。

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