多摩カトリックニューズ表紙へ戻る

2000年1月号 No.317  2000.1.22

1 聖堂建設工事雑記(4) 宮下 良平神父

  聖堂建設工事雑記(4) 〜大聖年を迎えて〜

                                      宮下 良平神父

 いよいよ大聖年を迎えました。そして、1月16日の日曜日に聖堂の棟上げ式を行いました。雨か雪が降るだろうとの天気予報が見事に外れ、式の直前から神の祝福か、晴れてくれました。
 ミサに出られた方と共に祈りを捧げ、2館となる聖堂部分を見学しました。皆さん一様に「大きいねえ」と言い、私たちが聖堂を建てているという実感をあらためて持たれたようでした。
 さて、この聖堂は私たちだけの所有物ではありません。この聖堂は私たちの『神なる主』のものです。『主』が私たちに願いを与え、祈らせ、努力させてくれるという主の働きが根本にあることを、あらためて思い起こしましょう。
 そして、この聖堂は私たちだけの力で建てられるのではないことを忘れないようにしましょう。この多摩地域の教会、多摩地域以外の教会の方々や個人の祈りと献金によって献堂されることへの心からの感謝を5月14日に行いましょう。
 ある教会では、ご婦人達が手作り品を売り、そのお金を建設のためにご寄付してくださいました。また、ある教会の神父様から、5月のバザーの売り上げを多摩教会の聖堂建設のために寄付するということが委員会で決められた旨を伝えてくださいました。その他にいろんな方々が聖堂建設のために祈り、献金されています。
 ところで、私たちは自分たちの歴史の集大成、夢の実現として、この聖堂建設を考えがちです。しかし、そこに固執してゆくなら、限られた歴史を持つ多摩教会の信徒だけの思いに根ざした聖堂としての姿しか見えてきません。
 大聖年を迎える私たちカトリックの信仰は個人主義、経験至上主義、セクト主義に根ざした信仰ではないはずです。
 私たちの多摩教会聖堂は、神の福音を伝える『宣教の場』であることを第一の結果であり、目的としましょう。
 主イエス・キリストは何を伝え、何をしたのか、そして今日、何を人々に伝えようとされているのかを、この聖堂から発信されるそのことに私たちは気づいてゆきましょう。
 それは「キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宜ぺ伝えるに至ることを、あかしした(使鹿26:23)」パウロのように、そして宣教のために日本で働き、アウシュビッツで身代わりとなって殺されたコルベ神父様のように、私たちがこの聖堂で新り神への賛美が行われるたびに、「キリストを証し、神の福音を宣教する」決意を確認しでゆきましょう。
 私たちの宣教の決意を高めることを願われる神が、私たちに聖堂を建設させ、そして大聖年を特別な恵みを持って多摩教会を巡礼の地ときせているのだろうと思います。
 正月の休みに、何人もの方々がすでに巡礼に来られました。私たちの教会の聖堂は、多摩教会の聖堂であっても、すでにそれはカトリックの聖堂として全世界に開かれていることをこの大聖年の年にあらためて実感することになると思います。
 私たちはハードの部分(信仰の外見的証し)である聖堂建設を通して、ソフトの部分(信仰の内面的証し)を養わされているように思います。それは、信仰者の神への回心であります。
 私たち多摩教会共同体がこの大聖年を通じて、回心の時であり、恵みの時であり、そして神への感謝と賛美の時でありますように。
                                         神に感謝

 多摩カトリックニューズ表紙へ戻る