【カトリック上野教会】
2016年10月9日 年間第28主日
・ 第1朗読:列王記:(列王記下:5・14-17)
・ 第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ2:8-13)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ17・11-19)
【晴佐久神父様 説教】
先週のパレード、ご覧になりましたか? リオ・オリンピックのメダリストたちの祝賀パレード(※1)。80万人集まったって。私、結構そういうお祭り好きなんで、行きたかったんですけど、ちょうど同じ時間に入門講座があって行けなかった(※2)。(笑) ・・・ちなみに、「私、行きました」っていう人、いますか? ・・・あれ? ここにはおられないみたいですね。
私、ああいう、「みんなが一緒に、心から喜んでる」っていうのが、やっぱり好きですね~。なんか、暗い世の中に神さまが与えてくださった、「恵みのひととき」みたいな。もちろん、何を祝っているかにもよりますけど、ともかくも、み~んなが笑顔で、心から喜んでいるというひととき、・・・いいですねえ。
あのバスの上で、メダルをきらめかせながら、みんなに手を振るのって、どんな気分なんでしょうね。せっかくこの世に生まれてきたからには、一度くらいあんなことしてみたいような気もするんですけれど。(笑) せめて下からでも手を振りたかったな。日本橋までなんて言わないで、上野まで来てくれれば行けたかもしれないんですけどねえ。
まあでも、今度、4年後の東京オリンピックのパレードは、どれだけ人が集まるんでしょうね。そのときは、上野まで来るかもしれないですね。あんなに短いコースじゃ足りないでしょうから、きっとね。・・・楽しみです。
「祝賀パレード」っていうのは、これはなんでやるかっていうと、喜びをみんなで分かち合うためですし、その勝ち取ったメダルならメダルを、「応援してくれたみんなに見せたい」「みんなと一緒に喜びたい」っていうことでしょう。
あれ、もらったあとは箱の中にしまっておいたって、意味がない。本番でせっかく感動をみんなに届けたのに、それっきりで、もう思い出さないっていうんでは、もったいない。やっぱり、せっかくの喜びをちゃんと「表す」、そのしるしをちゃんと「示す」のは、とっても大事なことですね。自分のもらった恵みを、いっそう生かすために、見えるようにちゃんと表す、みんなにちゃんと示す。・・・これ、すごく大事なことです。
っていうのは、喜びって、本質的にその人一人のことじゃないんですよね。自分一人で、「わ~い!金メダル取った~!」って喜んだって、そんなの、本当の喜びじゃない。みんなも感動して喜んでるんだし、喜びを共有したいから応援しているわけですし、やっぱり、「一人の喜びはみんなの喜びだ」っていう本質は忘れちゃいけない。メダリストがブスッとして、「こんなもん、大したことないっすよ。別に欲しくなんかなかったんですけどね」なんて言ったら、みんな、すごくがっかりするでしょ? やっぱり、素直に喜んで、それを分かち合いたいと心から願って、バスの上に笑顔で並んで、沿道で80万人が手を振るなんていうのは、喜びの本質をよく表していると思う。喜びは、隠しちゃいけないんですよ、隠しちゃ。
皆さんだったら、どんな喜びがありますか? ありましたか? みんなに表すべき喜び、示すべき感動、神から頂いた、うれしい、うれしい恵み、・・・ありますか? 必ずあるはずですよ。箱の中にしまってないですか? 自分だけの思い出にしてないですか? やっぱりそこはね、喜びはみんなと分かち合うものだと信じて、工夫して表し、示して、見せないと。実は、そうしてその喜びを表明しているときにこそ、本当の喜びがあるんだっていうことです。
「10人の人が病気を癒やされた」、そういう出来事が、さっき読まれました(ルカ17:11~19) (※3)。
「重い皮膚病」 (ルカ17:12) 、・・・どれだけつらかったか(※4)。それが癒やされて、どれだけうれしかったか。でもそれは、本人だけの喜びではなく、周囲の喜びでもあるはず。本人だけの感動ではなく、周囲の感動でもあるはず。
治った10人のうち、9人は、そのまま自分の社会復帰のために祭司のところに行きました。それはそれで当然かな、とも思うけれども、たった一人の外国人、サマリア人は、「祭司のところに見せに行って社会復帰する」という、自分にとってとても大事なことすら忘れて、大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した(cf.ルカ17:15-16)。
・・・自分の喜びを表してるんですよ。感動をみんなに示している。ここが肝心。
神への賛美を全身で表す。大声で叫ぶ。それを、みんな聞いてるわけです。感動が広まるでしょう? 「治ったんだ! よかったなあ・・・」っていう喜びが、周りに広まっていく。そして、
「治してくださったのは神なんだ! 神さまは、なんと偉大で、優しい方なんだろう」
そんな信仰が広がっていく。
癒やされた人の喜びが、みんなの目に見えることで、そのまま福音の宣言になってるんです。
「私を癒やしてくださったあのイエスさまこそは、神さまの愛、そのものだ!」
「私が治ったのは、神の力の、この世における実現だ!」
「あの方のところに、もう神の国は始まっている!」
彼の大いなる喜びが、そのまま、そのような彼の信仰宣言となっている。
叫びながら飛んで帰って来て、ひれ伏して感謝する姿を見て、「よかったなぁ・・・」と、中にはその場でもらい泣きする人もいたんじゃないですか?
神さまのみ
これ、「イエスさまはきっと治してくださるって信じたから、治って救われたんだ」という意味だけに取ったら、他の9人もそうだったわけですし、わざわざここで強調する意味がないというか、全体の筋が通らないですよね、この出来事の。
「あなたの信仰があなたを救った」(ibid.)ってイエスさまが言ってるのは、「自分の癒やしを信じた」っていうだけじゃなく、「癒やした方を神だと信じた」ってことでしょう。神の愛に癒やされたその喜び、神の恵みを受けたというその感動、それを全面的に表明し、人々の前でイエスの業を
ただ病気が治るっていうことが救いなんじゃない。それは単に個人的な救いです。ひとときの救いです。そうではなく、治ったことによって神を知り、神さまの愛に触れて、全面的に神を信じ、その喜びを人々の前に輝かせること。それによって、他の人も、「ああ、神さまって、なんて素晴らしい方だろう!」って気づいていく。これこそが、この人の救いであり、人々の救いです。
先週、私の絵本が再版されました(※5)。ぜひ、皆さんにも、読んでいただきたい。
『あぶう ばぶう』っていう絵本なんですけれど、絶版になってて、もう求めても手に入らなかったんですけど、「再販してくれ」という声をたくさん頂いて、出版元がまた刷ってくれました。今度は前のより、ちょっと小さい版にしたんですけど、それがかわいくって、内容にピッタリなんですよ。私としては、大好きな絵本なので、再版されてうれしいですし、また、「この絵本で、みんなの中に神さまの愛が広まっていくといいなあ」と、それこそ、「絵本自体が神さまの愛の目に見えるしるしとなって、誰かを救ってくれるといいなあ」と、心からそう願っております。
クリスマスの絵本なんですけど、中身は、ちょっと変わった内容です。
イエスさまがお生まれになったんですけど、まだ、何にも話せないんですね。そりゃそうで、たとえイエスさまでも、赤ちゃんの時からベラベラ話すわけじゃない。イエスさまだって、最初は、「あぶぅ・・・」とか、「ばぶぅ~」とか、そんなふうにしか言えない。それで『あぶう ばぶう』っていうタイトルの絵本なんですけどね。
このイエスさまのところに、羊飼いが、病気の子羊を連れてやって来て、「この子羊を助けてください! 治してください!」ってお願いするんだけど、イエスさまはしゃべれませんから、「あぶう」とか、「ばぶう」とかしか言わない。だけど、それでも羊飼いが、「お願いします! 助けてください。なんとかしてくださ~い!」って頼み続けると、イエスさまが、小さなお口を大きく開いて、「あぶう、ばぶう、・・・だいじょうぶう!!」って言うんです。(笑)
これ、実際はですね、「あぶう、ばぶう・・・」のあと、次のページを開くと突然、「だいじょうぶう!!」って叫ぶんで、子どもたち、ビックリして大喜びするんですよ、このシーンで。
次に、3人の博士がやって来て、「悪い王様に追われていて、もう逃げる道がないから助けてくれ」って頼むと、イエスさま、おんなじように、「あぶう、ばぶう、・・・だいじょうぶう!!」って叫んで、子どもたちはまた、大喜び。
ところが、その次は、なんと、「さあ、つぎに来るのはだれかな。つぎは・・・きみのばん!」って書いてある。つまり、この絵本を読んでる子どもに向かって、言ってるんです。
「君も、つらいこと、悲しいことがあったら、イエスさまにお願いしてごらん。きっとイエスさまは答えてくださるよ」ってね。
で、今度は読んでる子どもに向かって、「あぶう ばぶう・・・」、ページを開くと、やっぱり「だいじょうぶう!!」なんですけど、これがすごいんですよ。イエスさま、見開き2ページいっぱいに顔がデカくって、両手をこちらに向かって開いてて、目をおっきく見開いて、読んでいる子どもの目を、まっすぐに見つめているんです。で、でっかい文字で、「だいじょうぶう」って叫んでる。そのシーン、強烈なんだけど、子どもたち、大好きですよ。なにしろ、自分に言われてるって思うから。
まあ、こんな絵本を書いたのにはわけがある。
最初に編集者が相談に来た時、「うちのクリスマス絵本、なかなか売れないんです」って言うんで、「それは本物の福音を伝えてないからでしょう。ちなみに以前のクリスマス絵本は、どんなんですか?」って言ったら、「これです」って見せてくれたのが、ほら、「飛び出す絵本」ってあるでしょ、ガサガサって出てくるやつ。あれね。まあ、ちょっと面白いとは思うけど、「はいはい、それで?」って感じじゃないですか。子どもだって、最初は面白がるけど、すぐ飽きる。
「そういう小手先のことじゃなく、ちゃんと本物の福音を伝えれば、長く愛される絵本ができますよ。子どもだって、子どもなりに苦しんでるんだから、イエスさまが直接、『だいじょうぶ!!』って言ってくれて、それでホッとする、そんな絵本にしたらいいじゃないですか」って申し上げたら、編集者が、「じゃあ、それ、作ってください!」って。で、この絵本になった。
だから、この、イエスさまが直接救いを宣言するところが大事。重い皮膚病で苦しんでいる人に直接癒やしを宣言するように、読んでいる人を見つめて、イエスさまが直接、「だいじょうぶ!」って言ってくれるシーンがとっても大事。それこそが神の愛だから。
この絵本を出版した時、あるおばあちゃんが、これを1冊買って帰って、5歳の孫に読んで聞かせたんですね。実はそのお孫さん、ぜんそくの発作で幼稚園に行けなくなっちゃって、ず~っとお休みしてたから、そのお孫さんを少しでも励まそうと思ったわけです。
ご存じでしょうか、ぜんそくの発作って、多くは心身症ですね。このお孫さんも、幼稚園でいじめられたか、何か失敗してうまくいかないことがあったか、ともかく小さな心にとって、ストレスがすごくあって、それで心が閉じちゃって、体も閉じちゃって、声も出なくなって。・・・発作ですよね。体がもう、「あの怖い所に行きたくない!」って拒否反応を起こしてるわけですよね。
そんな孫に、おばあちゃん、この絵本を読み聞かせして、最初の羊飼いのところで「だいじょうぶう!」ってやったら、子どもの目がパッと輝き、続いて二つ目の博士たちのところの「だいじょうぶう!」では、その子も「だいじょうぶー!」って、大きな声で言ったんで、おばあちゃん、ビックリした。「この子、発作を起こしてから、こんなに大きな声、出したことがないのに」って。幼稚園に行けなくなって、声まで出なくなってお家にいる、その子がね、「だいじょうぶー!」って大きな声を出したんですよ。
おばあちゃん、うれしくなってね、三つ目の、「つぎは・・・きみのばん」「かなしいことや つらいことが あったら どんなことでも いえすさまに おはなし してごらん」っていうところで、イエスさまが直接「だいじょうぶう!!!」ってやったら、躍り上がって喜んで、「だいじょうぶう! だいじょうぶう!」ってはしゃいで、なんと翌日から幼稚園に行けるようになり、以後、ぜんそくの発作が治まったんですよ。
「さあっ、一家に1冊、たったの750円!」・・・って、(笑)そういう商売じゃないですけど、でも、これは知ってほしいですよ。イエスさまから直接、「だいじょうぶう!」って言われたら、そしてホントに素直にそれを受けたら、変わっちゃうんですよ、心も、体も。・・・このサマリア人がそうだった。どれだけうれしかったか。この子にとってもそう。イエスさまから、「だいじょうぶだ」と、そう言われて、どれだけうれしかったか。人生が新しく始まったっていうことですよ。
さて、話はここで終わらない。これだけだったら、他の9人と一緒でしょ、さっきの話でいうならばね。・・・「ああ、よかった、よかった」の話。
この女の子のおじいちゃんが、その後すぐに、がんになったんですね。おばあちゃんの旦那さんですね。このおじいちゃんは、信者じゃないんですけど、がんになって、めちゃめちゃ落ち込みました。っていうのは、生まれて初めての大病、入院なんですね。実際には、手術すればすぐに治っちゃうような簡単ながんだったんですけど、それまで健康に恵まれてたせいもあって、ひどく落ち込んだ。うつのような状態になって、「もう自分は終わりだ・・・」と思い込んだんでしょう。
ところが、本人はもう、ショックのあまり、真っ暗い気持ちで手術に望もうという、その時に、病院に、この孫娘がこの絵本を持ってやって来て、「おじいちゃん、読んであげる」って言って、「だいじょうぶう!」ってやってくれたんですって。
・・・このお孫さん、なんでそんなことやってるか、分かりますよね。
自分もそれで救われたから、愛するおじいちゃんもそれで救われるって信じてるんですよ。
「だいじょうぶう!」って読んでもらって、まあ、おじいちゃんはびっくりもしたし、喜んだ。そして、つきものが落ちたように、「信じる」ってことに目覚めたんです。
「五つの孫娘に励まされるなんて、俺は一体今まで、何を落ち込んでたのか。この子が信じて元気になったように、自分も『だいじょうぶだ!』と信じよう」、そう思った。そうして、「ここから先、もう何も恐れず、『だいじょうぶ』って信じよう!」と決心して手術に向かい、もちろん全快しました。
退院したら、すぐに教会に来て、「神父さん、私にも洗礼、授けてください。孫と、おんなじ信仰に入ります!」と、そうおっしやって、洗礼を受けました。
これ、5歳の子の福音宣教ですよ。5歳で、信者一人、増やしてるんですよ。
5歳でできるんです。イエスさまから癒やされて、それが神さまからのものだと信じて、その自分の喜びを隠さずに、絵本を持って出かけて、みんなにちゃんと見せる。そうして他の人にも、癒やしの喜びを広める。そこに、神の国が現れる。
隠してちゃいけないんです。信じて、喜びを持って出かければ、みんな救われます。
上野教会も、日中は鍵が開くようになりました。
喜びを分かち合うために、だんだんと、人が大勢集まる教会にしていきましょう。
11月4日に、ここで講演会をしますから、ぜひ皆さん、いらしてくださいね。
私、縁あって親しくさせていただいていて、いろいろ教えていただいてるんですけれども、今回の講演会のテーマが、「憲法9条と『神の国』」っていうタイトルなんですよ。なんて魅力的なタイトル!
・・・「憲法9条と『神の国』」
言わんとしていることは、憲法9条は、実は、カントの「永遠平和」(※7)とか、アウグスティヌスの『神の国』(※8)に基づく本質を持っている。なぜそれが、この日本において実現し、かつ、長い間定着しているのか。そこを語ってくださいます。
・・・まあ、実質的に守られてるかどうかっていうようなね、話は置いとくとして、今、次なる世界戦争を回避するために、私たち人類がこのような
宗教的に言っても、私はやっぱり、あの憲法からは、他に例のない香りが立ち上っていると思う。純粋贈与の香り。それはまさしく、神さまが、なんとかこの世界を平和にするために送り込んだ、あの「歩く憲法9条」みたいなイエス・キリストの香りが、この憲法に漂っている。・・・私はそう思う。
イエスさまは、「敵を愛せ」と言い(cf.マタイ5:44、ルカ6:27、6:35)、「自分を迫害する者のために祈れ」と言い(cf.マタイ5:44)、「右の頬を殴られたら左の頬を出せ」と言い(cf.マタイ5:39)、自らを、すべての人に、無条件に贈与するという、あの十字架の上で、「私に釘打ったこの人たちをゆるしてください」と祈り(cf.ルカ23:34)、それによって、この世界に神の国の喜びを「復活」させたんです。
キリスト教は、透明です。イエスの「復活」は、今、神さまの恵みのうちに、あらゆる宗教、あらゆる社会の現場で、普遍的な形で現れております。憲法9条なんていうのも、そのような透明な意味で、神さまの、この世界への愛の「目に見える一つのしるし」なんじゃないですか? 神の国が、この日本で、今、花を開かせようとしているということの表れなんじゃないですか? そもそも、われわれ自身、そのような神の愛のしるしに守られて、とりあえず平和に、この70年、生きてきたんじゃないか。もう少し、「大声で賛美」「ひれ伏して感謝」があってもいいんじゃないか。
11月4日金曜日、18時半開場、19時開演。この上野教会の聖堂です。ぜひいらしてください。無料です。私も最初にごあいさついたします。
・・・まあ、柄谷さんは超一級の思想家ですから、非常に学問的な話ですけど、しかし、それでいて、とてもシンプルで心を打つお話をしてくださると思います。私はあいさつで、今申し上げたようなことを少し、皆さんと分かち合いたいと思っております。
歴史の証人になれますよ、この講演会。ぜひ、聖堂いっぱいにしたいと思っております。
私なりに、自分の頂いた恵みを、なんとか表現したい、頂いた喜びを何とか分かち合いたいって、いつも思っておりますし、このような講演会も、私なりの、そのような工夫の一つです。皆さんも一緒に、救われた喜び、神さまの愛に触れた感動、それをなんとか目に見えるかたちで表していきましょうよ。
「神の国は、ここに来ている」という信仰を持って、ホントに、「争わない」という、「決して
イエスさま、おっしゃいました。
「平和を実現する人は幸い。その人は神の子と呼ばれる」(cf.マタイ5:9)
私たちは、「神の子」と呼ばれたい。ささやかながら、いただいた恵みを花開かせる工夫を、ご一緒に始めていきましょう。
そしてやがて、天国で、「まことの神の子」という勲章をつけてもらい、「平和の実現のために働いた」っていうメダルをかけていただきましょうよ。
・・・天国のパレードなんて、すごいんじゃない?
沿道に80億人くらい、いるんじゃないですかねえ。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)
※1:「リオ・オリンピックのメダリストたちの祝賀パレード」
2016年8月5日から21日まで行われたリオデジャネイロオリンピックと、同年9月7日から18日まで行われたリオデジャネイロパラリンピックの日本代表選手団のメダリストによる合同のパレードが、10月7日(金)午前11時15分から、約40分間行われた。
ルートは、東京の銀座八丁目交差点~銀座通り口~日本橋室町・三井不動産本社前の約2・5キロ。
オリンピックのメダリストは58名のうち50名、パラリンピックのメダリストは38名のうち37名が参加し、4台のバス、2台のトレーラーに分乗。沿道にはおよそ80万人の人たちが詰めかけた。
※スライドショーになっています。画像にカーソルを合わせると矢印が表示されますので、ご利用ください。
>こちら をクリックすると、さらに多くの関連画像をご覧いただくことができます。
(参考)
・ 「リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックの日本代表選手団が合同パレード、80万人の大歓声に笑顔 (2016/10/7) 」(「リオデジャネイロオリンピック2016 ニュース」<「日本オリンピック委員会」)2016/10/9閲覧
・ 「Japanese Olympic Medalists Parade」(gettyimages)
・・・< 文中へ戻る >
※2:「ちょうど同じ時間に入門講座があって行けなかった」(>前掲)
晴佐久神父の入門講座は、主任司祭を務めるカトリック上野教会、カトリック浅草教会の双方で開かれています。各回完結で、無料。いつからでも大丈夫です。難しい勉強をするわけではありません。キリスト教の話を聞いてみたい方、つらい気持ちを抱えて救いを求めている方など、どうぞ、どなたでもお気軽にご参加ください。お申し込みは不要です。「洗礼が受講の条件」ではありません。
以下にご紹介しますが、休講、変更などの場合もありますので、詳細なスケジュールなどは、必ず、「(カトリック上野教会ホームページ(兼浅草教会)」でご確認ください。
*****
⛪カトリック浅草教会 (以下の情報は、2016年10月現在)
入門講座: 木曜19:00/金曜10:30
主日ミサ: 日曜10:00
=晴佐久神父司式は3、4週目
=5週目はカトリック上野教会と輪番
=10月30日(日)は本所教会@墨田区石原4-37-2/9:30~
住所: 〒111-0053 東京都台東区浅草橋5-20-5 (Google map)
電話: 03-3851-4009
交通アクセス: 詳細は、>>こちら(東京大司教区教会案内)】
◎JR(総武線)浅草橋(あさくさばし)駅西口から、徒歩約8分
◎都営地下鉄(浅草線)浅草橋駅A4出口から、徒歩約10分
◎東京メトロ(日比谷線)秋葉原駅1番出口から、徒歩約10分
*****
⛪カトリック上野教会 (以下の情報は、2016年10月現在)
入門講座: 水曜19:00/木曜10:30/第一(兼「福音講座」)・二日曜12:00
主日ミサ: 日曜10:00
=晴佐久神父司式は1、2週目
=5週目はカトリック浅草教会と輪番
=10月30日(日)は本所教会@墨田区石原4-37-2/9:30~
住所: 〒110-0004 東京都台東区下谷1-5-9 (Google map)
電話: 03-3844-4477
交通アクセス
◎JR(山手線、京浜東北線)鶯谷(うぐいすだに)駅南口から、徒歩6分
◎JR(山手線、京浜東北線、常磐線、高崎線、東北本線、秋田・上越・東北・北陸・山形の各新幹線)
上野駅入谷口(いりやぐち)から、徒歩8分
◎東京メトロ 日比谷線入谷駅1番、2番出口から、徒歩8分
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※3:「『10人の人が病気を癒やされた』、そういう出来事が、さっき読まれました(ルカ17:11~19)」
この日、2016年10月9日(年間第28主日)の福音朗読は、以下の箇所が読まれた。
ルカによる福音書17章11~19節
〈小見出し:「重い皮膚病を患っている10人の人をいやす」〉
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※4:「『重い皮膚病』(ルカ17:12)、・・・どれだけつらかったか」
「重い皮膚病」は、鱗癬(りんせん:皮膚の表面が硬くなり、剥がれ落ちる)、斑紋(はんもん)を共通の特徴とし、日本語でいうらい病(ハンセン病)とは必ずしも同一ではない。
旧約聖書のレビ13-14章は、始めに「湿疹」「斑点」「疱疹」の3種類に言及している。伝染性の汚れとされており、病気が治って償いのいけにえを捧げて清めの式に与るまで、共同体から除外され、遮断、隔離された。(レビ13:4他、ルカ17:12)
他の人に近づくことは許されず、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、遠くから、「私は汚れた者です」と言わなければならなかった(レビ13:45)。
病気が進行すると、顔つきの凹凸が変わってしまったり、指が失われたり、関節が曲がったままになってしまったり、歩けなくなったり、失明することがあったりするので、そのような外に現れる症状からも、忌み嫌われてしまっていた。その上、律法では、神が罪びとを「打つ」、厄災中の厄災とされ、原則として、罪のしるしと考えられていたので、差別と偏見は甚だしく、患者の苦しみは想像を絶するものだったと考えられる。(レビ13~14)
この病であるという判定、治癒の判定を下すのは、共に祭司の役割りだった。
(参考)
・ 「らい」 〔英〕leprosy (『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「癩病」(『聖書思想事典』三省堂、1993)
・ 『聖書と典礼 「年間第28主日 C年」2016.10.9』 5ページ欄外 他
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※5:「先週、私の絵本が再版されました」
◎ 『あぶう ばぶう』 (文/晴佐久昌英・絵/かにえこうじ)
2010年10月に、A4版の大きな絵本で販売されていましたが、今回、新装版として戻ってきました。
ちっちゃな子どもも手にしやすい、通常よくある絵本のサイズ、A5版です。
☆☆☆
出版社: ドン・ボスコ社
対象:幼児~
A5版上製、31ページ
発売日:2016/09
販売価格: 810円(税込)
☆☆☆
紹介文
「生まれたばかりのイエスさまを訪れてきたのは、悩みを抱えた羊飼いと博士たち。一生懸命お祈りしていると……、あら? イエスさまが何かお話ししたそうですよ!」(ドン・ボスコ社HPより)
(販売先)
・ 「あぶう ばぶう」(ドン・ボスコ社)
・ 「あぶう ばぶう」(Amazon)
・ 「あぶう ばぶう」(PAULS SHOP) 他
(参考)
・ 「神さまの後始末」(「福音の村」2013/10/13説教>この辺~)
・・・< 文中へ戻る >
※6:「柄谷行人さん」(既出)
◎柄谷 行人 (からたに こうじん、1941年8月6日-)
日本の哲学者、思想家、文学者、文芸評論家。本名は、柄谷義男。兵庫県出身。
1965年、東京大学経済学部卒業。1967年、同大学大学院英文学修士課程修了。1969年、『〈意識〉と〈自然〉 漱石試論』で、第12回群像新人文学賞を受賞後、文芸評論家として出発。イエール大学客員教授、法政大教授、近畿大教授、コロンビア大客員教授などを歴任し、批評誌『季刊思潮』『批評空間』を創刊。『マルクスその可能性の中心』(1978年/亀井勝一郎賞)、『坂口安吾と中上健次』(1996年/伊藤整文学賞)、『定本 柄谷行人集』全5巻(岩波書店、2004年)、『世界共和国へ』(岩波新書、2006年)、『トランスクリティーク カントとマルクス』(岩波現代文庫、2010年)、『倫理21』(平凡社ライブラリー、2013年)、『帝国の構造 中心・周辺・亜周辺』(青土社、2014年)、『世界史の構造』(岩波現代文庫、2015年)、『憲法の無意識』(岩波新書、2016年)など著書多数。
(参考)
・ 「柄谷行人」(公式ウェブサイト)
・ 「柄谷行人」(ウィキペディア)
・ 「柄谷行人/著者ページ」(Amazon)
・ 「本来の楽園の高次の回復」(「福音の村」2016/4/24説教>この辺~)
・ 「『憲法9条』を巡って 意義問い直す 柄谷行人の刺激的な議論」(『西日本新聞』2016/7/1 論壇時評)2016/10/10 閲覧
***
11月4日(金)カトリック上野教会での講演会については、>こちら でもご案内しております。会場へのアクセスなど、宜しければご参照ください。
・・・< 文中へ戻る >
※7:「カントの『永遠平和』」
イマヌエル・カント (1724‐1804) の平和に対する理念。
「平和とはあらゆる敵意の終結を意味する」という、一見、完璧で、理想主義的な理念だが、それは決して空虚な理念ではなく、人類の課題であるとして、戦争を防止し、平和を打ち立てていくために、普遍的かつ具体的な方策を、『永遠平和のために』という著作で展開している。
◎『永遠平和のために』
1795年、イマヌエル・カント著
副題は、「一哲学的考察」で、政治哲学の著作。
世界の恒久的平和はいかにしてもたらされるべきか。カントは、常備軍の全廃、諸国家の民主化、国際連合の創設などの具体的提起を行ない、さらに人類の最高善=永遠平和の実現が決して空論にとどまらぬ根拠を明らかにして、人間ひとりひとりに平和への努力を厳粛に義務づける。あらためて熟読されるべき平和論の古典。(「BOOK」データベースより)
(参考)
・ 「永遠平和のために」(ウィキペディア)
・ 「永遠平和のために」(Amazon)
・ 「カント『永遠平和のために』を超コンパクトに要約する」(Philosophy Guides)など
・・・< 文中へ戻る >
※8:「アウグスティヌスの『神の国』」
◎『神の国』
413年着手、426年に完成。アウグスティヌス (354-430) 著。
『告白』『三位一体論』と並ぶアウグスティヌス代表作の一つ。22巻から成る。
歴史哲学、宗教哲学の古典として、西欧の後のあらゆる思想潮流に対して、多大な影響を与えた。
執筆当時は、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認(313年)の後だったが、反動勢力は根強く残っていた。彼らは、410年のゴート族による首都ローマ陥落の危機は、キリスト教が原因であるとしたが、本書はそれに対して護教的論陣を張った。
言うまでもなく、根本的な、「神の国」と「地上の国」の対立は、単に可視的教会と、世俗国家の対立ではなく、自らへりくだり受肉した神に心を開く愛と、閉じられた自己愛との対立として捉えられている。
(参考)
・ 『神の国』 De Civitate Dei (『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「神の国」 (コトバンク)
・ 「神の国(アウグスティヌス)」(ウィキペディア)
・ 「『神の国』セット全5冊」 (岩波文庫<岩波書店、1998) Amazon
・ 『神の国』1~3(中公文庫<中央公論新社、2014)Amazon 他
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