マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

マリアの宣教者フランシスコ修道会

ローマでは新任の布教聖省長官に暖かく迎えられ、教皇レオ13世の謁見に参加し、ダヴィド司教もマリ・ド・ラ・パシオンも希望に満ちてサン・ブリューに帰りました。修練院はノヴィスたちで溢れ、マリ・ド・ラ・パシオンは彼女たちを修道者、宣教者としてしっかり養成するために、より広い土地と家を購入する必要に迫られました。たまたま1880年6月、サン・ブリューから約7Kmのシャトレで、広い地所が売りに出されているニュースが入りました。そこはフランス革命以前、サン・ブリューの司教のもので、広々とした土地は、森や野原に囲まれ、荒れ果てた家屋も残されていました。マリ・デュ・サンテスプリの父エルスヴィル氏はこの土地を購入して、本会に寄贈されたのです。シスターたちは勇ましく掃除に取り組み、家屋からふくろうを追い出し、修理し、見る見るうちに磨きあげ、周囲の土地も少しずつ整理して、農耕に従事するシスターたち、家畜小屋でにわとりや豚の世話をするシスターたちの姿が、ここかしこに見られるようになりました。1881年には増築が始まり、それまでサン・ブリューに住んでいたマリ・ド・ラ・パシオンもシャトレに移り住むことになりました。

ラファエル神父と語る創立者

1882年になるとダヴィド司教の健康が急速に衰え、ヨーロッパで唯一の保護者を失う不安にかられたマリ・ド・ラ・パシオンは、創立の自治権や経済問題など大切な問題を解決するため、パリ外国宣教会のルーセイュ総長に相談した上で、再度ローマに行くことを決心しました。同年6月彼女は2人のシスターを伴ってローマを訪れ、フランシスコ会総長宛の紹介状をもって本部のあるアラチェリに向いました。あいにく総長は旅行中でしたが、フランス人で本部評議員のラファエル神父に会い、数回話すうちに、本会の置かれている立場を説明し、信頼を深めていきました。ラファエル神父は、会憲がまだ認可されていないことを知ると、3日のうちに仕上げて提出するように、マリ・ド・ラ・パシオンに求めました。彼女は従い、コリゼオ(円形闘技場)の石に腰掛け、祈りつつ宣教会の会則を考え、3日目の夕方、ラファエル神父の手に原稿を渡しました。その後マリ・ド・ラ・パシオンはラファエル神父に霊的指導を願い、良い返事を受けることができ、これは生涯続けられました。

彼女がローマに滞在中のある日、プリンセス マッシモの思いがけない訪問を受け、プリンセスはローマに修道院を設立することをすすめ、ローマの権威者たちに推薦しようと約束されました。ラファエル神父に相談したところ、この良い機会を利用して話しをすすめるように言われ、布教聖省長官やローマの補佐枢機卿にも要請を出し、予期しない速さで7月27日に聖座からの設立許可がおりました。こうして8月にはヴィア・フェルーチョ1番地に小さな家を一時的に借り、8月18日には引越しも終わってミサが捧げられたのでした。その後マリ・ド・ラ・パシオンはラファエル神父の助言もあって、ヴィア・ジュスティに建設中の家の購入に踏み切り、将来に備えました。聖エレン修道院と呼ばれたローマの家で9人のシスターたちは喜びのうちに共同生活を始めマリ・ド・ラ・パシオンは、グループの魂、頭、心となり、彼女の精神を与えていました。

1882年は、もう一つの大きな恵みが彼女に与えられました。インドにいた時すでに、アシジの聖フランシスコの第三会の手引書を研究し、何時もフランシスコとクララの子として愛を抱いてきた彼女は、祈りのうちに、フランシスコの光を受け、個人的に第三会への入会をラファエル神父とベルナルディノ総長に願い、受け入れられたのでした。10月4日は、聖フランシスコの生誕700年記念にあたり、マリ・ド・ラ・パシオンは、マリ・ド・サント・ヴェロニックと二人で、アラチェリのサント・バンビノ聖堂で、第三会に入会できたのです。さらに彼女はラファエル神父を通して、総長ご自身からも指導をいただくという特権を受けることができました。次いで12月8日にはローマの共同体のシスターたちがラファエル神父により、フランシスコ会第三会に受け入れられました。

シスターたちと
シャトレ修道院の庭で

幸せだった1882年に比べ、1883年は苦悩に満ちた年でした。1月には布教聖省の命令で、ローマの修道院の人数を4名に減らすように言われ、3月16日には、教皇により突然マリ・ド・ラ・パシオンは会長職を解任させられました。彼女は直ちに従い不可解な命令に苦しみつつ神の摂理に身をゆだねたのでした。真理が遂に日の光を見たのは1884年春のことで、審査の結果、彼女に課せられた不当な屈辱は晴れ、教皇はご自身で彼女の復権を決定されたのです。7月の総集会で彼女は満場一致で会長に再選されました。
1885年には聖座より会憲の第一回の認可を受け、本会を聖フランシスコ小さき兄弟会総長の指導のもとに置き「マリアの宣教者フランシスコ修道会」の名称をもつことが正式に許され、1896年には会憲の最終的認可を受けることができました。基礎固めができた本会は、その後、国際的、多文化の共同体の中で、聖体の礼拝とあますところなく自分をささげることに励みながら、世界の人々に神の愛を知らせ奉仕するため、ヨーロッパの各地、アジア・アフリカ・アメリカへとはばたいていきました。

1900年には中国のタイヤンフーで7人のマリアの宣教者フランシスコ修道会員が殉教し、「私は今、7人の殉教者の母であるという考えが私に与えた衝撃を、とても言葉にすることはできません」と語っています。彼女の健康は目に見えて弱っていきました。心臓の発作、水腫の悪化・・・けれども生き生とした知性と豊かなエネルギーは人の目をあざむきました。次々にヨーロッパ各地の修道院を訪れ、シスターたちを活気づけ、喜びを与え、一致に努めました。遂に1904年11月4日 サン・レモで、彼女は主に召されたのでした。

1905年の総集会の統計で会員数は2,069名、修道院数は88(8管区25ヶ国)となっています。2002年10月20日、彼女は列福されました。