マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

マリアの宣教者修道会創立と初期の歩み

苦しみと不安のうちに神の望まれることのみを求めて祈り続けていたマリ・ド・ラ・パシオンと三人のシスターたちのもとに、突然大きな喜びがもたらされました。1877年1月5日、布教聖省長官フランキー枢機卿は教皇の決定を伝えてくださいました。ピオ9世はインドのコインバトゥールのバルド-司教の意向を確かめた後、彼の司教区内に「マリアの宣教者修道会」を設立することを許可されたのです。枢機卿はマリ・ド・ラ・パシオンに特にミッションに適した会憲を書き、宣教女を派遣できるように、フランスに修練院を開くように勧めました。 翌1月6日、ご公現の祝日に、バルドー司教宛にローマの決定を知らせる電報が打たれたので、この時からご公現の祝日は修道会の創立記念日として感謝と喜びのうちに祝われてきました。

最初の家

休む間もなく、マリ・ド・ラ・パシオンは一人のシスターを伴って、修練院の設立のためローマをあとにして旅路につきました。ボルドーやパリでは話がまとまりませんでしたが、ブルターニュ州のサン・ブリューを訪れた時、ダヴィド司教は暖かくシスターたちを歓迎され、ご自分の司教区に宣教修道会を創立することを寛大に許可されました。恩人も現れて、一軒の小さく貧しい家まで見つけることができたのです。シスターたちが入居すると、ダヴィド司教は聖堂に聖体を置く許可もくださいました。これは当時としては稀な恩典でした。こうして1877年4月7日サン・ブリューの貧しい修道院で最初のミサが捧げられたのです。生活は組織立てられ、パリに残した二人のシスターも合流し、早くも召命を感じた若い人々が近隣の主任司祭の紹介で、入会を願いに訪れました。外国宣教に捧げられた新修道会がサン・ブリューに設立されたことは、人々の興味と関心を非常にそそりました。入会希望者は次々現れて、小さな修道院は狭くなり、二度も引越しをしなければなりませんでした。

ダヴィド司教

バルドー司教はインドのコインバトゥールで、マリ・ド・ラ・パシオンが送ったプラン(修道生活の大綱)を認可され、全会員が選挙をした結果、新しい修道会の会長としてマリ・ド・ラ・パシオンが全員一致で選ばれたことを知らせてきました。 このプランには修道会の目的とカリスマ、私たちの召命がすでに示されています。マリアの宣教者は教会と人々のためにあますところなく自分を与え、罪の償いをし、聖母マリアに倣って人々にイエスを知らせることによって世の救いのために身をささげます。また聖体の顕示と礼拝を大切にし、祈りと活動を通して宣教者として、神がまだ知られていない土地、遠い国々にも行き、愛と平和、謙遜のうちに人々に奉仕します。
サン・ブリューでは着衣式が定期的に行われるようになり、1878年2月には宣教女の第一群がインドに出発しました。マリ・ド・サン・ジャン・バプティストと五人のノビスたちで、コインバトゥールに新しく修道院を作り、インド在住のシスターたちを助けました。当時、本会はまだインドのコインバトゥールとフランスのサン・ブリューの司教区でしか知られてなく、不信や誤解が散発的に示されることがありました。

最初の仲間のシスターたち

修道会の保護者ダヴィド司教は1880年4月、ローマに行かれる時、マリ・ド・ラ・パシオンを伴う必要があると判断され、実行に移されました。 それは1878年に教皇ピオ9世が亡くなり,布教聖省長官も変わっていたので、マリ・ド・ラ・パシオンみずから修道会の現状と立場を説明するのは大切なことだと思われたからです。ローマへの旅の途中で、マリ・ド・ラ・パシオンはロレットの聖母やアシジに巡礼して勇気を願い、深い感銘をうけました。ナントのクララ会の修道院からずっと、どこにでも、聖フランシスコの影は彼女につきそっていました。