マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

マリ・レパラトリス会時代

1863年、へレンはイエズス会のプティ神父に会い、召命について相談しました。神父は創立時に援助したマリ・レパラトリス会を彼女に紹介し、この修道会の総長メール・マリ・ド・ジェズに手紙を書いて入会を願うように勧めました。ヘレンの心はいつもアシジの聖フランシスコに向いていたので、この提案を重い心で受け止めましたが、他方、これが修道生活を望み続けている彼女への神の答えかも知れないとも考えました。マリ・レパラトリス会の総長はへレンの入会希望を受け入れ、1864年5月パリに来るように彼女を招きました。ヘレンは再び家族との別離という辛い時を迎え、特に父との別れに苦しみました。パリで総長はヘレンを暖かく迎え、すぐ彼女をトゥールーズにある修練院に送りました。こうしてヘレンの志願期は始まり、祈りと沈黙の日々はヘレンを魅了しました。同年8月15日、聖母被昇天の祝日にヘレンは着衣し、マリ・ド・ラ・パシオンの修道名を受けました。マリアの神への奉献と、キリストの受難を深く黙想したヘレンには、両者が生きぬいた「Ecce」(私はここにおります)のことばが、この日強く刻まれたのです。

ところでイエズス会では、ずっと以前からインドのマドュレ地方に宣教師を派遣していました。そこでは若いインドの女性の中に修道生活への招きを感じる人たちもあって、宣教師たちは堅実な養成をし、熱心に自分たちを助けてくれるヨーロッパのシスターたちを必要としていたのです。依頼を受けたマリ・レパラトリスの総長は祈った後、一つのチャレンジとしてこれに応える決心をし、1859年7人のレパラトリスからなる最初のグループをインドに派遣しました。その後も宣教地からのシスターたちを求める要請が続き、数回にわたってシスターたちが派遣され、1865年までにマドュレ教区に3つの修道院が開設されました。レパラトリスのシスターたちを待ち受けていた生活は、決して容易なものではなく、地理的にも文化的にも、また宗教的にも、予想も経験もしたことのない状況の中で、修道生活に適応しなければなりませんでした。その上、自分たちと言葉もメンタリティも違うインドの若い女性たちを、修道生活に向けて養成することが求められたのです。総長メール・マリ・ド・ジェズは、この大胆な企てに最良の若い会員を派遣するように心がけ、遂にまだ修練者であったマリ・ド・ラ・パシオンに派遣命令が出されました。

ヘレンが入会したトゥルーズのレパラトリス修道院聖堂

ヘレンが入会したトゥルーズのレパラトリス修道院聖堂

1865年3月19日、マルセイユのノートル・ダム・ド・ラ・ガルド大聖堂で私的誓願を宣立したマリ・ド・ラ・パシオンは、2人のシスターと一緒に出帆しました。長い辛い航海の後、一行はまずマドラスに、ついでトリチノポリに到着しました。マリ・ド・ラ・パシオンはマドュレ教区のいくつかの家で宣教生活の体験を始めました。牛車での長い旅、息詰まりそうな暑さ、不便で貧しい小さな家、ライフ・ラインさえも事欠く厳しい貧しさの中で、風土や習慣などに適応するのは容易ではありませんでした。彼女はすべてを自分の目で観察し、土地の言語であるタミール語を習い始め,それに親しみを感じるようになりました。1866年5月3日、ツチコリンで有期誓願を立てた彼女は、直ぐこの家の院長に任命されました。彼女の活動は人々に喜ばれ、1867年1月には28歳でマドュレの3つの修道院の管区長に任命されたのです。

インドに派遣された当時の マリ・ド・ラ・パシオン

インドに派遣された当時の
マリ・ド・ラ・パシオン

管区長になったマリ・ド・ラ・パシオンはツチコリンに住み、定期的に他の二つの修道院を訪れ、行く先々で事業や宣教プロジェクトが軌道にのり、使徒職が発展するように励まし、活気づけました。キリスト教信者の家族では、誕生から臨終までのあらゆる霊的必要に応え、地域のすべての人々に物的必需品も供給していました。また、要理クラス・黙想会・秘跡の準備・すべての人に開かれた学校を開設し、診療所では宗教やカストに関係なく、数え切れないほどの病人を迎え入れ、女性のためのシェルターでは、主にキリスト者でない女性を受け入れていました。